2020年12月27日2020年最終主日礼拝
聖書箇所:マタイ2:9~12
説教者:深谷美歌子牧師
10年前赤羽にいたころは、空がぼんやりしていて、星を見つけようとしても、よほど大きい星でないと見ることができませんでした。10年ぶりに東京に住むようになりましたが、意外と、空気が澄んでいます。車の排気ガスがよい燃料をつかうようになって、よくなっているのでしょうか?
今日は東の国から星を見つけてユダヤにまで来た異邦の博士たちのことから、顕現日を思いつつみ言葉を聞いてまいります。
【聖書の概観】
9-10節 博士たちが出かけると、星が現れて、幼子のいる場所に導いた。
11節 幼子であるキリストに出会った彼らは、ひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を捧げた。
12節 ヘロデのところに帰るなとの夢のお告げで、別の道から帰った。
1)星を見つけよ。
9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 (9、10節)
救い主であるイエス様の誕生は、星が告げたと記されています。そして博士たちはこの星に導かれて救い主に出会ったことになります。
星が告げるということは一体、何を意味しているのでしょうか?
民数記24:17にバラムの預言があります。
「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。
彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。
ひとつの星がヤコブから進み出る。
ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり
モアブのこめかみを打ち砕き
シェトのすべての子らの頭の頂を砕く」。
このような言葉から、ユダヤ人はやがて救い主が来られるときは、星があらわれると信じていたようです。メソポタミア地方には捕囚で捕えられていったユダヤ人たちが暮らしていて、この人達が持っている信仰を博士たちも知る機会があったかと思われます。あるいは、異常な星が現れて、文献を調べた結果、ユダヤ人の王が誕生するときは星が現れるということを発見したのかもしれません。
このことを知って、彼らは長い旅をして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに居られますか?」と尋ねてきました。ヘロデからベツレヘムがそこであると知らされ出発すると、また星が現れ、動き始めて幼子の場所にまで導きました。彼らはこの星を見上げたときに、「喜びにあふれた」と記されています。(ここで寄り道です。ヘロデに集められた、祭司長、律法学者たちは、キリストが生まれる場所も知っていて、しかも星が現れたことを聞いても、イエス様を拝しに行こうとはしませんでした。エルサレムの人々も同様でした。自分の今の生活が大事だったのでしょう)
「わたしは輝く明けの明星である」とイエス様は語られました。金星は航海する人に方向を教えました。もしも、道に迷ったり、嵐の中で絶望状況に陥っても、航路を導く星をみつけることができたら、それは何という喜びで、安心だったことでしょう。
最近のカーナビは12個の衛星によって自分の車がどこにいて、行きたいところがどこで、そこに行くに一番早い道を導いてくれるのだそうです。
もし人生で迷った時、正しい道を示してくれるものがあったら、どんなに安心することでしょう。車のナビゲーターが、何億もある車をちゃんと導く以上に、正確に、やさしく導く星を見つけることができたら、一番幸いです。
渡辺きよという女性の証しを、皆さんにご紹介したいと思います。
渡辺きよ姉は、静岡の方で、女学校を最優秀で卒業した方でした。女学校の二年になったある日、突然、彼女は大きな疑問に捕らわれました。
・わたしは何を目標に?きたらよいのか?
・何のために勉強するのか?
・美しい自然はどうしてできたのか?
・人は生まれて生きて死んでいく。それで一切が終わりなのか?
・一体、人生とは何なのか?
