説教「炎・大水・激流」ー 主、共にいまさずば ー 詩篇124編 都もうでの歌⑤ー 深谷牧師

2020年9月6日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇124編
説教者:深谷 牧師
 

 18世紀のイギリスを信仰によって紳士の国に変えたと言われるジョン・ウエスレーは、その人生の最後に「もっとも良きことは、神、われらと共にいますことなり」と遺言を残しました。

 わたしどもの生きている時代は、今までの歴史にない大激動期といわれます。特に21世紀に入りまして、その激しさは増しています。2001年9・11のニューヨーク貿易センターのツィンタワーに旅客機が激突する衝撃のテロ事件。2011年3・11の東日本大震災、そして今年に入ってからの新型コロナ・ウィルスによるパンデミック(感染爆発)、そして、これから起こると言われる首都直下地震、南海トラフやそれに連動する巨大地震や大きな津波等のことなどを聞くと、いったい世界はどうなってゆくのだろうか?と不安になるのはわたしだけではないと思います。

いつの時代でも、試練や不条理は人生の常であります。わたしどもの「最善のこと」は、まことの造り主であり、救い主である神様を知ること、これであるとウェスレーは語ったのでした。天地創造の神様をお父さまと呼びうるこの恵みの世界を聖書は「信仰」と呼びます。人生の最も善きことは「善にして善をなしたもう神」を知り、信じることであり、そのとき、人は本当の愛を知り、大胆に人生にチャレンジする勇気と力を得ることができるのです。

 

【テキストの解説】

 詩篇124篇は「都もうでの歌」の5つ目の歌。「都もうでの歌」とはユダヤの巡礼歌集で、120から134編にいたる15篇歌集です。神の都エルサレムの神殿に向かって旅をする人々が、その信仰告白をし、それを共に歌い続けたものが、今、歌集として残されています。それはわたしどもの人生巡礼にも通じる珠玉の詩集です。

120篇は、神の救いを切望する「求道決心の歌」。

121篇は、山を見あげつつ困難な旅路に神の守りを祈る「出発の歌」。

122篇は、巡礼者がエルサレムに着き「救いの門への入場の歌」。

123篇は、エルサレム神殿で「神の御顔と御業を仰ぐ希望の瞳の歌」。124篇は、激動の時代を回顧し民の苦闘と主の守りを歌う感謝の歌。

 

【メッセージのポイント】

1)1 今、イスラエルは言え、

   主がもしわれらの方におられなかったならば、

  2 人々がわれらに逆らって立ちあがったとき、

   主がもしわれらの方におられなかったならば、(1、2節)。

     ⇒ イスラエルは言え!主がわれらの方におられなかったなら!

 この詩は短い詩ですが、非常に生々しい詩です。敵の大軍の大虐殺をのがれて、逃げてきた詩人達の激しい呼吸と息づかいが感じられるような詩です。

 彼は言います。「今イスラエルは言え!」。彼は恐ろしい魔の手から危うく逃れてきたのです。これは主の守りによるのです。この詩人は同胞に向かって今、叫んでいます。「同胞よ、神の民イスラエルよ。今、この救いの中に入れられた者よ、このように言え!」。神に向かって叫ぶ。人々に向かって語りかける。全世界に向かって信仰の告白をするようにと勧めるのです。   

 彼らは何を語るのでしょうか?何を告白しようとしているのでしょう?1節と2節で同じ言葉が2回繰り返されています。

 1  今、イスラエルは言え、

  主がもしわれらの方におられなかったならば、

 2  人々がわれらに逆らって立ちあがったとき、

   主がもしわれらの方におられなかったならば、

 という言葉は実は意訳で、直訳は「主が共にいて下さらなかったならば」という内容です。この詩の一番告白したいことはこのことなのです。今回は説教の副題に掲げて起きました。「主共にいまさずば」わたしたちはこの苦難を切り抜けることはできなかった。

「わたしたちに逆らう者が立ったとき、

 3 そのとき、わたしたちは生きながら、

 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。」

 神が共にいて下さったと言う「臨在の守り」なくして、わたしどもの存在はなかった、と彼は、心からなる感謝を神に捧げています。この恐ろしい敵、敵意の炎で飲み込もうとした敵はどのような存在かははっきり分かりません。しかし、それがアッシリアであっても、バビロニアであっても、あるいはペルシャやギリシャであっても、イスラエルの民はいつでも大きな試練と背中合わせに生き続けたのでした。

 

2)3 彼らの怒りがわれらにむかって燃えたったとき、

彼らはわれらを生きているままで、のんだであろう。

4 また大水はわれらを押し流し、

激流はわれらの上を越え、

5 さか巻く水はわれらの上を越えたであろう。 (3ー5節)

  ⇒敵意の炎、大水、激流、さか巻く水!

 この詩人は実に、厳しい、激動の時代に生きてきました。今、神さまの臨在の前で平安を与えられ、過ぎこし方を省みて語っているのです。ちょうど、小さい子供が夜中を一人で山野を駆け抜けて両親に会ってほっとしたときのような状況でしょう。

 「敵意の炎」「大水」「激流」「さか巻く水」が、わたしたちを襲った。それに対抗することはわたしたちにはできなかった。すべてが真っ赤な炎にまかれてしまう。津波のような激流がわたしたちを押し流し、わたしたちの頭上を越えて行く。神様の守りなくして今のわたしはない。神様が「わたしの味方として」共にいてくださったので今のわたしがある、と詩人は告白しているのです。

 激動の時代には、歴史の歯車が大きく動き、その軋(きし)みの中で、人々は辛苦を味わうことになります。数年前の、NHK大河ドラマの「八重の桜」に登場する、主人公の山本八重やその兄の山本覚馬などはまさに日本が江戸時代の武家社会から明治時代の近代社会にいたる動乱の時代、戊辰(ぼしん)戦争、会津戦争の悲劇その中を生きる人々を表現しています。火の中、水の中を通って、山本覚馬はやがてクリスチャンとなり、八重も洗礼を受けてクリスチャンになります。山本覚馬は戊辰戦争で失明しますがその先見の明を評価され、京都府の初代議長となります。彼が、新島襄がキリスト教の学校を作りたいと言っていた時に京都の自分の土地6000坪を提供し、同志社を建てることになり、やがて八重は新島襄と結婚することになります。

 この詩人の背景や、日本の戊辰戦争の背景のような激動の時代を持ち出さなくとも、わたしどもはわたしどもで、やはり火の中、水の中を通るのではないでしょうか?真実な魂であればあるほど、傷つき、倒れ、生きてゆくことができないような体験をするのだと思います。主がおられるがゆえに、わたしどもは生き抜くことができるのです。

 

3)6 主はほむべきかな。

主はわれらをえじきとして

彼らの歯にわたされなかった。

7 われらは野鳥を捕えるわなをのがれる

鳥のようにのがれた。

わなは破れてわれらはのがれた。(6-7節)

  ⇒ ハレルヤ、わなは破れてわれらは逃れた!

 「われらは野鳥をとらえるわなを逃れる鳥のように逃れた」といいます。敵は網を張り、神の民を一網打尽に捕らえ、殺害する計画だったのでしょう。どのような罠で、どのようにその罠が破れたのかは分かりません。しかし、主が不思議な業をなし、彼らは助かったのす。

 第二次世界大戦の時にナチスに捕らえられ強制収容所において、家畜以下の生活を余儀なくされ、虚しくこの世を去っていったユダヤ人のように、火のような苦難と試練のただ中にあった民の苦難脱出を連想させられます。

しかし、主はイスラエルを苦難から救われたのでした。今日、主の民であるわたしどもも主の不思議な守りの中で勝利するのです。

 

4)8 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。(8節)

 ⇒われらの助けは、主の御名にある! 

 詩人は今、歌います。「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」と。悪魔のわなを逃れ、今あるはただ主のあわれみによるのだ。われらの救い主なる神の臨在にこそ救いはあると!

 われらの生涯もまた主のみ前に出るとき、いかに多くの危険と誘惑とから守られて来たことかを覚えて感謝することでしょう。主イエスは、インマヌエルの主です。「臨在したもう神」です。わたしどもの罪と死を、十字架において、復活において、贖ってくださったお方が、「見よ、わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいる」と約束し、羊飼いのように守って下さるのです! ハレルヤ

 

【祈り】 全能の父なる神。わたしどもを、造り、救い、永遠の平安にまで、導いてくださることのゆえに感謝いたします。わたしどもの生涯は、時に試練の火の中、水の中、激流の中を通ります。あなたの臨在こそわが救いです。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

 

段落

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聖書箇所:詩篇124編
説教者:深谷 牧師
 

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