説教「最後の晩餐」マタイ26:20~29 深谷春男牧師

2021年3月21日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:マタイ26:20~29
説教者:深谷春男牧師

今年は、2月17日が「灰の水曜日」でした。4月4日のイースターの前の40日間を教会の暦では「受難節(レント)」と呼びます。この期間は主の前に罪を悔いて、深く主のご苦難をしのび、おのが罪のため十字架にかかられた主イエスを思い、死を打ち砕いて復活された主イエスを思う時と致します。わたしの説教の御用のときには、この期間、マタイ26章からの主の受難の記事を共に読んでみたいと思っています。先週はナルドの香油の記事を読みました。

【 聖書箇所の概略 】 

   今日の聖書箇所は「最後の晩餐」の場面です。ご存知のように、主イエスは十字架にかかってわたしどもの罪と死を贖ってくださいました。その十字架にかかられる前日、主は弟子たちと「過ぎ越しの食事」をすることを切に求められました。愛する弟子たちとの別れの時を持ったのです。主イエスはその「過越の祭」の食事の翌日、十字架にかけられました。

新共同訳聖書の項目で全体を見てみますと以下のようになります。

26章     イエスを殺す計略                        1‐ 5 節

           ベタニアで香油を注がれる              6‐13節

           ユダ、裏切りを企てる                  14‐16節

           過ぎ越しの食事をする                  17‐25節

           主の晩餐                              26‐30節

           ペトロの離反を予告する               31‐35節

           ゲッセマネで祈る                     36‐46節

 

【メッセージのポイント】     

1)28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(28節)

      ⇒  罪のゆるしを受けよ!

 聖餐の恵みを語る主イエスの言葉では、一番印象に強く残るが、「罪のゆるしを得させるように」という言葉です。そのような意味では、「聖餐」の恵みの第一は、「罪のゆるし」というメッセージです。

 今日は26,27節のまえに、28節の「罪のゆるし」ということを考えてみましょう。この世界に多くの宗教や道徳がありますが、それらと比べて、聖書の教えの一番基本にあるのは「罪のゆるし」ということです。

 人間の精神的な欲求はよく、「真、善、美」であると言われます。旧約学者の関根正雄は、それらはギリシャ的な価値であって、すべての人間の究極的な求めは「義」だということをある書物の中で言っておられました。人間は神の前における正しさ、神に「義」とされることを究極的に求めていると言うのです。わたしはこれは非常に大切な指摘であろうと思います。神の前に正しいあり方、「義」を聖書は求め続けております。人間は破れだらけです。これが「義」だ、と言っても、絶対的な神の前には通用いたしません。

 聖書は、イエスキリストがわたし共の「罪の贖い」となって、十字架の上で身代わりの死を遂げてくださったことを告げています。救いというとき、わたしどもは何よりもこの罪からの救いということを第一に考えねばなりません。聖餐式の第一に示されるのは、自分の罪を告白して、主イエスの前に、罪のゆるしを得るという出来事です。

 ロマ書6:23に、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」とあります。罪の報いとして死を受けるか、神の賜物として永遠の命を受けるかが、人生の最大の課題であるとパウロは語ります。

「車山」という山があります。位置としては、本州または長野県のほぼ中央部で、日本海からも、太平洋からもおおよそ100kmという、「日本のへそ」といわれる山だそうです。海岸より遠く隔たっています。しかしその車山にいる一羽の小鳥の羽根から落ちた小さな水滴が、頂上の岩に落ちて二手に別れ、東に流れた水滴は幾多の水源と合流して、天竜川をなして太平洋に注ぐことになります。また、西側に流れた水滴は霧や雨水や湧き水と合流して信濃川を形成して日本海に注ぐことになります。まさに車山は日本海と太平洋の分水嶺となるのです。

 

「主はこう言われる、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。(エレミヤ6:16)。我々は生活の中でいつも別れ道、岐路に立つ。どの道を選ぶかという選択によって、生活も運命も決まる。クリーブランド大統領は不良少年だったが、友達と遊びにゆくつもりで教会の前を通った。そこに「罪の払う値は死なり」と書いてあった。事実、彼の母親は、彼の行状を嘆いて自殺した。ふと彼は教会に入ろうと思った。大喧嘩の末、彼は友達と別れて教会に入って救われた。彼の大統領再選のニュースを、あの友達は死刑囚として聞いた、ということだ。 (ある教会のHPより)

2)26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。(26,27節)

       ⇒  キリストの命を受けよ!

