説教「独り子を賜うほどの愛」ヨハネ福音書3:16~21 深谷美歌子牧師

2020年10月25日 オープンチャーチ第4主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネ福音書3:16~21
説教者:深谷美歌子牧師

 本日はオープンチャーチ最後の礼拝です。召天者記念礼拝でもあります。多くの方のお写真が飾られています。古くからの教会員の皆様にとっても、肉親の家族の皆様にとっても懐かしい家族でしょう。

今日は天国の家族と一緒に礼拝していることを肌で感じる礼拝です。 

 今日開かれた聖書には、「永遠の命を得る」という言葉があります。クリスチャンはこのことを信じています。愛する者にまた会える、という希望があるということは何と嬉しいことでしょう。心から信頼し合って、何の齟齬もない、打ち解け合った再会は喜びの希望です。

 天国はどうしたら入れるのでしょうか?死ねば誰でも入れますか?

 今日の個所の少し前に、ユダヤ人の指導者の一人、ニコデモという人がイエス様を夜訪ねてきたことが書かれています。その時、「あなたが、神から来られた教師であると知っています。神がご一緒でないならあなたがなさっているようなしるしはだれにもできはしません」と言いました。 ニコデモはイスラエルにやがてメシヤ(救い主)が来られるという預言を待ち望んでいたユダヤ人の一人でした。それは、見えるこの世界での救い主でした。イエス様の働きを見て、この方が救い主で、イスラエルの輝かしい建国をしてくれる方ではないか、いやきっとそうだと思って訪ねてきたと思われます。 

 しかし、イエス様は「新しく生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない」と答えました。聞いたニコデモはそのことが理解できませんでした。見える世界のことと、イエス様がもたらそうとしていた神の国は次元が違っていました。永続する神の国をイエス様はもたらすために来たのでした。そこに入るには新しい命に生まれ変わらなければ入れないと言われたのです。入り方は、十字架に上げられた人の子を信じるならそれが頂けると語りました。

 

【今日の聖書箇所の位置付け】  

1-8節 聖霊に導かれ新生の命を得なければ神の国に入れない。

9-15節 御子イエスキリストの十字架を仰ぎ、信じること。

16-21節 父なる神の愛が、独り子を犠牲にして世を救われた。

【今日の聖書箇所の概説】  

16節   神は独り子をお与えになったほどに世を愛された。

17―19節 独り子を遣わされたのは救うためで、裁くためではない。

⒛-21節 悪を行う者は光を憎む。真理を行う者は光に来る。

 

【メッセージのポイント】

1) 「永遠の命は今から得られる命」

  神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。(17,18節)

 私達は「永遠の命」と聞くと、死んでからのことのように感じます。でも16節は、信じる者が永遠の命を得るため。18節は、また信じない者はすでに裁かれている。と、両方とも現在形で言われています。

 11節を見ますと、それまでイエス様が語られていたのに、突然「わたしたち」と一人称複数で語っている文章になっています。これは、ヨハネによる福音書を書いた人々はヨハネの弟子達で、ヨハネから福音を聞き、イエス様を信じて洗礼を受け、聖霊に導かれ、助けられて生きてきて、確かに生まれ変わった命が自分たちの中に生きていることを経験していたので、「私達は知っていることを語り、見たことを証している」と思わず書いたと思われます。永遠の命は信じた時から始まるのです。

 信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。この生き方を考えてみましょう。

 「滅びる」という言葉は「我とわが身を見失う」という意味を持っているそうです。イエス様からの命を得ていない者は本当の生き方がわからず、「滅んでいる」「裁かれている」と書かれています。

 先週の聖研祈祷会は、マタイから学びました。ガダラの悪霊に附かれた人の姿から、やりたい放題しているようでも、自分を傷つけ、夜じゅう叫ぶ。何に向かって生きているのか分からない姿でした。

 王子コイノニアチャーチの又吉里子先生が、若い時、献身しようと決心したことがあったのに、10年以上神様から離れ、留学しても、旅行とか、友達と楽しく過ごすことばかりしていた。が、心は自分を取り繕う偽善に疲れ、死に向かっている罪悪感と虚無感がつきまとっていた。でも生活を変えられなかった。聖会に出席した時「サムエル」と呼ばれた声に、若い時献身の決意をしたことを思い出し、全部神様に明け渡しました。その時、不自由さから解放された。というお証を伝えました。終わって皆さんが、私もそうだった、と感想を寄せました。新しく生まれなければどう生きたら良いかわからないのです。滅びも現在形です。

2)「光に来ようとはしない」

 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(19~21節)

 深谷牧師が、中学生の時、聖書の福音を何かで読んで、考えていた時、「嫌だ、絶対嫌だ、好きなことができなくなる。」と思ったそうです。ノートに「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。」と書き込んだそうです。この世の力は、イエス様に行くな、窮屈だぞ。と引き止めます。光に来ようとさせないのです。それで鎖に繋ぎ留めるのです。それがすでに裁かれている状態で、自分がそれを選んでいると言っています。

 イエス様はすべての人を照すまことの光があって、世にきた(ヨハ1:9)方です。光は行く道を照らしてくれます。言い換えるとイエス様は私達が生き生きと生きる道を導いてくださるのです。神様がこう導いてくれました、と証ができますように。誕生カードを書くとか。

3)「神の愛は涙の決断の愛」

 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。                (16節)

 16節以下の文章は、これまでのことを説明するように語られています。新しい命を頂く道は、神様の愛がこれを計画実行したと伝えています。今日のタイトルは「独り子を賜うほどの愛」です。

 神が愛してくださったと書かれています。確かに現実に現わされた愛として過去完了の出来事があると言っています。

 これはプロポーズをしてしまったような行為です。と言っている方があります。「好きです」と口で言うだけではない。プロポーズというのは、この人に決めた、という決定的な意思表示です。 ― 受けるか否かは受け取る側の意志ですが ー 。

 神様は人間を救う決断をし、独り子を世に遣わし、しかも十字架につけて、人の罪の代価とされました。これは歴史に刻まれた事実です。

 信仰の父と言われるアブラハムも似た経験をしました。「あなたの子孫を星のようにする。」と約束されたにもかかわらず、サラからイサクが生まれたのは、アブラハムが99歳の時でした。愛を注いで育てていたイサクを、神様が「燔祭として捧げなさい」と試みたのでした。アブラハムは躊躇なく捧げようとしました。本気だったのです。これはアブラハムが神様を愛し、何より大切にしている心の現われでした。

 イエス様の十字架の死は、父なる神様の人への愛の現れでした。独り子をこの世界に送り、十字架はストップされないで遂行されました。

 イギリスのテームズ川だったと思いますが、跳ね橋がありました。その当時は、人力でロープを巻き取って跳ね橋を開け、大きな船を通す仕組みでした。彼はその日も跳ね橋を上げる仕事をしていました。息子が遊びに来て、お父さんの回りで遊んでいました。そこへ、大きな帆船が通りかかりました。急いでロープを巻き取り始めたお父さんの目に、息子が巻き取りのロープの所に落ち込んでいる姿が飛び込んできました。そのまま絞めれば起き上がった跳ね橋に挟まれて息子はつぶれます。しかし、止めれば船が橋にぶつかって、沢山の人々が犠牲になります。お父さんは泣きながらロープを巻き取り続けました。船の人々はにこにこと手を振って通り過ぎていきました。

 父なる神様も心がつぶれる思いでイエス様を十字架につけられたのです。子なるイエス様も同じ愛で、それを受けてくださったのでした。

 この犠牲が我がためであったと信じる者に永遠の命を与えるために。

 十字架によってすべての権能を得たイエス様は私たちを丸ごと愛し、赦し、安息に入れてその後も光として、導いてくださる方です。

 オンリービリーブ、信じ受け取るだけで、すでに備えられた永遠の命が与えられます。プロポーズを受け取りましょう。

 

 礼拝は一年52回めぐりくる春です。一週間ごとに、私たちがありのまま御前に出て、御顔を仰ぐとき、あの放蕩息子がおそるおそる家に近づいたとき、「待っていたぞ、恐れるな、わたしはあなたを贖った、あなたはわたしのものだ、聖霊の満たしを受け、罪の誘惑に勝て、互いに愛し合い、赦し合いなさい」と抱きしめ、安息を与えてくださるのです。神の国の前味を味わいつつあゆみましょう。その時、死は通過点となります。澤田姉のお母さま、栄子姉のお母さまのように。

 

祈り   自分の生き方は自分で決めると、生きながら、自分の破れに苦しんでいた者でした。そんな人間を憐れみ愛し、イエス様を十字架につけて、救いの道を開いて下さいました。感謝いたします。聖霊様に絶えず祈り、導かれ助けられて永遠の命の中を歩み続けさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン