アドベント第3礼拝「イエスと名付けよ」マタイ1:18~25 深谷牧師


2020年12月13日アドベント第3礼拝
聖書箇所:マタイ:18~25
説教者:深谷牧師


「激突する神の愛」

 2014年に「北東京シティクリスマス」という集会でメッセンジャーとして招かれ奉仕しました。31年間、北東京の赤羽で伝道し、「北東京シティクリスマス」を赤羽、王子、十条の先生方と開催し、何回か実行委員長もしておりました。集会の数か月前に、「説教題を教えてください」と言われて、祈って示されたのは「激突する神の愛」という題でした。過激な(?)題だと思います。 

クリスマスって何の日か?という根本的な主題を、もう一度自分自身への問いとして突きつけられた思いが致しました。

 考えてみますとわたしが小学生4年生のころ、神主の息子でとても親しかった友人の克紀君が、「深谷、クリスマスってキリストの誕生日だって?知ってた?」と急に聞くのです。小学生のわたしは、「えー?まさか?クリスマスってアメリカのお祭りじゃないか?」と答えました。彼は「神主の父ちゃんが言うのだから間違いがないよ」と確信を持っておりました。初めはそんな感じでした。今でも「へー?教会でもクリスマスやるんだ・・」なんて言う人もいます。     

 高校3年の時、自分で「信徒の友」とか「月刊 キリスト」という雑誌などを買って読んでいたこともあって、クリスマス・イブの日に、姉の家に夕食で招待され、その帰り、もう9時近かったと思うのですが、聖書の話を聞きたいなと思って中学時代の恩師、渡邊正夫先生のご自宅を訪ねました。そこで聖書の話や、内村鑑三や倉田百三の話を聞きました。帰り白河駅のそばを通ったのは夜更けでした。那須おろしの身を切るような冷たい風に吹かれながら、心の中は暖かで、星を見上げつつ「天地を造られたお方よ。全世界の人々に平和と幸福を与えて下さい」と祈ったのを覚えています。

 そして18歳の時に、初めて川崎の教会でクリスマスを祝いました。9月から伝道所に行っていたのですが、クリスマスに本教会からはがきが届きました。「クリスマス・イブの礼拝と祝会があります。お出かけください。」そして「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」と聖句が書いてあり、ろうそくのカットが描いてありました。夕方から礼拝が始まり、その後に交わりやゲームが楽しく続けられました。とても楽しく、クリスチャンの方々の暖かな心に触れた思いがしました。帰り教会の役員さんに車で送っていただき、車の中も盛り上がっていました。アパートの前で車から降りると、冷たい冬の夜更けの濃紺の空に満天の星が輝いています。月明かりに白い雲が薄くたなびいていました。ああ、こんな美しい空があったのだ!神様への感謝と喜びが心のうちから湧きあがりました。

 そして次の年、19歳の時のクリスマス!時は1969年12月21日。この日はわたしの洗礼の時でした。この時わたしは、はっきりとクリスマスの意味が解りました。

 

 天地創造の全能の神が、このような愚かな自分のために独り子イエスを下さった。この独り子主イエスが、わたしの罪も死も呪いもすべて贖ってわたしを救い、神の子としてくださった!わたしは神と和解して、永遠の命を生きる!

 

 わたしは、この神の愛に触れ、ついに洗礼の恵みに与ることとなりました。この19歳のクリスマスから、「激しい神の愛」が、いよいよ深まってゆきました。創造主の愛が、被造物である人類の歴史に「激突」!わたしの生涯はこの19歳の洗礼の日から新しい歩みへと変えられてゆきました。クリスマスは皆様にとっても祝福された人生への始まりの時です。

 

ここに「激突する神の愛!」というメッセージがあります。 

 

 天地創造のこの宇宙よりも大きな神様が、小さなゴマ粒のような地球に住む、微生物のような人間に、雷のように激突された。この聖書のクリスマスメッセージは「人類歴史の最大のできごと」なのです。人類の歴史にはいろんなことがありました。

 古代のエジプト大帝国の繁栄、バビロニア帝国の栄華、アレキサンダーの世界征服、ローマ大帝国の支配、マルチンルッターの宗教改革、啓蒙主義の台頭、フランス革命の勃発、ロシアや中国での共産革命・・・・。さまざまな大事件がありました。

 でも、聖書の語る「神の子の誕生」というクリスマスメッセージは、「人類歴史最大のできごと」として語られております。

 

・人類の暗闇の世界に、神の光が激突したのです。

・被造物の世界に、創造者なる神自身が突入された。

・時間・有限世界に、永遠が激突されたのです。

・憎しみと悲しみの世界に、神の愛と喜びが激突したのです。

・人間の罪と死の世界に、今、救いと永遠の命が激突したのです。

この聖書のメッセージがわたしたちの人生を根底から作り変えるのです。

 

【今日の聖書箇所の解説】

 今日の聖書の箇所は、有名な処女降誕の場面です。創造の神が人間の世界にまで降りてこられ、処女マリヤの胎にお宿りになられました。そこには永遠の神が、時間(人間の歴史)に突入されることにより起こるところの、戸惑い、恐れ、危機があります。

 しかし、神のみわざは不思議な神の導きの中で完成へと進みます。

「インマヌエル」とは「神ともにいます」というヘブル語です。クリスマス

は全能の神がわたしどもを見捨てないとの宣言なのです。

 

【メッセージのポイント】

1) 18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。・・・・・20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。(18~20節))

⇒ 聖霊によって!       《救いの業は聖霊による

 マタイの福音書はややこしい系図がまずあって、次にキリスト誕生の記事が続きます。そこでは神が人の世界の悲惨さをあわれみ、ご自身の独り子イエスをこの世に降し、救いを完成させるとのメッセージが語られます。そこでまず、強調されるのは「聖霊によって」(18、20節)という言葉です。聖書はわたしたちを、人間の努力という世界から、神ご自身の恵みの充満の世界へと向かわせます。救いの業は、創世記に記される創造の業と同じく神の圧倒的な介入で始まります。

 聖霊なる神はわたしどもの思いを越えて働きたもう。自分が主イエスを信じようと思ったことも、今考えてみれば背後に神様の導きがあったからに他なりません。聖霊によらないでは誰もイエスは主なりとは言えない。

 また、聖霊に助けられることは恐れからの解放でもあります。神御自身の介入によっておこるさまざまな危機的状況。しかしそれを「恐れるな」と語られる。マリヤが聖霊によってみごもると、そこには多くの危機が待ち受けていました。性的な潔癖を尊重するユダヤの社会では姦淫は石打の刑。いいなずけのヨセフは離縁を考えました。マリヤも多くの誤解を身に受けねばなりませんでした。しかし、「ヨセフよ、心配するな!」とみ使いを通して神は語られました。クリスマスの響きのひとつには「恐れるな!」という調べ。み使いの出現に恐れをなした羊飼いへの宣言のように「恐れるな!」と主はわたしたちに語られます。 恐れは様々な形でわたしどもを襲います。恐れと不安にとらわれると、わたしどもはあらゆることに失敗してしまいます。アブラハムやヤコブなどは実に、その祈りのときに神様から繰り返し、「恐れるな」とのメッセージを聞きました。

2) 21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(21節)

⇒ 罪から救う!     《救いは御子イエスの十字架以外にない》    

 み使いはヨセフに言う「その子の名前はイエスと名付けよ」と。イエスという名前は「主は救う」の意味です。マタイは「彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救うからである」とみ使いの言葉を解説しています。「罪からの救い!」。これこそ聖書の中心的なメッセージです。神の救いのわざが今、もっとも根本的な人間の真の敵である罪と死に向けられます。十字架はクリスマスのメッセージでもその中心を占めています。

 先日、スウェーデンのチェリスト、べアンテ・ボーマンさんが友人のフィンランドのチェリスト、ラッセルさんの証しをしてくださいました。イエス様とラッシーとの会話。主イエス様「お金をくれないか」。ラッシー「いやだ」。「お前の才能をくれないか」「いやだ」、「お前の命をくれないか」「いやだ」。それから「お前の罪をくれないか」「あ~、罪なら喜んであげるよ。持っていてくれ」。その時、救いの恵みが分かった!罪と交換に、新しい神の子の命をいただいた彼は、今、教会で牧師にまでなっているとのことでした。

 

3) 23「見よ,おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)

⇒ インマヌエル!    神の臨在こそわが救い》   

 マタイはイザヤの預言を引いて言います。「その名はインマヌエル」と。インマヌエルとは「神われらと共にいます」という意味です。その意味するところは限りなく深い。神は、人間の罪の現実に絶望しつつ、なお、われらを見捨てられない。最愛のひとり子、主イエスをあがないの犠牲としてまでも、わたしたちを愛し、受け入れられる。この天の父が共にいませば、全人類は平安の中を歩む。「臨在こそわが救い」はBFバックストン先生の愛誦句。

 クリスマスとは神がわたしたちの破れを共に負い、肉体を取ってわれらの悲しみを共有するためにベツレヘムの馬小屋にまで降られたできごと。それは「驚くべき神の愛の激突」。それは聖霊なる神のなさる業、十字架の罪の贖いと、インマヌエルの臨在信仰に生きることを示します! ハレルヤ

 

【祈り】 全能なる御神。人類の不信仰と反逆を見捨てることなく、驚くばかりの愛をもってわれらを受け入れ、救うためにあなたは来られました。わたしどもの霊の目を開き、聖霊の助けによって救いに導かれ、御子の十字架の贖いにより罪から救われ、父なる神の聖臨在をもって魂に平安を与えて下さい。われらを罪から救う主イエスの御名によって祈ります。アーメン