説教「十字架につけられたキリスト」1コリント1:18~25 深谷牧師

2020年10月18日 オープンチャーチ第三主日礼拝説教
聖書箇所:1コリント1:18~25
説教者:深谷牧師

 今日は「オープン・チャーチ」3日目です。伝道部の方から、今年は特に「十字架の福音」をしっかり心に刻むお話をよろしくと言われています。

さて、わたしは前任地で、刑務所から出てきたという方とお話ししました。この方は、刑務所で教誨師の話を聞いてきましたと言って、こう話されました。

「わたしは実は恥ずかしいことをして、刑務所に入っていた者ですが、刑務所で聖書の話を、牧師先生から聞きました。毎月、楽しみにしておりました。

 第1回目の話は「神さまは愛なるお方です」というお話でした。

聖書の、放蕩息子のお話をされました。お父さんから受け継いだ財産を使い果たした息子がぼろぼろになって帰って来る。お父様は息子がいつ帰ってくるか、いつ帰ってくるかと待ちわびて、帰ってきたらとがめることなく迎え、喜んでくださる。これが天の神様の姿と教えられ、涙が出るほど感動しました。

  第2回目の話は「キリスト様の十字架」のお話でした。

何一つ罪のないイエス様が、わたし達の身代わりになって、全ての罪を負ってくださった。人間は刑務所に入った人だけが罪人ではなくて、全ての人が罪人。心の中で犯した罪を厳密に見てゆけば、神様の前ではすべての人は罪人。環境が悪かったり、偶然、罪の出来事に会わなかっただけのことで、義人はいない、一人もいないと聖書は教えていると話されました。人間の救いは、自分の罪を認め、主イエス様の十字架を信じるとき始まるのだ。心にイエス様をお迎えして、救いを頂きなさい、救いはキリストの十字架にあると語られました。

 第3回目の話は「天国」のお話でした。

イエス様を信じて、罪の赦しを得たら、心は軽くなり、心のうちに平安が与えられる。そして、永遠の命をいただけるということです。人間はいつも死ぬ事がこわいのですが、イエス様の信じるなら天国にイエス様がお迎えしてくださる。死の恐怖から解放されるということでした。・・・」

わたしはこの人の話を聞いて、初めての人に分るようにキリスト教の基本を教える事を学びました。神の愛、十字架のあがない、天国の確信・・。わたしたちも、信仰に基本をしっかり理解せねば、と思いました。

【今日の聖書箇所の概略】

 今日ご一緒に読みましたコリント人への第一の手紙は、伝道者パウロのコリント教会宛の手紙です。コリントという町は紀元一世紀、繁栄を極めたギリシャの港町でした。豊かな繁栄は、人間の自由や尊厳、人間として充実した文化生活へと人々を導きます。けれども、歴史の中で常に見る事ですが、それらの経済や文化の発展と共に、快楽や欲望の追求が、人間の倫理的な生活を圧迫し、風紀の乱れを生んでゆきます。コリントの町もそうでした。当時は「コリントする」という言葉が作られ、「放蕩三昧をする」という意味で使用されるほど、コリントの環境は乱れておりました。

 しかし、コリントの教会は非常に活発で、伝道意欲が旺盛で、教会は大きく成長していきました。でも様々な問題が起きて、教会の主だった人々が、パウロ先生に質問の手紙を書きました。それに対する答えが、現在、コリント人への手紙として、わたしどもは読むことが出来るのです。ですから、そこには具体的な質問事項、複雑な人間関係の悩み、結婚問題、礼拝の持ち方、等々、配慮のもとに記されています。そういう中でも、今日の聖書箇所は、その冒頭に部分ですが、それは、すばらしい、信仰の原点を教えています。

「主イエスの十字架の救い」が、新しい人生の原点になると言うことです。

 

【メッセージのポイント】

1)18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、

救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、

賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。(18~21節)

⇒ 十字架のメッセージは、神の救いの力! 

 今日の聖書箇所は「十字架の言」という内容から入ります。「十字架の言」は、滅び行く者には「愚か」であるが、救いに与るわたしたちには「神の力」であるというのです。今週は説教の準備をして、「十字架の言」って何なのかな?と考えておりました。わたしはいくつかの聖書の翻訳を持っているのですが、柳生直行訳を見ましたら「十字架の福音」と訳しておりました。尾山令仁訳は「十字架のメッセージ」という訳でした。「ああ、なるほど」と思いました。これは主イエス様が十字架にかかって、わたしどもの身代わりになって下さったという神様のメッセージ、この福音を信じる時に人は救われるのだ!と言うことが分り、御名を崇めました。

 わたしは「十字架の言」と聞くとすぐに思い出すことがあります。19歳で洗礼を受けた直後、20歳の時に、70年安保がありまして、日本基督教団の教会では、どのような政治的な立場を取るか、大きな混乱が起こった時でありました。わたしも友人に誘われ、新左翼運動の端の方に加わり、あるときに、山谷で日雇い労務をしたいたときがありました。悩み多き、青春時代でした!仕事を終えて、古本屋に入ったときに、高橋三郎という先生の本がありまして、開いてみたときに、内村鑑三、矢内原忠雄、藤井武先生のことが書いてあり、大変、光を受けるような経験でした。高橋三郎先生は「十字架の言」という個人の月刊誌を出しておられました。「藤井武全集は芋を食ってでも、購入して読むべきものです。・・」の文を読んで、アルバイトの厳しい生活でしたが、「藤井武全集」を購入して、コツコツと読んでいた事がありました。高橋三郎先生の本と出会って、神学校入学前の一年間、赤羽教会の2階屋根裏で過ごした「黄金の一年(!)」を思い起こします。わたしはそこで、「キリスト教信仰は、主イエスの十字架の贖いヘの信仰に始まる!」。これ以外の基礎はない。20歳の時に、魂似深く深く刻まれました。あの屋根裏部屋で、涙を流しながら、内村鑑三の「ロマ書の研究」「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」等を読み、矢内原先生の「イザヤ書」、藤井武先生の「羔(こひつじ)の婚姻(こんいん)」などを読み、旧約聖書のイザヤもエレミヤも、すべてが、「主イエスの十字架の贖い」の一点に向かうことを確信して、神学校へと進んだことでした。高橋三郎先生は、わたしにとっては忘れることのできない先生です。「十字架の言」!あの個人雑誌に導かれつつの生涯でした。

