クリスマス礼拝「非常に喜びあふれ」マタイ2:1~10 深谷牧師


2020年12月20日クリスマス礼拝
聖書箇所:マタイ2:1~10
説教者:深谷牧師

クリスマスおめでとうございます!

この朝も、皆さんと共に、教会の最大の行事であるクリスマスをお祝いできることを感謝します。クリスマスは恵みの時です。愛する方々と一緒に集い主イエスのお誕生をお祝いすることのできることはうれしいことです。

わたしも洗礼を受けて、はや51年目になりました。洗礼を受けた19歳の感激のクリスマス。その年のクリスマス聖日は、12月21日でした。1969年のことです。今日は、尾身幸子姉が洗礼を受けます。尾身姉にとっては、今日は霊的な誕生日でもあります。主イエス様を心にお迎えすることは、新しい人生、永遠の命を歩み始めることです。

【テキストの解説】                        

 主イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになった時に、東の博士たちがやってきました。東方がどこであったか、ということは明らかではありません。占星術が学問としても発達していたバビロニアではないかと推測する方もいます。もしも、バビロンの人々であるならば、ユダヤ人が捕囚の民としてバビロンに置かれたとき、メシヤが生まれることを、イザヤ書60:1-6やミカ書5章などから聞かされていたのかもしれません。

  彼らがまず王宮に来て、イドマヤ出身の王へロデにメシヤの誕生の地を尋ねました。その道の専門家もいたので、彼らはミカ5:1の言葉から、すぐベツレヘムであることを告げました。ヘロデはこの新しい王を恐れて、二歳以下の子供を殺害したといわれます。今日は10節に焦点を絞りながら、クリスマスの意味を探ってみたいと思います。

【メッセージのポイント】

1)、2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。

⇒ クリスマスは礼拝の日!              (2節) 

 クリスマスは明るく楽しいですね。この間、新宿の「世界堂」という文房具屋さんにいってきました。さすがは新宿。コロナの災禍の中でも、お店がたくさんならんでおります。どのお店もきれいに飾ってあります。クリスマスソングや讃美歌が美しく流れています。クリスマスケーキやプレゼントが赤や青や金色の包み紙やひもで飾られてたくさん並んでいました。2000年前のユダヤのベツレヘムの村と、現代日本の新宿の繁華街では、かなりの隔たりがありますね。きれいなイルミネーションの世界とベツレヘムの馬小屋の真っ暗な世界は文化的な環境がまったく違います。

また、何よりも聖書のクリスマスの主題と現代日本とでは大きく違いますね。聖書では、クリスマスとは「礼拝」として描かれています。クリスマスはルカ福音書では羊飼いたちが救い主の誕生を聞いて「礼拝」しに行った物語です。今日のマタイの箇所でも東方の博士たちが幼子を「礼拝」しに来たことが書かれています。特にマタイ福音書の2章では、3回にわたって「拝んだ」(2,8,11節)と記されています。「拝む」とは「礼拝」のことです。聖書的に言えば、クリスマスとは礼拝なのです。考えてみれば、信仰とは神を信じることであり、それは神様を礼拝することでしょう。聖書の全体の主題が礼拝なのだといっても良いでしょうか。確かに聖書のいう罪は「自己中心」ということで、別の方面から見ると「まことの神を礼拝しない事」「神様の御旨を聞かないで、自己中心に生きること」、その事が、「罪」であり、それを高慢とも的外れとも言うのでしょう。

 今年、特に感謝のことは、8月から説教で「都もうでの歌」の連続講解説教をさせていただきました。まだ、128篇で終わっておりませんが、で終えました。その中で教えられました。それは、人生巡礼の歌のクライマックスは詩編132編であるということです。

人生のクライマックス!それは礼拝なのです!

以前、東京教区の墓前礼拝説教集「ヤコブの階段の前で」を読みました。中渋谷教会の山田松苗さんという方の証しがあります。大正12年9月1日に起こった関東大震災の時、麻布に逃れた時の証しです。

「・・・全てがひっくり返ったような不安。この暗黒と混乱と不安の中にあって、すべての人は常の心を失った。わたしもその一人でした。教会の礼拝のことも友人のことも一時脳裏から遠ざかり、このような非常事態に礼拝を欠席するのは常識的に当然のことと片付けていました。2日は日曜日でした。全てを忘れて走り回っておりました。その日の午後、中渋谷教会の森牧

師が避難所に訪問してくださいました。森先生には恐怖も驚きも、周章狼狽したところが少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情で一言「天地が崩れるようなことがあっても礼拝はやめません」とのわずかな言葉を残して立ち去られた。・・先生の一言と、巷の人々の中に見出されない厳然たる態度とは、現実に埋没しきっていたわたしを神の言葉の世界に引き戻した。・・こうして私はようやくにして、わたしの心の中の不安が取り去られ、勇気が湧いてきた。自己の安全、それが何なのか。「エホバ与え、エホバ取り給う」。全ては神の御手にあるではないか。ようやく立ち上がることのできた私は、翌日から深川方面にいた友人を訪ねた・・・。」

関東大震災の中にも神を見上げ礼拝する信仰者。人生のクライマックスとしての礼拝と実存の深みから湧き上がる非常に大きな喜び・クリスマス!

2)、10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(10節)

⇒ クリスマスは非常に大きな喜びの日!

この10節の直訳は「彼らは見て それで その星を 彼らは喜んだ 喜びで 大きな 非常に」です。ぎこちないですが、直訳にすると「彼らはその星を見て、非常に大きな喜びで喜んだ」という文章で、「喜び」二回使用されています。説教題はここから取りました。この星に導かれて、長い旅をし、危険をおかして、東の博士たちは幼子を見つけました。彼らはついに見つけたのです。救い主に出会ったのです。救いを見たのです。大きな喜びが沸き上がるのを体験しました。「大きな」という言葉は「メガレー」というギリシャ語で「メガトン」とか「メガフォン」という時のメガです。最近では、パソコンなどでも、何メガ、何ギガとか使いますね。博士たちの経験したのは、メガトン級の喜びの爆弾が彼らの心で爆発したのです。クリスマスとは喜びの日なのです。幼子イエスにおいて神の絶対的愛と絶対的勝利を知る喜びの日なのです。どんな大水も消すことのできない「喜び」の日なのです。

牧師であり神学者であった佐藤敏夫先生は20代のはじめ太平洋戦争で南方に派遣されるという体験をされました。ある日の夕方、厳しい軍事訓練の毎日で心身ともにへとへとに疲れ果てていた。その日も一日の厳しい訓練を経て、その後、上官の革靴を磨いていました。その時ふと、「あ、明日はもうクリスマスだ!」と思い出しました。緊張の毎日でクリスマスのことも忘れていたのでした。「明日はクリスマスだ。そうだ、主イエスがこの世に来てくださったのだ。」クリスチャンの彼には、クリスマスの意味がよくわかっていました。その時、今まで生きてゆくことの苦悩や不条理、悲しみや苦しみといったもので心がいっぱいだったのに、それらの越えて不思議な喜びが起こってきました。その「クリスマスの喜び」は、まさに魂の深みから起って来る、すべてをつつむ喜びでした。

そして、敗戦。命かながら生き延びて日本に帰って来られました。戦後、平和な、豊かな時代がやってきました。神学校を卒業して、牧師となった彼は教会でクリスマスの礼拝と共に祝会も守るようになりました。しかし、楽しいクリスマスはしっくりゆかなかったと言います。「クリスマス、本当のクリスマスはこのように浮かれたものではない。南方で経験した苦しみの中で、絶望的な状況の中でのクリスマスだった。罪と死に支配されているかに見える人間の存在そのものを、もっとも深いところで支える深い喜びそのものであったあのクリスマスの告知・・・」。でも、楽しそうにしている子供たちや教会員の姿を見て、彼はこのように語ったと言います。「魂の深みから湧き上がる喜びのクリスマス。楽しみさえもある、喜びのクリスマス」と。 

3)、 11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏

して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

⇒ クリスマスは献身の日!      (11節)

さて東方の博士たちは幼子イエスの前にひれふして礼拝をしました。彼らは「宝の箱をあけて」「自分の宝物、黄金・乳香・没薬」を捧げました。ささげられた三種類のものへの解釈には学者によって少し違いがあります。でも、学者たちは自分のすべての持ち物のなかで最も大切なものを捧げました。彼らは「宝の箱」を開いて王としての威厳をあらわす黄金、祭司の香り良き品

性をあらわす乳香、死者の弔いに用いる没薬を捧げたと記されます。これは彼らにできるキリストへの信仰告白であり、最高の献身の表現です。「主イエスこそ、まことの王の王、主イエスこそ我らの弱さと敗れを執り成したもうまことの祭司、そして、われらの罪と死を担って苦難と死をも味わいたもう十字架の贖い主」なのです。クリスマスとは主イエスへの信仰の告白であり、献身を決意する神聖な日です。神ご自身がわれらのために愛する独り子を下さるほどの愛への応答の日なのです。ここに「激突する神の愛」というメッセージと、それに応答する人間の礼拝の姿が記されます。

人間の罪と死の暗黒は深いのです。そこにとらわれると真っ暗闇の絶望の世界へと入ってしまいます。どんなに白いペンキを塗っても白くならない、どんなに明るいサーチライトで照らしても明るくならない。罪と死の暗闇。神ご自身がおいでになられ、全能の神が身代わりになって、十字架にかかり、復活して、死を打ち滅ぼされる以外に解決のない世界なのです。

聖書の指し示す本当のクリスマス。それはキリスト礼拝 (Christ・mas)の日です。心の中に大きな喜びを体験する日です。神の献身の愛を知り、献身の応答をする恵みの日なのです。そして、今主イエスに出会い、別の道を通って、自分の持ち場へと戻って行く日なのです。ここから新しい人生が始まるのです。ハレルヤ!

【祈り】

主よ。恵みのクリスマスを感謝します。今、わたしどもが一人残らず、主イエスを心に迎えて、新しい人生に入ることができますように。命を捨ててまでわたしどもを愛される「激突する神の愛」を受け、博士たちのように羊飼いたちのように、大きな恵みを証しする、すばらしい恵みの人生を歩ませてください。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン