説教「人生は出会いで決まる」使徒行伝9:1~9 深谷春男牧師

2021年1月10日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝9:1~9
説教者:深谷春男牧師

 

今年、成人式を迎えた兄弟姉妹、成人おめでとうございます。

また、ご家族の皆様や、ご友人の皆様、おめでとうございます。

国の定めた成人の日は明日ですが、1日前に祝福に与れるのはすばらしいことです。

 さて、今日の説教は「人生は出会いで決まる」です。これはユダヤの哲学者、マルチン・ブーバーの言葉として有名です。わたしも今年、70歳になりましたが、自分の生涯を振り返っても、いろんな方々と出会い、人格と人格との出会いを経験し、恵みの豊かな最高の生涯を歩んできたと感謝で一杯です。

― 思い出しますとわたしは20歳の日に、誕生日だったかも知れませんが、20歳になった記念に、何をしようかと考えあぐねた末に、「そうだ、息子に手紙を書こう」と思い立って、手紙を書きましたね。「わが息子、大介に」という手紙を書きましたね。いや~、思い起こしました。少し恥ずかしいですね。その時には、まだ結婚してもいなかったのですが、ですから、息子の名前も、その時に浮かんだ名前だったのですが・・・。その時の手紙を思い起こしておりました。あの手紙、本のどっかに挟まっているかも知れませんが、息子の二十歳の時に渡そうと思っていましたが、渡さないできてしまいました。内容も覚えていますね。わたしの生きているこの時代に、真実をもって歴史的責任を果たさねばと考えている。おまえも、自分の生きている時代に責任を持って生きて行くことを考えていることだろう。・・・―

 考えてみれば、自分の生涯の中で、父や母と出会い、兄弟たちと出会い、小学校に入る頃には友人たちと出会い、やがて教師や、書物の中で様々な人々と出会う。配偶者と出会い、子どもたちと出会う。教会では多くの兄弟姉妹と出会う。人格と人格との出会い。それはわたしたちの人生の宝の部分です。その中でも、主イエス様に出会い、全能の神に出会った体験は、自分の人生の宝の中の最も高貴な部分であると思います。主イエスとの出会い、全能者なる神との出会い、内住の聖霊様との出会いがなかったら人生は何と味気のないものになっていたことでしょう。

 ミケランジェロの描いた「サウロの回心」の絵画は、彼が馬から転落して、目が見えなくなっているさまが力強いタッチで描かれています。それは、失明してしまうような、そして、目からうろこが落ちるような衝撃的な出来事であると語っています。

 【今日の聖書箇所の概略】           

 熱心なパリサイ人で、最高学府のガマリエル門下で学んだサウロ(回

心後はパウロと改名)は、クリスチャンを嫌い迫害の先頭に立っていました。8章のステパノの殉教の時にも首謀者は彼であるといわれます。迫害の悪霊につかれた彼はエルサレムから260キロも離れたダマスコまで6日もかけて出掛けて行きました。クリスチャンを迫害し、投獄し、その信仰をやめさせようとしたのです。しかし、ダマスコのクリスチャンたち始め多くのクリスチャンが祈っていました。

彼の生涯にも分岐点が迫っていました。 

 【メッセージのポイント】                    

1) 1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。(1~2節)

⇒ 神様は人を変えることができる。             

 「エメラルド色の杯に盛られた白い真珠」と評されるダマスコの町。シリヤの砂漠からヘルモン山を越えると今までの茶色の多い光景とはうって変わり、緑の平原が続き、その中に白い壁の多いダマスコの町は真珠のように見えると言われます。その「エメラルド色の杯に盛られた白い真珠」のような町々を感動を持って見ながらも、サウロは「脅迫と殺害の息をはずませながら」(1節)血走った目で、クリスチャンを殺そうとして意気込んでおりました。そして今、そのパリサイ人で律法学者の若きリーダー、サウロが、主イエスに出会って、まったく新しい人生に作り変えられてしまったのでした。ここにはどのような人間でも主のみ前に変えられてゆくというチャレンジに満ちたメッセージがあります。 まさに「ハイッパレー メアドナイ」(主に不可能はない!)です。