「十字架の言」「十字架の福音」以外に、人類を救うものはない!

わたしはその時から堅く信じ、今は、いよいよ深くそれを確信しています。

 旧約聖書の星のように輝く信仰者たちも、アブラハムもモーセも、サムエルも、イザヤもエレミヤも、珠玉の詩篇も、結局は、主イエスの十字架の福音を指し示していることを教えられます。更にそれは、復活の恵み、聖霊の内住、主イエスの御再臨と新天新地の出現に至る恵みの世界を知ることになりますが、出発は、主イエスの十字架にあがないを信じるところからすべては始まります。何と、主イエス様が、わたしを愛し、わたしのために死なれたのですから! 

十字架の福音、十字架のメッセージは以下の二つの内容に要約できます。

  • 自己理解 = わたしは罪深い存在で何一つ良いところがありません。

神様の目から見たらわたしは放蕩息子で、自己中心の塊です。自分の自己中心のために、人を傷つけ、自分を傷つけ、どうしようもない罪人です。創世記3章以来、神様に背き、罪に落ちた存在で、知的にも霊的にも、神様の恵みにはほど遠い存在、それがわたし自身、罪人の頭です。

  • 神理解 = そのような愚かな罪人であるわたし、このわたしを、神様

は命をかけて愛してくださった。神は、滅ぶべきわたしの罪にために、ご自身の独り子、主イエスを、地上に送って下さった。主イエスはなんと、わたしの罪の身代わりに、十字架にかかって下さった。人々の嘲りを受け、棒で叩かれ、茨の冠を被され、むち打ちを受け、死刑の判決をうけ、重い十字架を担って、悲しみの道(ヴィア・ドロローサの道)を歩んで下さり、最後はゴルゴタの丘の上にて、両手に釘打たれ、十字架にかかって、人知を越える苦しみを経験され、自分を苦しめる者のためにも「彼らの罪を赦して下さい.何をしているのか分らないのです」と執り成しの祈りをされ、断末魔の叫びをなされて、「わたしは乾く」と叫ばれ、「わが霊を御手にゆだぬ」と息を引き取られました。

 

 2) 22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。           (22~24節)

⇒ 十字架につけられたキリストを宣べ伝える!

 ここに人類を代表している二つの民族についてパウロは語ります。「ユダヤ人」は「神からのしるし」を求め、ギリシヤ人は「知恵を求める」。人間を救うのは、全能の神から来る奇跡的な力か、あるいはソクラテスやプラトンのような人間の英知なのか?否!人類を救うのは「十字架につけられたキリスト」なのだとパウロは語ります。「十字架につけられたキリスト」を見上げ、自分の罪を認め、悔い改めて、深い謙りをもって、神の愛と恵みに歩む者なのです。

 先週は、新しい体験をしました。あまり見たことのなかった、NHKの朝ドラを見ました。「エール」という番組。FBの友達、立教大学の先生のページに、この「エール」番組のお手伝いを頼まれたと言うことが書いてありました。このエールの主人公の奥さんが、関西の聖公会の信者で、戦時中の厳しい状況の中で、時に迫害され、白い目で見られながらも信仰に生きている姿に感銘。立教は聖公会の伝統なので、当時の細かい生活の様子、家庭での食前の祈りとか、祈祷文とか教えていただきたいと言われてやってきたとのことでした。月曜日から見ました。主人公が軍歌を作って若者を励まし、インパール作戦への送った時のことでした。月曜日は、主人公が激戦地ビルマを視察するところ、水曜日には、恩師の部隊が、戦闘で銃殺されるとこるなどが続き、主人公は、恩師の死や若者の戦死の状況にショックを受けて立ち上がれないほど。朝からずいぶん深刻なドラマと思ました。

 しかし、わたしはこのドラマを見つつ、尊敬する三室さんのことを考えておりました。三室さんは、南方での戦いで上司の命令で恐ろしい体験をされ、戦後眠れない。ノイローゼになってしまいました。お寺に行っても、病院に行ってもだめ。やがて教会の讃美歌を聴いて教会に入り、主イエスの十字架の贖いのメッセージを信じて、癒やされ、輝くクリスチャン人生を送りました。

彼もまた、天国で、「われらの救いは、われらの主イエスキリストの十字架の贖いにあり!」と語っています。

 

【祈祷】神様。今日は「十字架の福音」を学びました。この日、主の十字架が、わたしの罪の身代わりであったことを信じます。主よ、誰にも開けたことのない心の扉を開き、あなたをお迎えします。主よ、わたしを、神の子とし、新しい人生に導いて下さい。イエスの御名によって祈ります。アーメン