説教「仰天の歌」ー神の慈顔と神の御業に目を注ぐー詩篇123編 都もうでの歌④ー 深谷牧師

2020年8月30日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇123編
説教者:深谷 牧師
 

 クリスチャンの人生は巡礼の旅ですが、その中心ともいうべき内容は「礼拝」です。礼拝においてわたしどもは必要なすべてを与えられます。神の慈顔を仰ぎ、神の言葉を聞いてゆく中で、この世の虚しさ、自分の弱さ、自分の罪を知ります。そして造り主、救い主なる神を知ります。十字架を知り、復活を知り、聖霊への明け渡しを知り、聖霊の満たしを知り、キリストの再臨を知り、永遠の命の世界を知ります。主の御前に静まり、天を仰ぐ礼拝は信仰生涯の中心です。礼拝こそ、わたしどもの、慰めと平安と喜びの源なのです。 

【今日の聖書箇所の解説】  詩篇123篇は「都もうでの歌」の4つ目の歌にあたります。120篇が神の救いを切望する巡礼の「志望の歌」、121篇は「出発の祈りと旅の安全祈願の歌」。122篇は「エルサレム到着と救いの門への入場の歌」、123篇は、詩人はさらに進んで神殿に入り、礼拝堂で「主の臨在の玉座を仰ぐ礼拝の歌」として歌われています。

 

【メッセージのポイント】

1)1 天に座しておられる者よ、

わたしはあなたにむかって目をあげます。(1節)

⇒ 仰天の時!

 この詩人は今、困難な旅路を越えてエルサレムに到着し、シオンの丘にあった神殿で礼拝をしています。

 この詩は「天に座しておられる方よ、わたしはあなたに向かって目をあげます」と歌いはじめます。

 彼は天を仰いでいます。「仰天」とは日本では驚いたときに使う言葉です。「びっくり仰天」と言います。あまりの意外な出来事にびっくりし、思わず天を仰ぐという意味です。礼拝とは「新鮮な驚き」です。驚きをもって天を仰ぐことなのです。造り主は天におられます。驚くべき愛とゆるしとをもって、われらを見つめておられるのです。われらはその慈愛の深さ、大能のみ力に驚き、天を見上げるのです。

 

 絶望の荒野で石を枕しつつ、天から降る逆さはしごを見、主の臨在に驚き、「ここは何という恐るべきところ、こここそ天の門だ!」と叫んだヤコブのように、天を見上げるのです。

 20年以上前の、もう忘れてしまったような罪が暴かれ、兄弟で殺してしまったようなヨセフがエジプトで総理大臣となり、自分たちの悪行に対して赦しと愛をもって臨み、イスラエル民族を救うという神の計画を知って、恐れとおののきに満ちたヨセフの兄弟たち。これらの人々のように、わたしたちは驚きと感謝の思いをもって神の摂理の恵みに、天を仰ぐのです。

 また、主の十字架の出来事に直面し、「この方は神の子であった」と驚き、信仰の告白をしたローマの百人隊長のように、わたしたちは神ご自身の恵みの御顔と御救いの尊さに、ひれ伏して天を見上げるのです。

 天を仰ぎ、礼拝を捧げること。「都もうでの旅」「人生巡礼の歌」の中心と目的は、この礼拝にあるのです。

 愛する兄弟姉妹!わたしたちは、人生巡礼の旅路において、いつでも「主日礼拝」を大切に守ってゆきましょう。

 ある方がこのような今回のコロナの経験の証しをされました。「今までは主日礼拝をなんとなく守っていたが、用事があるときには礼拝を休んでしまっていた。しかし、コロナ感染がひどくなって、外出できなくなり、自分の家において礼拝をするようになってからは、子どもたちが遊びに来ても、『日曜日の10:30からは礼拝だから、お父さんとともにお部屋で礼拝するから、失礼するね』と主人と共に、礼拝の時を持っているのです。」。すばらしいですね。ハレルヤ。

 

2)2 見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、

はしためがその主婦の手に目をそそぐように、

われらはわれらの神、主に目をそそいで、

われらをあわれまれるのを待ちます。    (2節)

 ⇒ 主の御手の業に目を注げ!

