説教「義なる神、悪の縄目を断ち切らる」ー都もうでの歌⑩ー詩篇129篇 深谷春男牧師

2021年1月17日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:詩篇129篇
説教者:深谷春男牧師

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33) ハレルヤ!

 主イエスが語られたように、わたしどもがこの地上で生活する時には「この世では苦難があ」ります。小さな苦難は日々体験するところです。時々、朝早く起きるのが辛かったり、足の関節が痛かったりします。虫歯の痛さなどは中ぐらいの苦難(?)。家族の誰かと小さな諍いをする時、職場や学校で友人とぶつかったりすることもあります。しかし、時にはそれらの小さな苦難を越えた「大きな苦難」と直面することもあります。年老いた両親との死別や、配偶者との死別等は誰でも体験せねばならない人生の悲しみです。また大きな病気をすることや不慮の災いに直面する時、わたしたちは今まで自分が立ってきた人生の基盤がもろくも崩れて行くような動揺を体験します。今日は詩篇129篇を通して「苦難に勝利する」道を一緒に考えてみたい。

【テキストの解説】  詩篇129篇は「都もうでの歌」の10番目の歌です。この詩編は「若い時からの苦難」を歌っており「今、イスラエルは言え」という言葉から始まり、詩篇124とよく似て「苦難の問題」を扱っています。前回は詩篇127篇と128篇を学びました。それは「家庭の問題」を扱っています。改めてこの人生巡礼の流れを見ると以下のようです。

120編 求道決心の歌 争いを好む異民族間に住む不幸 神の平安を求める

121編 エルサレムへの出発の歌 巡礼の旅の安全を祈る 主は見守り給う

122編 エルサレムに到着 その足が城壁の中に入った喜びと都の美しさ

123編 エルサレムの礼拝堂での礼拝 神を仰ぎその憐みの御手に注目する

124編 苦難の問題 試練を回顧 火の中水の中を通った 臨在こそ救い

125編 不動の信仰歌 神の民を守る全能の神へのバタフの信頼を告白する

126編 伝道の歌 過去の救い 現在の熱き祈り 将来への希望を歌う

127編 家庭の歌  神なき人生、神なき家庭の空虚さ 信仰継承の子宝

128編 家庭の歌  神を畏れ礼拝する家庭は豊かな祝福と充実を得る

129編 苦難の問題 背中に受けた鞭の傷、義なる神、悪の縄目を切断す。

130編 深き淵より神を呼ぶ 人間の罪と死の深淵の希望は神の慈愛と贖い

131編 母の胸にある幼子の如き信頼をもって、神の慈愛と贖いを待望する

132編 エルサレム礼拝のクライマックス ダビデの選びとシオンの選び

133編 エルサレム礼拝の歓喜 兄弟愛の恩寵 ヘルモン山の露の如し

134編 エルサレム礼拝の終了と帰路に就く挨拶 祭司たちへの祈祷依頼

 このように見ると人生の深い関心事が浮き彫りにされます。即ち、人生の主要な関心事は、「神礼拝」「人生の苦難、不条理への解決」「神の守り、慈しみ、贖い」「信仰の家庭」「神の民、兄弟愛」等・・・です。

 この詩篇129篇の内容は 1ー4節 若き日の苦難と苦難への勝利 

              5ー8節 神の正しい裁き

【メッセージのポイント】

1)1 今イスラエルは言え、

「彼らはわたしの若い時から、ひどくわたしを悩ました。

2 彼らはわたしの若い時から、ひどくわたしを悩ました。

しかしわたしに勝つことができなかった。

  3 耕す者はわたしの背の上をたがやして、

そのうねみぞを長くした」と。(1ー3節)

⇒ 背中に受けた傷が溝となる。

 この詩篇、129篇は「都もうでの歌」の中ではあまり人気がありません。ある注解書では、このような周りの諸国を呪うような詩篇は、人生巡礼の歌の中にはあまりふさわしいものではない」などと否定的に評価する者もあります。でも、果たしてそうなのでしょうか?

 まず、この詩篇は「今イスラエルは言え」という言葉から始めます。

 「彼らはわたしの若い時から、ひどくわたしを悩ました。」この言葉が二回続きます。「彼ら」とはこの詩篇の背景を語っていると思われますので、イスラエル民族の周りにいた、他民族のことです。彼らは、自分の背中を耕し、その畝溝(うねみぞ)を長くしたと表現しました。

 イスラエルの民が受けた迫害の歴史。イスラエルの民は、エジプトの奴隷として400年間、パロ王から大変な苦難を受けました。エジプトを脱出した後も、ペリシテ人、それからアッスリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国・・・。彼らはイスラエル民族の背中を耕した。

 それは、農民が、かちんかちんの土地を畑にするために大きな鋤を入れるようだった。鋤と言っても小さなものではなく、線路の枕木に使われるような太いくぎを打たれた太い枠を作り、それを頑丈な綱をつけて牛や馬で引かせ、重い石をつけて、土をがりがりと耕すことだった。「わたしの背中を耕し、溝を長くする」とはそのようなできごとだったと言うのです。うつぶせに寝ている人の背中に鋤を入れる、もしもそんなことをしたら大変なことになるわけです。でもそのような表現でしか表現できない、言語に絶する苦難を経験してきた。その様な、苦難迫害に遭いつつも、「彼らはわたしに勝つことはできなかった」。神が共におられたからだと彼は語るのです。これは詩篇124篇の「火の中、水の中を通った体験」と同じです。アッスリアの捕囚やバビロン捕囚の体験は、イスラエルの民の中に深く食い込んでおりました。絶望の深み。神共におられなかったら、生きてゆけないような死の陰の谷。救いは神の臨在にあり。

 

2) 4 主は正しくいらせられ、悪しき者のなわを断ち切られた。(4節)。

⇒ 義なる神、悪の縄目を断ち切らる!

 この4節はこの詩篇の中心的なメッセージでしょうか。奴隷として繋がれた「綱」「縄目」を、「義なる神」が断ち切ってくださったと完了形で記しています。「義しきヤーウエよ、彼は悪しき者の縄目を断ち切られた!」(関根正雄訳)。イスラエルの民を奴隷の縄目から解放してくださったのは、「義なる神」だと告白しています。直訳では「主は義なり(アドナイ ツェデク)!」です。関根正雄は「この『義』が『救い』を含意することは、次の『彼は悪しき者の縄目を断ち切られた』がこれを示す。・・われわれもキリストの義にすがって罪の縄目から解き放たれるのである。」と語る。キリストの義、ロマ3:21~26まで7回にわたって言及される「神の義」は、主イエスの十字架と復活である事が語られます。まさに「義なる神、主イエスの十字架と復活において、サタンの縄目を断ち切らる!」です。

 内村鑑三の弟子、伝道者、藤井武先生に関するこのような文章を読みました。

藤井先生は心から妻の喬子(のぶこ)夫人を愛していました。その喬子夫人が29歳で5人の子を残し天に召されました。1922年(大正2年)10月1日のことです。藤井武は歎いて翌年から「羔(こひつじ)の婚姻」という長詩を書きます。もともと藤井武は詩人でもあり、岩波文庫からミルトンの「楽園喪失」の翻訳も出している方です。 その喬子夫人の葬儀で、藤井武の先生、内村鑑三はこう語りました。「神様、あなたは誰よりも、藤井にとって喬子夫人がなくてならぬ女性であることをご存知のはず。なぜ彼女を取り去りたもうたのか!神よ、わたしは、あなたを撃ちたくあります!」と、彼はこぶしを振り上げて叫びました。最前列でこれを聞いた藤井武は「アーメン」と応答したのです。彼は愛する奥様の死の際に受けた聖句は「汝、われをもたげて、投げ捨てられたり」(詩篇102・11)であったとまで書いております。しかし、内村鑑三は、言葉を継ぎ「しかし、信仰は、神を義とし奉ることであります!」と結びました。神の前に沈黙せよとの教えでした。

「神を義とすること」。新約の恵みの中に歩むわたしどもはそれが何であるかを知っています。「イエスキリストにある命の御霊の法則はわたしどもを罪と死の法則から解放した」(ロマ8:2)とパウロは叫びました。

 十字架と復活の主イエス様を受け入れる時に、わたしどもは魂の根本から解放といやしを体験する。苦難への勝利は主イエスを信じ受け入れる事なのです。

 先週の祈祷会で美歌子先生が、藤井圭子先生の証しをされました。離婚したいと考えていた夫の入院先に訪問するため、車のエンジンをかけるときに時「いやだな!」といつも思っていたのに、主イエス様を受け入れたその翌日から、あの苦い思いは消えていた!主イエスの救いを受け入れる時、「義なる神、悪しき者の縄目を断ち切らる」という、軽ろやかな、解放体験をするのです。

 

3)5 シオンを憎む者はみな、恥を得て、退くように。

  6 彼らを、育たないさきに枯れる、屋根の草のようにしてください。

    7 これを刈る者はその手に満たず、

   これをたばねる者はそのふところに満たない。

   8 かたわらを過ぎる者は「主の恵みがあなたの上にあるように。

    われらは主のみ名によってあなたがたを祝福する」と言わない。

  ⇒  神の裁きを恐れよ。               (5ー8節)

 5節からこの詩人の語調は突然変わります。シオンを憎む者への宣言がここにあります。ここには主に従わない高ぶる者の姿が4つの喩えで語られます。

 1)最後には自分の罪と恥があらわにされ、恥じて退く。

 2)屋根に生えるペンペン草のように砂漠の風で萎れてしまう。

 3)人生の収穫の時にその懐に抱く束はない。

 4)悪しき者には祝福の言葉が語られることはない。

*8節最後の一行をその前と切り離し「われらはあなた方を祝福する」との祭司の会衆祝福と解するも可です。(関根正雄、松田伊作、フランシスコ会訳等)

 詩篇129篇は、苦難の中に陥ったわたしどもを励まし、語ります。

「義なる神の歴史支配を見通す事は、現在の試練と苦難に打ち勝つ力なのだ」と。何よりも「義なる神がメシアなる救い主を送って、救いを成就されると約束された、義なる神の歴史支配の救いの頂点、キリストの十字架と復活を受け入れるときに、罪と死の呪いの縄目は切断され、救いの約束は成就する」とこの詩篇は証ししています。ハレルヤ!   

 

【祈り】 義なる救いの神よ。詩篇129篇を感謝します。どのような試練や不条理を経験しても、あなたの全能の力、摂理の御業を見上げ、その頂点である十字架と復活の恵みにより、罪と死から解放され、御霊による勝利の道へと導いてください。あらゆる苦難に勝利する道を教えてください。「義なる神、悪しき者の縄目を断ち切られたり!」との救いを証しする者としてくださいますように。わたしどもの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン