説教「主に信頼する者はシオンの山」 詩篇125編 都もうでの歌⑥ー 深谷牧師

2020年9月13日 敬老主日礼拝
聖書箇所:詩篇125編
説教者:深谷 牧師
 

今日は「敬老礼拝」です。人生の先輩たちに、兄弟愛と尊敬とをもって、共に、神様に礼拝を捧げましょう。礼拝の最後に、75歳以上の兄弟姉妹に、教会からささやかなプレゼントがあります。楽しみに。             山はよく不動心の表現に使われます。ご存じの武田信玄公の「風林火山」でも「動かざること山のごとし」と歌われます。しかし、その願望とは裏腹に様々なできごとに出会うと、わたしどもは「風に動かされる林の木のように(イザヤ7:2)」動揺するのが常のようです。

 【今日の聖書箇所の解説】

 詩篇125篇は都もうでの歌の6つ目の歌です。

120篇が神の救いを切望する巡礼の「求道決心の歌」。

121篇は巡礼の旅路の困難な山々を見上げる「出発の祈りの歌」。

122篇は困難な旅路を越えエルサレム到着「救いの門へ入場の歌」。

123篇はエルサレムの町から礼拝堂へ。「天の主を仰ぐ礼拝の歌」。

124篇は激動の生涯を回顧し「神の臨在の恵みへの感謝の歌」。

125篇は激動の生涯を支えた「神への信頼=信仰(バタフ)の歌」。

人生巡礼の歌は、「礼拝」「臨在」に続いて「信仰」へと続きます。

【詩篇125篇の構造・区分】は以下の通り。

1)1節 「神への信仰」はわたしたちの人生を不動のものとする。

2)2節  信仰とは「神がわたしを愛で囲まれる」ことの知ること。

3)3~5節 神の民よ。真実な神への信仰を守り抜け。

神の民よ。悪に手を伸ばすな、義なる者であれ。

 

 【メッセージのポイント】 

1)1 主に信頼する者は、動かされることなくて、

   とこしえにあるシオンの山のようである。(1節)

   ⇒ 主に信頼する者はシオンの山!

 この詩は短い詩ですが、非常に印象深い詩です。「主に信頼するものは動かされることがなくて、とこしえにあるシオンの山のようだ」と歌い出します。「主に信頼する者」の姿がここに描かれています。新共同訳では「主に依り頼む者はシオンの山」と訳されています。この「信頼」、あるいは「依り頼む」という言葉は、ユダヤの言葉で「バタフ」という語で、「非常に強い信頼」を意味する言葉です。背後で自分を支えてくれる者への信頼のゆえに「バタフ!」と後ろに倒れるような意味合いの言葉であると言われます。非常に印象深い言葉なので、この言葉を取って今日の説教題に致しました。神の民はまさに「神に信頼する者」です。天地の造り主にして全能者である父なる神に全幅の信頼を寄せる者」です。幼い子供が優しいお父さんのまなざしに安心し、肩車させてもらうような、お母さんの暖かな懐ですべてを任せてすやすやと眠るような全幅の信頼を意味しています。この詩の作者は今、エルサレムにて礼拝をしています。そしてその堂々としているシオンの山を見て感動し、信仰者の物事に動じない姿を、神の住まい、シオンの山にたとえています。

主に信頼する者はシオンの山のように揺るがない。永遠に座る。

 全能の神を信じる者はいざという時に勇気が湧いてきますね。赤羽教会を長く牧会された高山慶喜牧師は、大正の関東大震災の時に、まだ洗礼を受けた30代の青年でした。先生はよく語りましたが、職場であった銀座松屋のデパートが震災で様々な被害が出ましたが「わたしは大丈夫、主が守ってくださる」との確信のもと、お店全体の被害状況など落ち着いて調べることができたということです。主に信頼する者は、あわてる事なく、平安を持ち、ことに当たることができます。

 皆さん、日曜日、主の前に集って、礼拝を捧げ、いつもこの信仰を確認して、一週間の良き出発を致しましょう。いつも十字架の主、復活の主を仰ぎたいと思います。

 

2)2 山々がエルサレムを囲んでいるように、

主は今からとこしえにその民を囲まれる。(2節)

  ⇒ 主はわれらを愛で囲み、守られる。

 更にこの詩は「山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も、そしてとこしえに」と歌う。永遠に不動の山シオンを見つめつつ、更に詩人の目はエルサレムの町全体に心の目を注ぎます。エルサレムの町は「難攻不落の町」と言われるほど、自然の造った要塞のような町でした。山々に囲まれて敵はそこに攻め登ることはできなかったのです。サムエル記下5章6-10節にダビデがエブス人が住んでいたこの地を取って「ダビデの町」とした時のことが記されます。標高が790メートル。敵が襲った時に、この山の上にいた者は、身体にどのようなハンディがある人でも、登ってくる敵を追い落とすことができるような「自然の要害」であったと表現されます。

 山々はエルサレムを取り囲む。

 主はご自分の民を取り囲む。

 エルサレムにとっては周りを囲む山々が外敵から守る助けでした。しかし、神の民を囲み、守ってくださるのは神様ですと歌います。主は、いつも信仰の民であるイスラエル民族を「火の垣をもって守って」くださいます。新約の神の民であるクリスチャンもまた、いつも天使に守られている存在です。

 ここには「囲む」という言葉が2回記されます。

 わたしは詩篇32篇が好きですが、そこにも「囲む」という言葉が2回出てきます。そこでは

7節「あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、

   救いをもってわたしを囲まれる」とあります。

10節「悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者は    

  いつくしみで囲まれる。」とあります。ある翻訳では「恩寵をもって囲まれる」とありました。実に主に従う者の生涯は、神の愛、「恩寵に囲まれつつ歩む人生」なのです。

 聖書の語る信仰は、自分の力でがむしゃらに信じることよりも、神様が、わたしたちを取り囲んで守っていてくださることを悟るように教えます。まさに恩寵に囲まれ、平安の中に憩うことができるのです。

 今日は敬老礼拝の日です。皆さん、御自分のお子さんに、お孫さんに何を残しますか?ある方の言葉。「わたしは自分の子孫に残すものは何もない。お金も、言うべき業績もない。しかし、示されました。わたしは、『信仰』を残して行きたい。『神の愛に囲まれて生きている』事を証したい。」それこそ、最高のプレゼントですね!ハレルヤ

3)3 これは悪しき者のつえが、正しい者の所領にとどまることなく、

正しい者がその手を、不義に伸べることのないためである。

4 主よ、善良な人と、

心の正しい人とに、さいわいを施してください。

5 しかし転じて自分の曲った道に入る者を

主は、悪を行う者と共に去らせられる。

イスラエルの上に平安があるように。(4、5節)

 ⇒ 神の民よ、不義に手を延べるな。純粋な信仰を守れ!

  ここには二つの祈りがあります。この詩人は、ある程度の年配者なのでしょうか?神の都エルサレムに礼拝に来て彼は祈りました。

「ああ、エルサレム。真の神を畏れ、神の前に祈り続けた聖徒たちを育んだこの都よ。アブラハムのイサク奉献のモリヤの山、ダビデが祈り続け、ソロモンと、多くの代々の聖徒の熱き祈りと献身によって建ち上げられた神殿のあるエルサレムよ。この山に不信仰と偶像の神が立てられることないように!」

そしてもう一つ、「信仰者を守り給え!義なる神様によって培われた「心の正しさ」を持つ、あなたの民が、罪の誘惑やサタンの不信仰に陥ることがありませんように。日々主に仕え、その人生の最後まで「善かつ忠なる僕」として、仕えることができますように!」

 熱心な兄弟から「先生、悪魔の誘惑にあった!」と告白されました。彼は写真が好きで、バラ園で写真を撮っていた時に、バラの花の陰に立派な数十万円もするような望遠レンズが落ちているのを見つけました。その時サタンが心に語りかけました。「いい物見つけたね。これは君へのご褒美だよ。欲しかったんだろ。大丈夫だよ。もってゆきなよ。」しかし、彼は早天祈祷会で、その日も朝早く聖書の御言葉を聞いていたので、「サタンよ、引き下がれ!」とその誘惑の言葉を拒絶し、それを交番に届けたというのです。落とし主から感謝の言葉が届いたそうです。素晴し勝利でしたね。と一緒に感謝をささげました。 ハレルヤ

 【祈祷】  主よ、敬老礼拝を感謝します。長い人生を、主に仕えた方々に豊かな祝福を注いでください。今日の御言葉のように、あなたに深い信頼をおいて、どっしりと座るシオンの山のような不動の生涯が歩めますように。また、あなたが火の垣となって危険や誘惑から守ってくださったように、これからも豊かな恩寵をもって守り、導いてくださいますように。御前に立ったときに、あなたから「善かつ忠なる僕、よくやった。わが花嫁よ。」とのお言葉を受ける者としてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン