講壇交換説教「ひとりの神、ひとつの体」 エペソ4:1~7 イザヤ43:11 深沢教会牧師 齋藤篤牧師


イザヤ書 43 章 11 節
ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。

エペソ人への手紙 4 章 1~7 節

1さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、3平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。4からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。7しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。


『日々の聖句(ローズンゲン)』に示された、11 月 22 日の聖書の言葉
ローズンゲン:くじ引きされた言葉という意味。くじによって選ばれた聖書の言葉集。
18 世紀はじめに、迫害から追われドイツ東部の村へ集められた、聖書信仰のクリスチャンによって結成された「ヘルンフート兄弟団」により 1731 年から毎年出版。日本語版は、故・深津文雄牧師の働きにより 1957 年から出版。
信仰理解の違いによるヘルンフート兄弟団の不和 → 1728 年5月3日の夕礼拝で聖霊体験。
「私たちの一致は、ただ聖書の言葉にある!」 → その日の「合言葉」としての聖書の言葉がくじによって選ばれるようになった。
くじ:人間の思いによらず、ただ神の御心を求める方法として、聖書でしばしば登場。

私たちが「教会」を感じるとき
2020 年、今年ほど「教会」とは何かということを思わされることはなかったのではないか?
コロナ禍が「教会」のあり方・原点を改めて問う出来事となった。
教会(ギリシア語で「エクレーシア」)とは、「呼び集められた」という意味。
私たちが教会を通して「呼び集められている」という感覚を抱くことが「教会を感じる」の意味。
私たちを呼び集める方は、私たちの神、ただおひと方である。

ただわたしのみ主である
イザヤ 43 章:恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
       わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。(1 節)
→私たちの名前を呼ばれる神。私たちをご自分のものと宣言される神。
→私たちを「呼び集める」という、教会が教会であることの明確な宣言。
その神が「ただわたしのみ主である」と、私たちに明らかにされる。
→ただわたしのみ:原文では「わたし、わたし」
→「主である」という言葉がもたらす 3 つの意味
(1) わたしは神で「ある」
(2) わたしはあなたがたとともに「いる」
(3) わたしはあなたがたの神と「なる」
→「わたし、このわたしが神であり、あなたがたとともにいて、
あなたがたの神となる」
わたしのほかに救う者はいない:あなたにとって神は、わたしひとりであるという確かな宣言。この神が、私たちの名を呼び、集められる。神御自身が「教会」を作られるのである。

聖霊による「一致」
 エペソ 4 章 3 節:聖霊による一致を守り続けるように努めなさい
   → 一致:「ひとつのものとされる」という意味(新約ではエペソ 4 章だけで使用)。
   → イザヤ 43 章 1 節の言葉に帰ることができる。私たちは神のものとされている。
   → ここでいう「守り続けるように努めなさい」とは、私たちの努力目標ではない。
   → 教会の主体は私たちではなく神であり、教会はキリストの体であるという認識。
 エペソ 1 章 23 節:この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべての
  もののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
 エペソ 4 章 4 節前半:からだは一つ、御霊も一つである。
 教会をかたちづくるのは、聖霊なる神のお働きである。
 エペソ 4 章 6 節:すべてのものの父なる神は一つである。

ひとつの体のなかで、私たちに与えられた賜物が活かされる
 エペソ 4 章 7 節:キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりび
  とりに、恵みが与えられている。
    → ひとつのからだとされている私たち個人は、それぞれの賜物が「キリストの
      賜物のはかり」よって与えられている。
    → はかり(ギリシア語でメトロン:メートルの語源)は聖書的価値観と言えるもの。
    → 聖書の言葉と聖霊の働きによって私たちはひとつの体を担う賜物が活かされる。
    → 教会を感じるとは、自分に今与えられている賜物を感じることでもある。
      それが「恵み」である。

コロナ禍のなかで
 状況がどんなに変化して、それに振り回されても、決して変わることのないもの
 それは、ただおひとりの神が、わたしたちをキリストのからだにおいて、
      私たちを「エクレーシア(呼び集められた者)」としてくださることである。