  詩人はここで繰り返し、「目を注ぐ」と3回も語っています。

「しもべがその主人の手に目をそそぎ、

はしためがその主婦の手に目をそそぐように、

われらはわれらの神、主に目をそそいで、」と告白します。

 わたしたちはいつも何に目を注いで生きているのでしょうか?あなたの目の前には何があるでしょうか?ある人には自分の仕事。あるいは結婚、あるいは病気、あるいはお金、あるいは空の財布、あるいは愛する人、あるいは嫌いな人、過去の栄光、現在の困難・・。

しかし、聖書は言います。

「目を注ぐべきもの」は「主の手」であると。何たる幸い!

 「主の手」を見上げるのです!全能の主の御手。エジプトから奴隷の民を導く力強い主の御手。荒野で反抗する民に差し伸べられた慈しみの御手。盲人の目に触れられる主の優しい御手。十字架に釘づけされたその苦悩に満ちた御手。トマスの触れた復活のしるし、愛のしるしなる主の恵みの御手!を見上げることなのです。

 神の御手とは、神様のなされた行為のことです。神様ご自身の救いの業のことです。礼拝は、旧約では出エジプトの出来事、新約では主イエスの十字架と復活のを見上げることなのです。主の贖いの御業、神様のなされた救いの御業を、その御手の業を見上げることなのです。

 さらに「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」と告白します。神ご自身に目を注ぐと告白するのです。今日の説教題は「仰天の詩」で、副題を「神の御慈顔と全能の御手に目を注ぐ」と致しました。わたしどもは神の全能の御手と共に、憐れみを垂れたもう神ご自身を、神の御慈顔を仰ぐのです。

 そして、福音の深淵なる神ご自身の救いの御計画。特に主イエスの十字架と復活の福音に触れ、全人類を導く神の御経綸にふれて、天を仰ぎつつ、「ああ深いかな!神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:33)と叫んだパウロのように、主の御手の業をはっきりと仰ぎつつ歩ませて下さい。

旧約の礼拝、お祭りは、過越しとペンテコステと仮庵の祭り。新約の礼拝は聖餐式に表わされるように主の十字架と復活の恵みです。

 

3)3 主よ、われらをあわれんでください。

われらをあわれんでください。

われらに侮(あなど)りが満ちあふれています。

4 思い煩いのない者のあざけりと、

高ぶる者の侮(あなど)りとは、

われらの魂に満ちあふれています。(3、4節)

⇒ 神の恵みで満たされ、侮りとあざけりに勝利せよ

 この詩の中で不思議な驚きを感じるのは最後の部分ですね。詩人は言います。「3 主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮(あなど)りが満ちあふれています。4 思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮(あなど)りとは、われらの魂に満ちあふれています。」2節3節で「あわれんで下さい」が三回も出てきます。「あざけりと侮(あなど)り」が2回繰り返されます。この巡礼者たちは、異民族から、毎日、「侮辱され、馬鹿にされる」ていました。「満ちあふれる」という言葉は「満腹している」という意味だそうです。「侮辱とあざけり」で、内側が満腹しています。

   心が傷つき、心が血を流しています。主よ、「わたしの心の傷を癒やすのはあなたのあわれみです」と告白しています。神のあわれみ、は「ヘーン」という言葉で、これが「ハンナ」とか「ヨハネ」とかに変化します。恵み、優しさ、愛の事です。

    礼拝において、神の真実に触れ、神の愛に触れ、神様の恵みで満たされ、わたしどもは回復するのです。神の愛、天の恵みで一杯となり、サタンの攻撃に勝利しよう。

 【祈祷】 全能の父なる神様。詩篇123篇を感謝します。われらはここで、天を仰ぎ、礼拝を捧げます。あなたに向かって目をあげ、あなたの御慈顔と全能の御手に目を注ぎます。あなたの驚くべき救いのみ業に霊の目が開かれますように。また日常での、傷つき、痛める心を告白し、あなたの「あわれみ」「恵み」「愛」によって心をいやして頂き、いよいよ恵みの中に健やかな歩みがなしえますように。この人生巡礼の歩みの中心に礼拝を据えて、主をたたえつつ今週も歩めますように!感謝して、主イエスの御名によって祈ります。アーメン