説教「我、深き淵より汝を呼ぶ」ー都もうでの歌⑪ー詩篇130篇 深谷春男牧師

2021年1月24日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:詩篇130篇
説教者:深谷春男牧師

「都もうでの歌」も、今日はもう、11番目となりました。信仰者の「人生巡礼の歌」も15の詩篇を学んできましたが、終わりに近づいてきましたね。わたしたちの人生は、地上で生を受けて、与えられた馳場を走ります。そして最後は天のお父様の所に帰るまでの生涯です。その人生途上で、今日は、非常に深い、人生の根本問題に目を留めた詩篇を学びたいと思います。 

【詩篇130篇の概説】

 さて、今日、一緒にお読みします詩篇130 篇は、詩篇の中でも特に有名なもののひとつです。マルチン・ルッターやジャン・カルヴァンの体験した宗教改革は、神の言葉である聖書の内容が、はっきりと指し示された出来事でした。中世時代はクリスチャンが多かったのですが、聖書はあまり読まれていなかったようです。ルネッサンスから始まる文芸復興は、ギリシャ・ローマの文化と聖書の世界の理解がぐんと深まり、「聖書」が語っている内容が理解されました。特に、ルッターは詩篇とロマ書を愛して、福音の本質に迫る鋭い福音理解から宗教改革が起こりました。ルッターやカルヴァンは詩篇を特に愛していました。ルッターは詩篇の中でも特に、「パウロの詩篇」と呼ばれた詩篇第32篇、51篇、130篇、143 篇を愛しておりました。 教会の歴史の中ではオリゲネス(182-251年)以来、「7つの悔い改めの詩篇」は更に6、38、102篇を加えます。

 この詩篇130篇は「我、深き淵より汝を呼べり」と言う印象的な、最初の聖句によりバッハの音楽をはじめ多くの芸術の主題として選ばれました。また、罪の中で苦しむ人、あるいは病いの中にある人々に限りない勇気を与えつづけました。構造は以下のようになります。

  深い罪意識と深淵よりの叫び (1-4節)、

  神の救いの業への熱い待望  (5-6節)、

  神の豊かな愛と贖いへの信仰 (7-8節)

 

【メッセージのポイント】

1)都もうでの歌

1 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。

2 主よ、どうか、わが声を聞き、

あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。

3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に

目をとめられるならば、

主よ、だれが立つことができましょうか。(1~3節)

⇒ 自分自身の罪の深みから、神を呼ぶ。

 「われ、深き淵より、汝を呼ぶ」。深い淵とは、陰府(よみ)の世界のことです。関根正雄氏によると、「陰府の世界とは、古代の人達の考えた、神から遠い、死者の世界のこと。そこは神の光の届かない、神との交わりのとだえたところ」と解説されます。詩人はそこから神を呼びます。神を呼べないような絶望のドン底から、救いの神に祈っているのです。

 どうしてこの詩人はこのような深淵、真っ暗闇の世界のようなところに落ちてしまったのでしょうか。3節にその内容が示されます。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に、目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか?」ここであきらかになることは、詩人にとって深淵は、罪の問題でありました。人間は自分自身の弱さと愚かさのゆえに、聖い、真実の神様の前には立ちえない存在なのだと痛感しているのです。

 皆さん。皆さんが教会に来て、神様の救いを求めた体験を思い起こしてみてください。礼拝の後に持たれるコイノニアで、信仰の先輩が証しをする時に、「わたしが19歳の時でした。教会に来て、自分の罪を悔い改めて、主イエス様の十字架の贖いを信じて、クリスチャンになりました。」「あ、長谷川さんも19歳ですか。わたしも19歳の時でした。」「え~、守部さん19歳の時ですか。わたしも19歳の時でした!」「え~、深谷先生も19歳・・・・」とやたら、19歳で洗礼を受けた人が多かったですね。

 昔の小松川教会の原登先生の伝道説教は「わたしが16歳の時、神様を信じて新しい人生に入りました。」「原先生の16歳」は有名になりました。数年前には広島の植竹利侑先生の証しを聞いたら先生も16歳の時でありました。真面目に自分の生活を省みる時に、自分の醜さ、自分自身の愚かさに、深く深く、傷つきながら、神様に祈る青年たち。「ああ、われ深き淵より、汝を呼ぶ」これは、クリスチャンになる時の自分自身の姿ですね。マルチン・ルッターもカルヴァンも、ウェスレーも、罪との格闘の中で、その罪の深淵から主を待ち望み、主に祈りを捧げました。

 

2)4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、

人に恐れかしこまれるでしょう。

5 わたしは主を待ち望みます、

わが魂は待ち望みます。

そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。

⇒ 御言葉によって望みを抱け。

 4節に「しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょうとあります。毎日起こってくるさまざまな出来事。真剣に戦いながら生きてゆきますが、時には、誘惑に負け、罪に破れ、涙を流すような体験が、わたしたちには多くあります。

修道院で、朝三時から起きて、修道の歩みをしたルッターなどは、実に、生々しい戦いだったことが知られています。自分の思いや隠れたところで経験する罪と戦い、ある時には断食を、ある時には徹夜をして祈り、死ぬ一歩前にまで、夢遊病者のようになって修行していました。神が赦しの神でないなら、生きる希望も、すべてを失ってしまうところだったでしょう。

さらに5節には「わたしは主を待ちのぞみます。その御言葉によって望みを抱きます。」(5 節) とこの詩人は叫んでいます。

詩人にとって、深い罪に閉ざされた、絶望の世界での、唯一の希望は、神の言葉、聖書の約束でした。特に罪からの救いの約束でした。聖書は素晴らしい約束で満ちています。

《基本的な救いの約束》ロマ3:21-26や、ガラテヤ2:16など。

《わたしの愛唱句》詩篇119:68。「あなたは善にして、善を行われます。」

山室軍平先生の註解書を読んだら、たくさんの御言葉が書いてありました。《あなたとあなたの家族の救いの約束》:使徒16:31 主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。

《行きづまりからの脱出の道》 Ⅰコリ10:13あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

《魂を救う力》ヤコブ2:21、御言葉にはあなたがたの魂を救う力がある。

《生活難に不安を覚える時》マタ6:33、まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

《悩みの中に陥った時》詩篇50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。

《思い煩いでノイローゼになりそうな時》ピリ4:5~7 主は近い。6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

《死に直面した時》:ヨハネ14:1~3  1あなたがたは心を騒がせないが良い。神を信じ、またわたしを信じなさい。2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もし、なかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。3そして場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおるところに、あなたがたをおらせるためである。

 「御言葉には、あなたがたの魂を救う力がある。」ハレルヤですね。

3) 6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、

夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。

7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。

主には、いつくしみがあり、

また豊かなあがないがあるからです。

8 主はイスラエルを

そのもろもろの不義からあがなわれます。

⇒ 神の愛と豊かなあがない。

 神様の深い愛に依り頼む者はさいわいです。また主イエスの十字架のあがないを知る者は幸いです。いまや、弱い、罪深い私共も救いの中に入れて下さる救いの業は、成就しているのですから。

 ここには二つの重要な聖句があります。

 一つは「いつくしみ(へセド)」これは神の慈愛、神御自身の「最愛」です。

 もうひとつは「あがない(パーダー)」です。これは、借金のために落ちぶれてしまった親族を買い取り自由人にするという意味です。わたしどもを最も深く愛してください、わたしどもの罪を贖ってくださるのは神のみ!と強調されています。

 1970年6 月17日星野富弘さんは、 高崎市の倉賀野中学校の体育教師をしていたが、クラブ活動で模範演技をしているときに失敗して首の骨を折った。そして、首から下は、全くマヒしてしまった。その絶望の底で彼は、クリスチャンとなった。しかし、彼は今、口に絵筆をくわえて絵を描き、詩をつづる。彼の本の題名は『愛 深き淵より』でした。彼の絵と詩は多くの方々を今日も励ましています。やがて主の再臨の時に、救いの業は成就します。ハレルヤ

 わたしどもの生涯も同じです。救いは自分の立派さからくる神のご褒美ではありません。自分の破れを知り、主の御前に砕けた悔いる心の者に与えられる神の一方的な恩恵なのです。そこには深い罪の認識と、罪深い自分への神の恩寵認識があります。

 関根正雄先生の解説:神の救いの業への応答として「信仰」、神の救いの業への「希望」、神の深い恵みの贖いのわざとして「愛」が記され、旧約聖書の中で、新約聖書に最も近い証言の一つである。

「十字架の血にて贖われたり!」の原点をしっかり自分のものとしましょう。

 

【 祈 り 】 主よ、今日は詩篇130篇を通して、救いの原点を学びました。自分の深い罪性を認め、御言葉を通して罪の赦しと潔めを経験し、砕けた、悔いた心で主の御前に出て、神の愛と豊かな贖いに信頼するものとならせてください。ルッタ―をはじめ代々の聖徒に倣って、十字架の贖いと聖霊の満たしを勝利の原点とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン!