説教「一人も残らず癒やしてもらった」使徒行伝5:12~16 深谷美歌子牧師

2021年1月31日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝5:12~16
説教者:深谷美歌子牧師

 病の癒しということは、人類の悲願ですね。イエス様が宣教された時も大勢の群衆がおしよせていました。今日の個所は、イエス様昇天後のことで、使徒達の癒しの記事です。本当の癒しを一人残らずいただけますように。

使徒行伝のメッセージは、4か月ぶりです。それで、すこし振り返ってみましょう。

前回までの内容は、聖霊降臨の後、ペテロとヨハネが礼拝に行く途中で、足のなえた人の癒しから騒動、投獄、裁判、脅し、釈放、教会の祈りが捧げられた。(①み言葉を語らせてください。②主の名によって病気の癒し、しるしと不思議な業を行わせてください)教会の素晴らしい共同体の姿、アナニアとサッピラの悲しい出来事、でした。

その悲しい出来事を越えて、教会の業がなお進展し続けられ、二番目の祈り、「主の名によって病気の癒し、しるしと不思議な業を行わせてください。」が答えられた内容が本日の個所です。

 

本日の個所の概観

12a節  しるしと、奇跡が、使徒たちの手によって行われた。

12b節  信徒は心を一つにしてソロモンの廊で集まっていた。

13-14節 ほかの者たちは入らなかったが、民衆は尊敬し、仲間に加わった。

15-16節 病人をペテロの陰でもかかるようにと連れてきて癒された。

 

【メッセージのポイント】

1)心を一つにして祈ろう

そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。

                       12

この内容は、4章30節で、心を合わせて祈ったことの答えられたできごとでした。12節後半でも、一同が心を一つにして集まっていたとあります。礼拝のためであったと思いますが、祈りのためでもあったと思います。教会は誕生した初めから、そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。使徒2:42、43のでした。現代の教会でも、この原則は変わりません。私達は、信仰生活にどのようなことを期待しているでしょうか?ある方が、キリスト教は、ご利益宗教ではないが、心の問題だけを扱う精神主義でもない。「出来事宗教」です。と書かれていました。

病気のいやし、不思議な業は「使徒たちの手によって」なされたのですが、それは背後にある「主の名」によってです。4章30節にも、そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。と、業をなしてくださるのが、イエスの名であることを言い表しつつ、祈っています。

ソロモンの回廊というのは、家に入りきれなくなったクリスチャンの兄弟姉妹が集まっていたところのようです。アナニヤ、サッピラの出来事があって、なお一層心を一つにし、祈っていたことがうかがわれます。その時、病気のいやし、悪霊からの解放の業が起こされました。

 

中島豊先生も大学2年?のとき大きな腫瘍がおなかにあるといわれ、聖書学校の早天祈祷会に祈りを依頼しました。全国のホ群の諸教会にも祈りを依頼して祈ったところ、手術に臨んだとき癌がなくなってしまっていた。と聞いたことがあります。

 わたしも、頚椎損傷ということで、寝たままでは、舎監はできません、と祈り、多くの皆様が祈ってくださいました。娘が「なんかKGKの人達までいのってるよ」。どこで伝わったのか多くの祈りを捧げてくださり、癒されました。

 

わたしたちの信仰は、具体的な生活の中に、御業を拝することのできる、生ける主を信じるものです。教会で心を合わせて主の業が起こされるように、期待して祈りましょう。それが周りに主を証しするものとなりますように。

 

2)交わりに入ろうとしない

 ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかった 13節

「ほかの者」とは、交わりに入ろうとしなかった者たちです。「ほかの者た

ち」を、「支配者」「司たち」、あるいは「レビ人達」と訳している方もあ

ります。

この後の、17節以下の記事を見る時、大祭司、その仲間サドカイ派の人々が、嫉妬の念に満たされて立ち上がり、使徒達を留置所に入れた。とありますから、この「ほかの者」は支配階級に属していた人で、この層の人々が「だれひとり入ろうとしなかった」ということはあったのかもしれません。

 

先週の聖書研究祈り会のマタイの学びでも、パリサイ人達は、イエス様が、盲人の癒し、耳と口のきけない人をきけるようにした出来事を見ました。5 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。イザヤ35:5‐6 このメシヤ預言を彼らこそよく知っていたはずなのに、そのことが成就している出来事を見ても、「悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのだ」と素直にイエス様がメシヤですと認めることができませんでした。

今日の個所でも素晴らしい業が起こっているのに、この中に入ってこない人々がいたことが分かります。

 これまでの生き方を否定することは、私たちもなかなか難しいものです。虚心坦懐になって、神のなせる業を認め、受け入れましょう。

 

3)一人残らずいやされた。

民衆は彼らを尊敬していた。14 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。

またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。    5:13b-16

弟子たちの真実な生き方は、素直に見ていた民衆の尊敬を得ました。彼らは救われた者達の、真心からの姿を見たのでした。

しかし、とありますが、交わりに入ろうとしなかった人々がいたにもかかわらず、もしかして権力者ににらまれるかもしれませんが、それにも関わらず、イエス様を信じる者がつぎつぎ起こされたのでした。

 今回ここを学んで解ったことは、大勢の人が、たぶん、本当に癒され、救われた人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を「引き連れて」、使徒達の所にきたことでした。彼らはあまりの救いの素晴らしさに、何とかして「引き連れて」きて、一人残らず癒されたのでした。

 

見えるところで、不思議な業が起こされるのもすばらしいですが、「「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」と言うように、肉体だけのいやしは、また違う課題が生じてくることでしょう。

イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。ヨハネ4:13-14 と、スカルの井戸に人目を避けて水を汲みに来た女性に、語りかけました。救い主に会ったと、町に走って伝えに行ったことが起こりました。 

究極のいやしとして、一人ひとりに与えられたので、「引き連れて」でも連れて行ったのだと思わされました。永遠の命のいやしです。

 

滝元明先生は生涯、伝道に身を捧げた方でした。近所の方だったと思いますが、それまでも伝道していたおじいさんが、「イエス様を信じれば、罪赦されて永遠の命が与えられますよ」と伝えても、牧師の仕事で「商売だから」と言っていたそうです。今にも死にそうにその人がなって、その後に及んでも「おじいちゃんイエス様を信じて」と言った時も「商売だから。」といったそうです。そのとき、「商売じゃない。今おじいいちゃんが信じて、僕に何の得があるの!永遠の命に入ってもらいたいからだよ!」と言ったとき、はっとして信じた。と話されたことがありました。

この命の素晴らしさは、愛し合う喜びの世界です。もし、地上では、心を通じきれないものがあったとしても、そこでは、本当に和解できる愛に包まれた世界です。

イエス様は天国はどこかにあるのではなく、あなたがたのただ中にある。と言われました。今から、赦しをいただきましょう。

「最近世界で一番あなたを愛している」と言ってくれる人がいない人もたくさんあるのだと気付かされました。

でも、神様は、あなた一人を特別に愛してくださっているのだとも気付かされました。このことに気付いて、わたしたちが、この本当の喜びに生かされるとき、周囲の人々も求めてくるようになるでしょう!

 

【祈り】 父なる神様、今日は、迫害、アナニア事件など、サタンの内部からの攻撃にもかかわらず、①一つになって祈って、教会が神様の業を拝し、②加えられるものが起こり、③エルサレムから周囲にまで癒しが及んで行ったことを学びました。究極のいやしをいただいている喜びを伝えるものとして、人々を引き連れてくるほどの恵みで満たしてください。      

主の聖名によって祈ります。アーメン。