「取って食べよ」と主イエスは言われました。弟子たちは、主イエスに言われるままパンを裂いて食べたのでありましょう。そのときに「これはわたしの体である」と主イエスは言われました。弟子たちは驚いたに相違ありません。このパンは主イエスの体だといわれたのですから。彼らはそれを象徴的に受けたのでしょう。これは聖餐式の原型です。

ここで主はさらに「皆、この杯から飲みなさい。」と語られました。弟子たちはそこで赤いぶどう酒をいただきました。そのぶどう酒を、「28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」と表現されました。弟子たちは驚いたことでしょう。

赤い血のように見えるぶどう酒を「多くの人のために流されるわたしの血」と主イエスは表現されました。

わたしどもはこの主イエスの体の象徴としてのパンと、血潮の象徴としてのぶどう酒をいただきながら、主イエスに贖われたことを明かししつつ歩むのです。キリストの肉と血潮こそ、本当はわたしどもを生かす「まことの食物、まことの飲み物」なのです。

 

3)29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。 (29節)

      ⇒  天国で食卓に着く救いの確信に生きよ!      

 ここでは聖餐の恵みが「父の国であなた方と共に、共に新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。との言及へと繋がります。それは天国の世界への言及です。聖餐式はまさに終末の恵みへとわたしどもを引き上げてくださるのです。       

先日、王子コイノニア・クリスチャン・チャーチの40周年記念誌が送られてきました。その中に、日本の手話通訳のリーダー、故杵島良介兄の証しなどが記されておりました。1986年3月4日に天に召されました。37歳の若さでした。あれからもう、35年経ちました。杵島兄の20周年の記念会に出席された方々が、「杵島良介は共に生きているという感じだ」と口々に語られていました。妹さんが洗礼を受けたときに杵島兄は「天に国籍を持ったね」と喜んでくださったと言われた記念にと、「我らの国籍、天にあり」の文字を刻んだボールペンをプレゼントして下さいました。「我らの国籍、天にあり!」

 

「聖餐について」   JTJ神学校の岸義紘先生の名文を紹介します。

「教会が神の救いのご計画全体に思いを広げ、その救いの全歴史に現される神を恵みの実存的に受け止めるのは実に聖餐に与るときである。裂かれたパンとまわされるぶどう酒に与るとき、遠くアダムの堕罪の瞬間から出エジプトの審判の過越しを経て、キリストの十字架にいたるまでの全時代が、一瞬のうちに現在の一点に、しかも聖餐に与るキリスト者の中に呼び集められるのである。

それだけではない。教会によって二千年間、地上の全ての民族に向かって連綿として引き継がれてきた宣教の全ての過去が聖餐の中においてキリスト者の中に同時化され、現在化されるのである。

さらに来るべき神の王国において、贖われた全ての民族、国民、国語が世界の罪のためにほふられた小羊なるキリストを囲むというなお未来の救いの完成が聖餐の一瞬に、教会の中に現在化されるのである。

恵みの過去と未来が一点に結集される現在、それが聖餐である。教会は聖餐を前にして、罪の赦し、死の克服、審判の過越し、救いの完了、義認、聖化、栄化、救いの完成の全てを一瞬のうちに、聖餐によって確認すると共に、その恵みに与るのである。

聖餐において教会は無代価、無条件で与えられたキリスト身代わりの死による罪の赦しに与る。聖餐は罪の赦しを与えるキリストの血による絶対確実な救い、すなわち新しい契約関係に入れられている現実を教会の宣教に任務の緊急性を呼び覚ますのである。

聖餐は見えない神の恵みの見えるしるしである。聖餐において教会は神の愛と不変の言葉を受け、同時に、愛と信仰をもってこの神に応答するのである。」       岸義紘著 「マタイの福音書」 189ページ

 

【 祈り 】 父なる御神よ。受難節第五主日の礼拝を感謝します。今日は主イエスの「最後の晩餐」の記事から、「聖餐の恵み」を学びました。聖餐の中心には「罪のゆるし」があります。わたしどもは主イエスのなされた罪の贖いの十字架の恵みを思い起こします。そして「キリストの命に与り続けます」。それは人生の出エジプトであり、主の臨在と恩寵充満の時であり、人生の軌道修正の時であり、同時に天国での祝宴をも指し示す恵みの業であることを学びました。来週は受難週です。我らの魂に、主イエスの十字架の贖いと復活の希望のメッセージを深く深く刻んで下さい。主イエスの御名によって。アーメン