 

2)3 ところが道を急いでダマスコの近くにきた時、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(3,4節)

⇒ 回心は突然、起こった。  

 どうして、あのかたくなで、頑固なサウロが変えられたのでしょうか?聖書は「突然」それが起こったと報告しています。使徒行伝にはしばしば「突然」という語が出てきます。ペンテコステも、ペテロの救出も、ピリピ牢獄での地震も、「突然」起こったのだと言います。しかし、少し、注意して読むとこの「突然」はまったくの突然ではなく、背後に熱心な祈りが積み上げられていたことがわかります。いわば、ダイナマイトの導火線のように祈りが続き、ある時、突然、爆発するのです。

 だから、主イエスは「失望することなく、常に祈るべきことを教えられた」のです。教会でひとつ思いで祈り合うときに主の奇跡は起こります。家族や、友人のためにも、たゆまず、祈り続けましょう。           

 

3)5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。(5-6節)

 ⇒ わたしはあなたが迫害しているイエスである!        

 5節には、サウロが「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」サウロはびっくり仰天!神からの光りは、主イエスご自身の言葉でした。「わたしはイエスである!」サウロの人生はキリストとの出会いによって決定的に変わってしまった。

 6節では、サウロは「さあ、立って、町に入って行きなさい。そうすればそこで、あなたのなすべきことが告げられるであろう」(6節)と主イエスから語られ、新しい使命に生きることとなりました。彼は、ダマスコのクリスチャンリーダーのアナニヤから、洗礼を受けて、今度は、多くの人々に福音を伝える使徒になりました。彼の劇的な生涯はまさに世界の歴史を覆すような働きでした。使徒行伝と13の書簡に、彼の生き生きとした信仰が残され、伝えられています。

さあ、あなたの人生にも、主の栄光に満ちた使命が待っています。 

 4)8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9 彼は三日間、目が見えずまた食べることも飲むこともしなかった。(8-9節)

 ⇒ 目から「うろこ」が落ちて。               

 アナニヤに祈ってもらうと「サウロの目からうろこのようなものが落ちて」(18節)サウロに確信がやってきました。目から「うろこ」が落ちて、彼が見たものは「神の愛」でありました。「自分の罪」でありました。キリストの「十字架のあがないによる赦し」でありました。それは「救い」であり、「永遠の命」でした。彼の生涯のみか全人類の歴史を変えてしまうすばらしい神の恵みの出来事でありました。

 昨年のクリスマス・イブのキャンドル・ライト・サービスで美歌子先生がメッセージをされました。説教題は「光が歴史に突入した日」でした。会衆席で聞いているときに、まさにクリスマスは、光なるキリストが、暗黒の世界に降りたもうた日、「光が歴史に突入した日」だと思いました。その礼拝の中で、51年前にわたしの上に起こった、キリストの突入の日のことを思い起こしておりました。パウロの心の中にも、同じことが起こったのでした。彼はこのキリストを伝えることに命を懸けて生きる者とされました。この世のあらゆるものを越えた、否、死さえも越えた新しい人生が始まったのでした。そして今、「光が歴史(あなた)に突入した」のです!

 主イエスに出会うところから新しい人生は始まるのです。大いなる人格であり、絶対他者なる神との出会いから、真の生涯は始まるのです。

 アブラハムも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、そして、ペテロも、サウロも、アウグスチヌスも、マルチン・ルッターも主イエスに出会って人生を大きく変えられたのです。主は人を変えることが出来るのです。

【 祈 り 】

 天の父なる御神。成人祝福礼拝を感謝します。今日は使徒行伝9章より、教会史の中でも、大変大きな出来事のひとつ、サウロの回心の記事を学ばせていただきました。あなたは迫害者サウロを作り変えてご自身の器となさいました。どのような人でも作り変えうるあなたを見上げます。しかもそれは突然に起こることを学びました。今まで霊のまなこを覆っていたうろこが落ちて、はっきりと主よ、あなたを見上げ、使命を確信して歩むことができるように我らを導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。