彼女は、図書館で多くの本を読みました。また、先生に導かれて日蓮宗を研究し、朝4時から井戸水をかぶって「南無妙法蓮華経」を唱えたそうですが、少しも解決が見出されなかったそうです。あるとき、教会の箱根の聖会に導かれ、そこに集う人々の平安と喜びを目の当たりにし、「真の神があるのか、キリストがその方か?真っ暗闇の中で苦しむ魂のわたしも、真の神様がおられるなら信じたい!と思ったそうです。昼食後、谷間の一番奥の誰も居ないところに行って「私がまだ知らない神があるならどうぞわたしに現れてください」と祈ったそうです。そのあと、聖書の復活の箇所を読んでいるのを聞いていたとき、はっきり昇天するイエス様の姿が見え、信じました。目をあげ、求めたときに光を見出したのです。
光はイエス様です。イエス様を求めましょう。
2)ひれ伏して幼子を礼拝した。
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物を捧げた。(11節)
博士達は御子イエス様を発見して礼拝を捧げたと記されています。
「礼拝」するとはどのようなことを意味しているのでしょうか。
①礼拝とは、神様に自分をささげることです。
博士たちは、神の独り子イエスを、ひれ伏して礼拝しました。ひれ伏して礼拝したことがあるでしょうか?漢字で書くと「平伏す」です。広辞苑で調べると「身を平たくして伏しかがむ」とあります。いつか映画で、カトリックの尼僧になる儀式を見ました。教皇の前に全身をはべらせて献身を誓う場面がありました。あれが平伏すというのでしょう。神さまの前に全く己を投げ出した姿です。
②礼拝とは神様と出会うことです。
博士たちは、星に導かれて求めて行ったとき、幼子のイエス様に出会うことができました。礼拝は神様との人格的な出会いの時です。
渡辺きよ姉は37年間の家庭集会の中から教会を建て上げ、礼拝を捧げ続けました。そして、娘の百合子さんの喘息がひどくなり、重体となりました。横にもなれない、食事もできない。もう、死の一歩手前で、今夜持たないかもしれないと言われたとき、彼女は心を注いで祈りました。「神様、百合子はもう時間の問題だと医者に言われました。今夜のこともわかりません。しかし百合子はあなたを信じておりますから、いつ召されても天国へ行けることを感謝します。でも神様、百合子が召された後のわが家はなんと淋しい家庭となってしまうことでしょう。私は老い先短い者ですから、今後どれほどの苦労をしてもかまいませんが、主よ、どうかこの2人の孫を、母なし子にしないでください。弘を男やもめにしないでください。やもめは私一人で卒業させてください。」
この祈りと同時刻に、入院中の百合子さんは、これが最後の息になるかもしれないと思いながら、苦しい息をしていたというのです。その時、誰かがスッと立った気配をはっきり感じ取った百合子さんは、何の不思議も覚えず「イエス様だ」と直感したそうです。と、その瞬間、み言葉が、ハッキリ響いてきました。「たとい汝、死の陰の谷を歩むとも、われ汝と共にあらん。」死の苦しみの中でも主が共に居てくださるのだ、と解かったとき、平安がやってきました。と同時に肉体の苦しみも取り除かれ、呼吸ができるようになり、ベットに身体を伸ばして眠ることができたのでした。瞬時になされた癒しの御業であった」と記しています。礼拝とは神様の前に心を注ぎだして出でる姿です。そのものに現れ、出会ってくださるのです。
③礼拝は、神への感謝の応答を引き起こします。
ベアンテボーマン先生が、付き合いにくい同室の友達を何度誘っても、教会に
来ず、一度だけ行った後、すごく怒って「もういい」と来なくなってしまった。
それでも何回か行くようになったが、しばらくぶりに会った時、彼の奏でるチェ
ロは心に響くものになっていた。彼は牧師になっていた。いきさつは、彼が夢
で?イエス様が「ラッシーお前のお金をくれないか」「いやだ」「お前の才能を
くれないか」「いやだ」「お前の健康をくれないか」「いやだ」たくさんのイエ
ス様の求めを全部断った。最後に「お前の罪をくれないか」「あ、罪ならぜんぶ
あげるよ」この会話をしたときに、瞬時に彼はイエス様の愛がわかり、自分の生
涯をささげたのでした。ベアンテ先生も、チェロが一番だった生活から伝道
一番、チェロはそれに仕えるものになりました。博士たちも宝の箱を開けて、
黄金・乳香・没薬を救い主イエス様に捧げました。
3)新しい別な道
12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。 (12節)
博士達は、夢でヘロデのところに帰るなと導かれて、別な道を通って帰りました。救い主に出会った者は、神様の導きが与えられ、新しい道を歩み始めます。
ヘロデの所に帰るのは、この世の権力者に従う道でした。律法学者達もその生活から出ようとはしませんでした。が、イエス様に出会い、救い主を見つけた時、平伏して自分を捧げました。神様が別な道を導かれた時、それに従ったのでした。
私は自分の罪が解って洗礼を受けたのは、中学2年のイースターでした。それから礼拝を休んだことは、ほとんどありません。当たり前のことでした。でもそれで、生活が導かれ、守られてきたと思っています。
「新しい別な道」とタイトルを掲げましたが、この博士たちは別な道を通るように導かれて、自分の国へ帰ったのでした。
洗礼を受けたら、その日から、全く違う環境になるわけではありません。でも毎週礼拝で神様に出会い、日々神様に出会い(今年コロナで、早天が、リモートでできるようになり、毎日み言をにれはみ、分かち合って祈ることができました。今年一番の恵みでしたとクリスマスカードに書いてくれた方がありました。)み言に導かれて従う時、新しい道に導かれます。
このごろ洗礼を受けた0さんが「洗礼を受けると変わるかと思ったが別に何も変わらない。」と聖研祈祷会で語ると、「わたしもそうでした。」と語る姉妹がいました。でも今、「神様おはようございます、本当にありがとうございます」。と神様に出会い、お話ししつつ、感謝して歩まれています。
その中で転機になるような導きの時もあるかもしれませんが。
祈り
今日は、クリスマスの後、救い主を探してきた博士の記事を学びました。人生の星、イエス様を見つけ、見つけたら、礼拝し続け、神様に出会い続けること、導かれた道を歩む事を学びました。そこに居らせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン