説教「パウロの自己紹介」ロマ書連続講解① ローマ1:1~10 深谷牧師

2021年4月11日(日)復活節第二主日礼拝
聖書箇所:ロマ1:1
説教者:深谷春男牧師

自己紹介をする時に、わたしたちはどのような自己紹介をするでしょ

うか?大体、自分の仕事や社会的な役割等をもって、その場にふさわし

い自己紹介をすると思います。

ある方は、「わたしは土木士をしているものです。」という紹介をされました。ああ、「土木の仕事をしているのだ」と思ったら、「実は、キリスト教会の牧師をしているのですが、ドジばっかり踏むので、ド牧師、ドボクシなどと自己紹介しております。・・」

わたしなども、初めての人に自己紹介するのであれば、

 「わたしは日本基督教団、新宿西教会の牧師の深谷で春男と言います。東京聖書学校で教鞭をとり、特に旧約聖書を担当して、神学生と共に学び共に恵みを受ける生活をしております」というような自己紹介になろうかと思います。そして、いろんな自分の救い献身に至る歩み、伝道牧会のことを語ったり致します。そのような意味で、自分を何者と理解し、紹介するかは、大変、大事なことかと思います。

【 今日の聖書箇所の概略及び構造 】

 今回から、「ローマ人への手紙」を説教で取り上げたいと思っています。(以下、短く短く「ロマ書」と呼ぶのをお許し下さい。)

 教会の歴史においては、教会が福音の本質から逸脱した時に、このロマ書の深い研究によって、人々は福音の本質に触れて、信仰が回復して行きました。有名な出来事としては、古代最大の教父と言われたアウグスチヌス(354-430年)の回心、ドイツの宗教改革者マルチン・ルターの「塔の体験」と言われる回心、フランスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの「福音的回心」、18世紀の英国のジョン・ウェスレーのアルダスゲート街における心が熱くなる聖霊による福音的回心。前世紀の偉大な神学者カール・バルトの「ロマ書」など、神の言葉への深い理解から来る、福音的信仰理解が、その時代、その時代、大きな影響を及ぼしました。また、わが国でも内村鑑三はじめ、多くの先達たちが「ロマ書の研究」にとりくんで、人間の限界、その罪と死の支配、しかし、神ご自身の愛と恵みによって与えられる信仰による救いの世界、聖霊による圧倒的な神の恵みの世界による恵みの世界が語られてきました。

 実際、先輩たちのロマ書の説教集などを見てみると、大体、1章1-7節までで、4、5回の説教をしています。ほとんど1回で1節の学びという具合です。何という細かさでしょう。しかし、これは聖書の中心ロマ書の一語一語をおろそかにすまいという熱意から出ているのですね。

【メッセージのポイント】
   1~7節を細分化すると以下のようになります。

 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから、――  (1節)

 今日は「パウロの自己紹介」という箇所です。ご一緒に、パウロの信仰の告白と彼の生き方をご一緒に考えながら、クリスチャンの自己認識というようなことを考えてみたいと思います。

 

1)  パウロ

「小さい者」としての自覚をもて。

  まず、パウロは自分の名前をそのまま記します。パウロとか英語読みからですとポーロなどと呼ばれます。自分のことをパウロと語っていますが、この「パウロス」という言葉は、もともとラテン語の「小さいもの」という意味からきていると言われます。彼が主イエスに会う前の名前は「サウロ」と言いました。これは「求められた者」の意味だそうです。旧約のベニヤミン族の初代の王「サウロ」と同じ名前です。サムエル記上9章にサウルの物語が記されます。実はパウロもイスラエル12部族の中の、ベニヤミン族に属しておりました。彼は誇り高い自分の部族の初代の王の名前で呼ばれておりました。優秀なガマリエル門下の秀才、若くして国会議員のような、王侯貴族のような誇り高きリーダー。そのサウロが、福音に触れ、自分自身の愚かさと限界を体験し、「罪人のかしら」と自分を呼び、もっとも「小さい者」としての「パウロス」と名前を変えました。使徒行伝の9章にはサウロが、クリチャン迫害者として、ダマスコにまで迫害の手を伸ばしたときに、ダマスコ途上で回心するさまが描かれ、また、フィリピ3:5では彼の救われる前のパリサイ人としての歩みが記されております。パウロは主イエスに出会って、自分が本当に罪人であり、もっとも小さな存在であることをいつも肝に銘じていたのだと思います。使徒言行録では、13:3~9、セルギウス・パウロスとの出会いの後から、サウロからパウロに名前が変化しています。

 

2)キリスト・イエスの僕、

⇒ 僕としての自己理解。

   「僕」という言葉は「デューロス」という言葉です。当時は、「僕、奴隷」

に使用された言葉です。自分の意志によらず、主人に全く従う存在の言葉です。

 そのような意味では、衝撃的な自己紹介であると思います。これは単に謙遜であるというようなことではなくて、キリストの血で買い取られたものであるという自覚、罪と死の奴隷であった者、また律法の奴隷であった者が、その縄目から解放されたという喜びから出ている信仰の告白であると見ることができます。主イエスの十字架の血潮で贖い取られた者という告白です。有名な笹尾鉄三郎先生などは墓碑に「キリストの血で買われし鉄三郎」と記したと言われます。

また、旧約のモーセやヨシュアは自分を「主の僕(エベド・アドナイ)」

(ヨシュア1:1、24:29、アモス3:7)と呼んでおります。ヨセフも奴隷ではあるが、ファラオの王権を代表するものとなったと告白しています。奴隷や僕と言っても悲壮感漂うものではなく、むしろ、誇りと喜びを持って告白しています。

 

3)神の福音のために選び出され(た者)、

   ⇒ 福音のために選び分かたれた者の意識。

  「福音」という言葉は「良き言葉(グッド・ニュース)」の意味です。これは2節以降に詳述されます。これは「良き知らせ」の意味でたとえば「戦争で勝利したときの勝利の告知」「大学合格の告知」「癌の治療の特効薬の告知」のような、人々の期待に与える朗報の意味です。罪と死の呪いの中にいる者に、今、神は「罪と死の呪い」から解放するために、神の子イエスキリストの十字架と復活によって、決定的な勝利を取られたことが語られます。これが福音です。この「神の福音」のためにパウロは「神に選ばれ、分かたれた」と語りました。ここには神の救済計画が示唆されています。1節の中に福音の真髄が全て詰まっています。

 

3)召されて使徒となった(者)

   ⇒ 召命を受けた使徒としての使命に生きる。

  聖書的な考え方の中に、神の「召命」という言葉があります。(これはパソコンの日本語変換にもない言葉です。)神がご自分のご用のために人を召し出して、御旨を成し遂げる時の言葉だからです。アブラハムもモーセもイザヤもエレミヤも明確な召命の体験があります。パウロも神の御用のためにダマスコ途上で召命を受けました。パウロの生涯はまさに「福音の使徒」としてその証しのために生きたのでありました。

 以上の、自己紹介から学ぶのは、わたしたちは、何の価値のない小さな者、過去を見れば罪と悲しみの生涯以外の愚かな罪びとであること。しかし、主イエスの十字架の恵みによって贖い取られ、イエス・キリストの僕となった者、神の福音のために選び分かたれ、使徒としての召命を受けた者、主の救いと命がけの神の愛を人々に語る、人間としても最も尊い使命を身に帯びて生きるという! ここに最高の人生があります。

【祈祷】 主よ、このロマ書のパウロの冒頭の「自己紹介」を学ぶことができて感謝します。わたしたちは、自分の救われる前の姿を思うと、まさに何の価値もない愚かな罪びとであることを痛感させられます。しかし、今は、主イエスの十字架の恵みによって贖い取られ、イエスキリストの僕となった者、神の福音のために選び分かたれ、証し人として立てられた者です。喜びと感謝をもって、この福音の証しをする存在として、最も尊い使命を身に帯びて生きる、最高の人生を歩めますように。このような自己紹介のできる者としてください。主の御名によって祈ります。アーメン