説教「聖書が語る中心主題」ー人生三万ページの本の如しーロマ1:1~4 深谷春男牧師

2020年10月4日 オープンチャーチ礼拝説教
聖書箇所:ローマ一への手紙1:1~4
説教者:深谷春男牧師
 

 新宿西教会は、今年の10月は、「オープン・チャーチ」伝道月間として恵みの時を持つこととなりました。今日、教会にいらっしゃった方々も、ご自宅でのこのユーチューブで、説教を視聴する方も大歓迎です。皆様の生涯に、神様のすばらしい祝福が満ちますように!歓迎いたします。 

【本日の説教について】

  さて、今日の説教はいつもの説教と少し形を変えました。わたしの説教は基本的には「講解説教」で、導かれた聖書箇所から離れずに、その聖書箇所から神様の語られる中心主題を語るというものです。でも、今回は、ある集会で語られたメッセージが心に留まっており、不思議な神様からの語りかけを受けておりますので、そのことを語らせていただこうと感じております。説教題もいつもと違って「人生は3万頁の本の如し」という題で語るように導かれております。

 2014年の10月の青年の聖化大会という集会で、講師がこのように語られました。「わたしたちの人生は限りがあります。初めがあり、終りがあります。大体、80歳ぐらいまで生きるとすると、80×365=29,200となります。85歳で85×365=31,025となります。まあ、おおざっぱにいうと80歳まで生きるとすると、人間の地上で生きる日数は3万日前後ということになります。一日を1ページとするなら、人生は、3万頁の書物に喩えることができると思います。」なるほど!と思いました。

このメッセージが、とても印象深く心に残っており、祈り続けている中で、神様からのひらめきが与えられました。聖書はこの三万頁の本のような人生に、クリスチャンとして、神様のわたしたちの生涯への介入として、三枚のしおりを挟むように語っていると思いました。今日は、その三枚のしおりを、「ローマ人への手紙」から見てみたいと思います。

 

【メッセージのポイント】

1)25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。(25節)

⇒1枚目のしおり:真っ赤なしおり。 十字架の贖いの血潮への信仰

 聖書はわたしどもの人生にチャレンジを与えます。たとえて言えば、この三万頁の書物のようなわたしどもの人生。真っ白なページに今日も、恵みに満ちた一日を書き込んで行きます。2020年10月4日というページも、まず神様を礼拝し、御言葉を頂き、神御自身の温顔を拝し、愛する兄弟姉妹に出会い、励まし合い、祈り合ってこの一日を歩みます。それはかけがえのない珠玉の一日、奇跡に近い、否、奇跡そのもののような命の一日です。

 このような人生の3万日の中で、「恵みにあふれたに、特別なる神様の恵みの介入の日」がクリスチャンには三つある、と思うのです。それは特別な日です。その日に、そのページに、しおりを挟みましょう。第一のしおりは「真っ赤なしおり」です。それは「主イエスの十字架の血潮の贖い」を信じた特別の日です。

 クリスチャンにはこの「主イエスの十字架の贖いの血潮を信じて救いを受ける」という恵みの体験があります。そこで、主イエスに出会い、十字架の主イエスを仰ぎ、自分自身の罪を理解し、自分の罪を贖われた主イエスを信じます。この体験が、ボーン・アゲインのクリスチャン、クリスチャンの新生体験と言われる内容です。

 「ローマ人への手紙」から見ると、3章25節を挙げることができます。ここには、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」とあります。ここは聖書の中での最も重要な、「神の義」=「救いの道」の内容の記述です。

 「罪を償う供え物」と訳された原語は《ヒラステーリオン》です。この言葉は、出エジプト25章10節からの神殿至聖所に置かれている「神の箱」の「ふた」を示しています。年に一度大祭司が至聖所に入って、その黄金の板で造られた「ふた」に犠牲の血を注ぎ、民の罪のために贖いをします。それはレビ記16章にも記されます。それでこれらの箇所は「贖罪所」とか「恵みの座」と訳されます。最近は、この語の本来の意味をそのまま保持して、理解すべきと考えられています。ヘブル書9:5でも用いられています。

