説教「乳離れしたみどりごのような平安」詩篇131篇ー都もうでの歌⑫ 深谷春男牧師

2021年2月7日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:詩篇131篇
説教者:深谷春男牧師

 先日、2月4日、ついにわたしも、71歳を迎えました。昔は、赤羽教会の牧師の頃、28歳で「青年牧師、深谷先生!」などと紹介されたわたしも、いまは71歳(!)になりました。昨年、古希を迎えて、びっくり仰天でしたが、コロナの騒ぎの中で、あっという間にその1年を過ぎて、71歳。ただただ神様のご恩寵ゆえ、皆様の祈りに支えられて、感無量です。ハレルヤ。

 今年の2月4日は木曜日で。聖書研究・祈祷会でした。そこで詩篇73篇を読みました。素晴らしい聖句で、今年はここを誕生日の聖句としようと心に定めました。この詩篇73篇の最後の聖句、深い主の導きを感じました。

73:28しかし神に近くあることはわたしに良いことである。

神に近き生涯を歩め! 人生の最善は、神に近きことにあり!」

詩篇73篇の締めくくりとして、詩人は、神の遠きことは滅びであり、神に近きことはまことの幸いであると宣言しています。新約聖書の中で、パウロはまた言います。「主は近い。何事も思い煩うな。」(フィリピ4:5、6)。われらのために十字架にかかり、復活してわれらを永遠の御国へと導かれる主イエスはわれらに最も近い存在なのです。

 

【テキストの解説】

 今日は皆さんと詩篇131篇を読んでみたいと思います。この詩は「都もうでの歌」と呼ばれる15の詩篇(詩篇120-134篇)の中の12番目のものです。「都もうでの歌」というのは、神殿のあったシオンの丘に向かい、エルサレム上京の際に賛美した巡礼歌であろうと言われている詩集です。神様によって祝福された人生歌集とでも呼ぶべき愛唱詩篇です。その131篇は「幼子のような平安」を歌った珠玉の詩篇です。わずか3節しかありません。しかし、その内容たるや聖書の信仰の真髄を表しています。A.ヴァイザ―はこのように解説しています。

「これは円熟した信仰の注ぎ出されたものであって、詩編中、最も美しい詩に分類されるに値する。へりくだった信頼の微妙な調子は、沈み行く太陽の最後の光線が柔らかな光で満たす静かな谷間に、夕べの時を告げる平和の鐘のチャイムのように響いている。」(榊原訳)

 

【メッセージのポイント】

ダビデがよんだ都もうでの歌

1 主よ、わが心はおごらず、

わが目は高ぶらず、

わたしはわが力の及ばない大いなる事と

くすしきわざとに関係いたしません。(1節)

 ⇒ 謙遜!

 この詩篇はまず、「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。」と歌っています。詩人は、ある種の信仰的な体験をして、神様への信仰に目が開かれたようです。それは何であるかは定かではありません。彼は、「おごらず」「高ぶらず」と歌っています。多分、この詩人は「おごり」「高ぶり」を体験し、傷つくような体験をしたことがあったのだと思います。聖書の中には「驕る心」と「高ぶる眼」は典型的な悪として記されます。

 「関係いたしません」は「追い求めません」とも訳され、もともと「歩き回る」という語の強意形で、自分の野望のために走り回っていたことを強く表現しているのだと言われます。しかし、さまざまな挫折や苦しい体験を通して、この詩人は、神様に出会って、新しい境地へと導かれたのでしょう。「あるがままで、主に愛され、受け入れられていることを自覚した信仰者の謙遜」がここにはあります。無理に背のびしなくてもいい。真の謙遜は、被造物である自分を自覚し、自らをあけわたして、創造主の栄光を現すことだと示しています。

 この詩人の示す信仰生涯の第一は、「謙遜」、ということです。

 4世紀の偉大な神学者アウグスティヌスは、「キリスト教の教えで何が一番大切ですか?」と弟子に問われたとき、一言、「フミリタス」(humilitas.謙遜)と答えたといいます。「では、二番目に大切なものは?」という問いに対して、再び「フミリタス」。「三番目は?」と聞かれると、同じように「フミリタス」と答えたと言われます。

 これはピリピ書2章の、「キリストの謙卑」というところから記された言葉なのでしょう。主イエスがまず、天からわたしどもの世界にくだり、わたしどものためにあがないとなり、罪と死を打ち砕いてくださいました。ここに神の救いがあります。神の愛があります。そのような意味で、信仰は、第一に謙遜、第二に謙遜、三、四がなくて、五に謙遜と言ったところでしょうか。

 

2)2かえって、乳離れしたみどりごが、

その母のふところに安らかにあるように、

 ⇒ 霊的成長!

2節で2回「乳離れしたみどりご」と言う言葉を使用しています。しかし、この言葉は少し難解なところがあると言われます。この言葉は、口語訳では「乳離れしたみどりご」と訳されています。新改訳でも「乳離れした子」と訳してあります。「乳離れした子」です。それは赤ちゃんというだけではなく、もう少し、成長して、お母さんのおっぱいをほしがらなくなった子供を意味します。そのように理解すると、口語訳のほうがわかりやすくなるのではないでしょうか。

2 かえって乳離れしたみどりごが、

その母のふところに安らかにあるように、

わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。

わたしの魂は乳離れしたみどりごのように

安らかです。(2節)

 「赤ちゃん」はお母さんのオッパイが大好きでなかなか離れられません。しかし、赤ちゃんが成長して、ある時からおかあさんのオッパイを卒業してゆきます。そして、二度とオッパイを欲しがらなくなります。詩人はこの子供の姿に例をとって、かつて心引かれていたこの世の何物かに決別でき、神様を第一に出来るようになった心境を語っているのだと何人かの聖書学者は言います。ここには、霊的な成長があります。この世の何かに囚われ続けるのではなくて、神様を第一にしながら、霊的な成長をなす魂の姿です。

 パウロも言います「この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまった」(ガラテヤ6:12)。この世からの「乳離れ」して、神に結びつくのです。

 わたしも自分の洗礼を受けた時の平安を今も思い出します。19歳の時でしたが、この世のさまざまなものにとらわれて、あちらにふらふら、こちらにふらふら・・・。そして、自分の求めにかなわない現実に、泣きわめいたり、八つ当たりしていた自分。赤ん坊のように泣きじゃくって、周りを困らせていた自分が、主イエスの御前に出て、自分の弱さ、愚かさ、醜さ、破れをすべて知り、主イエスの十字架の血潮であがなわれ、新しい人生に導かれたときに、練馬1丁目1番地の三畳間のアパートで絵を描いていたときに、窓から差し込む夕日の光や、遠くであそぶ子供たちの声を聞きながら、

「ああ、こんな静かなときがある。

  こんな安らかなときがある・・」

と主に感謝したときのことを思い出します。

乳離れして、幼いながら、一個の人格として成長し始め、しかも、お母さんに深く信頼して、その腕ですやすやと眠る幼子の姿。

新改訳聖書ではこのように訳しています。

2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。

乳離れした子が母親の前にいるように、

私のたましいは乳離れした子のように御前におります。

 「この幼児は、乳離れした幼児である。この幼児が母の膝の上にあるのは、乳房をほしがっているからではない。ただ、母と共にある安堵感が、彼にまどかな眠りを与えるのである。幼児の全生活は母の手に託されている。子は母さえあればそれで充分であり、それが全部である。詩人は母の膝に眠る幼児のさまを眺めて、神と人との間もこうでなくてはならないと思ったのであろう。神さえい給うならば満ち足りるはずである。キリストこそ、われわれキリスト者の至上の善である。」(浅野順一)

 ベアンテボーマン先生が、ある時、深い主の導きの中で「チェロ第一、イエス様第二」から、「イエス様第一、チェロ第二」となった時に、自分の演奏にも、本当の霊的平安と深い演奏の世界へと導かれた、との証しを思い出します。

 

3)3イスラエルよ、今からとこしえに

主によって望みをいだけ。   (3節)

 ⇒ 平安!

 ここで詩人は、「イスラエルよ、今からとこしえに、主によって望みをいだけ。と語り、この詩を締めくくります。自分自身の霊的な一段落の成長の告白を通して、子どものような純粋な信仰を持ちました。そして今、彼はイスラエルの民、共同体に呼びかけます。「私のたましいは乳離れした子のように取り扱われ、変えられました!」と。イスラエルの民の苦難や不条理に勝利する道、この世の執着や捕らわれから解放される道は、主の御前に立ち、主の到来を待ち望むことだ!と語ります。

 乳離れして母のふところに抱かれて安心しきっている幼子の姿。わたしどもも、慈愛の主、この世界の造り主にしてわれらのあがない主、われらの歴史を導く全能の神を待ち望み、その御前に深く信頼するとき、「謙遜」、「霊的な成長」、「平安」はやってきます。聖歌に歌われているような信仰の告白をしつつ、わたしどもも歩みたいと思います。

「幼子のようにならなければ天国に入ることは出来ない」(マタイ18:3)

 主イエスにある生涯は、この「謙遜」、「霊的成長」、「平安」の中にやすろう、祝福の生涯なのです。ハレルヤ! 

 

【祈り】 父なる神様。この朝の礼拝を心から感謝します。わたしどもの信仰生涯を、詩篇131篇にある幼子のような平安で満たしてください。どうぞ、乳離れした子が、母親に抱くような信頼を持ってあなたに信頼し、あなたから来る、「謙遜」「霊的成長」「平安」の恵みを得させてください。この一年間を、最高の一年としてください。主の御名によって祈ります。アーメン