 神様は、今や、神殿の至聖所の契約の箱のふたである「贖いの場」ではなく、十字架にかけられたキリストを「贖いの場」として、そこで神の贖いの業が成し遂げられ、そこに神が現れ、そこから神が語られる場としてお立てになられました。今や、神が世界の罪を贖ってその聖なる臨在を現される場は、エルサレム神殿の幕によって隠された至聖所の中にあるのではなく、「十字架にかけられたキリスト」なのです。 

 この「キリストの血潮の贖いを受ける日」を自分の人生に体験したいものです。これは、クリスチャンの一枚目の「真っ赤なしおり」です。

 パウロにとっては、使徒9章のダマスコ途上でのキリストとの出会いに始まる回心の体験、アウグスチヌスの子供の讃美歌を聞きつつなされた回心の体験、マルチン・ルッターの「神の義の発見」と「塔の体験」、ジョンウェスレーのアルダスゲートの体験、内村鑑三のアムハーストでの贖いの体験、等々、これは枚挙にいとまがない体験です。わたしも1969年12月21日に洗礼を受けた時に、それを明確に信じました。劇的なものもあれば、静かに信じる方もおります。一枚目の「真っ赤なしおり」、「主イエスの贖いの血潮」を信じる体験を、その人生に明確に記した人は幸いと思います。

 

2) 2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 (ロマ8:2)

2枚目のしおり:オレンジ色のしおり。 聖霊の内住による信仰の確信

 ここでは「キリスト・イエスによって命をもたらす命の御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放した」と語られています。人間の最大の問題は「罪と死」です。人間の中にある深い自己中心の思い、神なしにすべての事を行う愚かな人間は、罪と死の法則に捉えられて身動きの取れない状態になっていました。この罪と死の法則に捕らえられた状態から、今や、真の自由と救いを得る道があることが語られています。それは「命の御霊の法則による」と語られております。罪と死の法則から、いのちの御霊の法則へとわたしどもの生きてゆく原理が変わったのです。

 ロマ書では6章、7章がパウロの生々しい信仰の告白となります。「誰がこの死の身体から救って下さるのでしょう!」と嘆いていますが、8章でその結論が語られます。「聖霊なる神様の内住によって」、「命の御霊の法則がわたしたちを、罪と死の法則から解放した」と語ります。このパウロの一句に勝利の信仰の秘訣が込められています。これは、聖霊の炎、オレンジ色のしおりです。新約聖書では使徒言行録2章のペンテコステのできごと、パウロにとってはロマ8:2や、ガラテヤ5:16など。中田重治師のシカゴでの体験や、多くの牧師先生の聖化体験等が記されます。この節は、わたし自身にとっても忘れえない聖句で、神学生時代から暗唱してきました。バックストン聖会で聖霊なる神様に明け渡した体験など忘れることができません。

 

3) 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ12:1)

⇒ 3枚目のしおり:金色のしおり!   献身と黄金の礼拝

 さて、第三のしおりは「金色のしおり」です。これはパウロの信仰の決断

への勧めです。ロマ書の主題は、結論から言えば「主イエスへの十字架の贖いのできごとを信仰をもって受けること」と「聖霊の内住による圧倒的勝利」と結論つけられましょうか。それは今日、第一と第二のポイントで触れてきました。そして第三は、その救いのできごとへの応答の勧めです。1節にある「そういうわけで」という言葉は、1章から8章までの救いの内容を示しています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と結論づけています。三枚目のしおりは「黄金色」にしました。それは黄金の日々、黄金の礼拝と示されたからです。「なすべき礼拝」は文語訳では「これ霊の祭なり」と訳されており、道理に適った(=ロギコスの)礼拝を指し示しています。

   信仰生活はある意味で単純です。それは命懸けで愛してくださった主イエスに命懸けで従ってゆく生活だからです。それを「献身」という表現でパウロは語りました。主イエスというお方に対する全人格的な応答こそ信仰の本質です。それは神の圧倒的な愛に対する人間の応答です。血潮の一滴まで注ぎだされた主イエスに、このからだを生きた、聖なる供え物として捧げて、従う生涯です。それが、自分の身体をささげて、全人生をもって主にお答えする生涯です。神様の「恵みの御業」「福音」に心から応答すること、自分の考えだけを捧げるのではなく、感謝と喜びをもって、自分の身体を捧げなさいと、勧めがなされています。それは黄金の礼拝生涯へ、献身へとつながります。わたしにとっては1972年2月12日の献身の決意の日を思い起こします。あの日から、伝道者として新しい歩みが始まりました。

 今日は、「人生は3万頁の本の如し」と学びました。その本に神様からの3つのしおりを挟もうと語らせていただきました。赤いしおりとオレンジ色のしおりと黄金のしおり、即ち、血潮による贖いと、聖霊様の内住による勝利と、恵みに応答する献身と黄金の礼拝の決意です。今日はその中でも、主イエスの十字架の血潮を感謝して。主イエス様に帰る決意をしましょう!

 

(最後に、30年ほどまえにある集会で聞いた話を紹介します。)

 あるイギリス婦人がおられました。彼女は大変賢い人で信仰深い人でした。ご主人が早く亡くなられ、彼女は独り息子を心から愛し育てていました。息子はお母さんの愛情を受けて、まっすぐに育ちました。彼は学業にもスポーツにも秀でた能力を示す若者に成長しました。

 彼は、大学に行くことを希望して、名門のオックスフォード大学を受験し、見事に合格。母はその入学式に出席した。昔、オックスフォード大学は、その入学式に、一番で合格した新入生に学長がフードをかけるという儀式があったという。式辞を終えた学長が、その講壇から降りて、息子の前に立ち、「一番優秀な成績は君だった。入学おめでとう!」と握手された。このお母さんは、今までの労苦がすべて報われたと感じて、感無量だった。

 それからこの息子は大学で、良き成績を上げ、またクリケットの選手となり、クリケット部の主将となった。彼が主将の時に、英国の大学対抗の大会で優勝、大学はお祭り騒ぎのようになった。その栄誉の表彰式に、学長が、「彼は、人一倍頑張ってこの栄誉を得た。そしてその背後に、彼を育て、背後で祈っていたお母様があったことも忘れてはならない」と語られて、彼女は天に昇るような感動を覚えた。

 時は過ぎて、この息子は大学を卒業し、就職し、順調に会社で働いていた。

 ところが第二次世界大戦が始まり、彼は招集されて、激戦地に送られることとなった。それからしばらくして、敵の砲弾を受けて、戦死してしまった。

 その報を聞いた年老いたこの婦人は、失意の中で、何をする気力も失ってしまった。彼女は毎日、悲しみの中で、暖炉のまえで、うつらうつらしながら息子の名前を呼ぶのみだった。

 あるとき、彼女はそのような中で、夢を見た。神様からの語りかけだった。「あなたが息子を思うのはよく分った。そんなにあなたがあの息子を思っているのなら、数分間、あなたのもとに息子を返してあげようか?」と言われた。彼女は喜んで、「神様、ありがとうございます!」と答えた。すると神様は彼女にこのように問いかけられた。「じゃ、息子をあなたのもとに数分間、返すね。ところで、いつの息子さんに会いたいかね?あのオックスフォード大学の入学の時に、学長にフードをかけられたときの息子かね?それとも、あのクリケットの主将として全国制覇したときの輝く息子かね?」  婦人はしばらく考えてこう答えた。「わたしの息子は本当にすばらしい息子でした。けれども一度だけ、彼が十代のはじめ、わたしに反抗して家出をし、一晩帰ってこない時がありました。朝、玄関を開けたら、彼はわたしに胸に飛び込み、「お母さん、ごめんなさい!」と言って謝りました。あの時の息子、わたしの胸に飛び込んできたあの時の息子を返して下さい。

 

【祈り】 全能なる父よ。2020年10月に「聖書が語る中心主題」そして副題としてー人生3万頁の本の如しー と語りかけて下さいました。この限りある人生に、三つのしおりを挟ませて下さい。赤いしおりと、オレンジのしおりと、黄金のしおりと。「十字架の贖いヘの信仰」と、「聖霊の満たし」と、「献身と黄金の礼拝」の恵みの日々をわたしどもの人生に挟ませて下さい。そして、わたしどもの生涯に、その最も暗いわたしたちの罪の部屋にあなたご自身をお迎えして、そこにあなたの光を頂き、あなたからくる愛と平安と喜びを頂いて、新しい人生へと進む者とならせて下さい。わたしたちの救い主。主イエスの御名によって祈ります。アーメン