説教「主の事実の証人」使徒行伝5:27~32 深谷美歌子牧師

2021年4月25日(日)復活節第四主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝5:27~32
説教者:深谷美歌子牧師

 今年は東日本大震災から10年ということで、復興までの行程を辿ったり、語り部が、当日の状況を語り続けている様子が、何度も報道されました。

 当時の映像も何度も放映され、まざまざとその日を思い出しました。

語り部の証言や、映像は、あの日の事実をもう一度かみしめる時となりました。

  教会が伝えている福音は、まさに事実の伝達です。

 宗教はいろいろありますが、藤井圭子先生はもと尼僧でした。仏教も深く人間を洞察し、真実に生き方を追求しています。が、「悟りと救い」という著書を出

されました。真実を追究して、尼僧にまでなって悟りを得ようとしていましたが、舎監に抜擢されて、教える立場になったとき、悟り得ていない自分を偽ることができず還俗しました。教えは、現実とならなかったのです。

 その後、キリスト教の集会に出席し、「イエス様を救い主と信じ受け入れます。」と祈った翌日、自分が変えられたことに気がつきました。それ以来、この事実を日本中、海外まで、証言しています。伝えられた救いは、根拠のない教えではなく、このようにして救われました。という証言を聞いて信じ、受け取ったのでした。

 今日の聖書箇所は、イエス様の弟子たちが、危機の中でも、平静に、堂々と「事実の証人」と語っている箇所です。

 

【聖書箇所の概説】

 前回は、大祭司たちが、ねたみに燃えて使徒たちを捕らえ、投獄した時、夜

天使が送られ、助け出され、すぐまたみ言葉を語ったことを学びました。本日

の箇所は、再び引いてこられ、尋問を受けたときの記事です。

 

27―28節「あの名を使って教えるなと命じた。血の責任をと企んでいる」

29―31節「人間に従うより神に従う。神がイエスを復活させ救主とされた」

32節   私達と聖霊はこの事実の証言者である。

 

【メッセージのポイント】

1)人を恐れた大祭司たち

 27 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて、28 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。   27-28節

 大祭司達の尋問の①は「あの名によって教えてはならない」と国の最高権威である、最高法院の命令を守らなかったでした。そして、あの名によって教えることによって②「あの人の血の責任を我々に負わせようとしている」でした。 

 マタイ27章25節には、イエス様を十字架にかけるとき「その血の責任は我々と子孫にかかっても良い」と群集が答えています。それを扇動したのは、祭司はじめこの議会でした。にも関わらず、弟子たちが群衆を扇動して、自分たちにその矛先を向けさせようとしていると攻めています。

 イエス様こそメシヤ(約束の救い主)であったと、弟子達が教え、イエス様がしていた、大いなる業を、弟子達がしていて、それは誰にも否定することのできない事実でした。それを見て信じる人々が続々と起こされていました。

 裁かれているのはペテロをはじめ、 弟子達でしたが、大祭司達こそ恐れに捕われていました。26節にも人々に石で打ち殺されるのを恐れて手荒なことはせず、とあります。

 彼等は自分達から民衆の心が離れ、敵意を向けられることを恐れていました。国を治める権威の失墜を恐れたのです。人の誉れをよりどころとしていたので、民衆の離反は恐れでした。

 何とおろかな、と思いますが、しかしこの人々は特殊なのではありません。私達も、イエス様に救われなければ、人と人との比較で生きるしかないものでした。誰が一番か、あの人は自分より上とか下とかです。

 

2)人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。

 29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。   29-31節

 4章19節でも同じような内容が語られています。

 何度も、同じような出来事が、割愛されないで、記されているのは、繰り返し、そのような戦いがあったことが解ります。そして私達の信仰生活の日常も、同じような試みが、繰り返されることを思います。その度に人間に従うか、神に従うかを問い、神様に従い歩めますように。

 サンヒドリンの議会は当時の最高権力の行使される所でした。その世の人でだれもこの権力に逆らうことはできませんでした。そこで、「あの名によって語ってはならないと命じておいた」と念を押されました。

 しかし弟子達は、真に従う方は神様で、あなた方より権威のある方である。とはっきり答弁しました。マタイによる福音書を聖研祈祷会で学んでいます。

 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。―マタ10:28 この言葉をイエス様が語られた時、弟子たちはこの様な所に立つことはできない人々でした。ゲッセマネの園で、イエス様が「目を覚まして祈っていなさい」と言われてもできず、十字架の時は、クモの子を散らすように逃げた弟子達でした。 

 でも今は堂々と、イエス様に起こった一連の事実を語っています。ペテロだけでなく、他の弟子たちも同じところに立っているのが分かります。

 私の属しているホーリネスの群は、1942年に治安維持法を盾に、国家から弾圧を受けました。そのときも「人に従うよりも、神に従うべきです。」と捕われた先生方の多くは信仰を表しました。牢獄の中で、輝いていたと聞きます。

 真の自由を得たものは、どんな圧力にも、屈服されないで、生きることができます。神の皇太子として堂々と生きられますように。

 

3)事実の証人

 32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。33 これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。     32-33節

 ① 弟子たちの態度は、一貫しています。

 イエス様は復活されたと証言します。イースターの朝の出来事は、弟子たちの、生涯忘れることのできない鮮明な記憶でした。早朝からの姉妹たちの墓が空で、よみがえったとの天使の告知、疑いの場に現れ、傷を見せられた時。その後も、命じられた通りにした時の魚の大漁、食事、「わたしの羊を飼いなさい」との再度の信任。宣教命令、昇天、聖霊の約束、聖霊降臨。そこで弟子たちは自ら変えられたことを経験しました。これらの証人として、その福音の伝達に生きました。

②、聖霊の証言。

 ヨハネ15章26-27節に、26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。と語られています。

 弟子たちが32節で語っている言葉は、すでに聖霊を受けて、内住を確認している言葉です。あのペンテコステ以来、力と勇気に満たされ、大胆にイエス様が救い主であることを語らせていただく経験をしてきました。

 主が働かれて、大いなる業が起こされるのを目の当たりしてきました。

これらは疑いのない事実でした。だから3章で足の不自由な男が、癒されたと

きも、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わ

たしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。」と言ってこのことが神様のわざであることを言い表し

ています。

 榊原康夫先生のことばをそのまま引用させていただきます。―人に従うよりも神に従うべきです」と信じるすべてのクリスチャンに与えられる「聖霊」―彼こそ、ほんとうの究極的証人であられます。伝道とは、人にではなく神に従う新しい人生に生まれ変わった、すべてのクリスチャン生活の生活全体を用いて自己表現しておられる「聖霊」の証言なのです。

 先日、早天祈祷会でお分かち下さった方が、「確かに聖霊は、御人格で、父なる神様ともイエス様とも違う、意志をお持ちの方だと解りました。」この通りの言葉ではなかったかもしれませんが、わたしたちの内にお住い下さる聖霊さまは、人に(自分も含めて)従うより神に従うと決めたクリスチャンの中で、―ここに立つんだよ、とか、こう語るとか、癒すとか、業をなしてくださる方です。言い難きうめきをもって執成してくださる方とも聖書に記されています。

 クリスチャン新聞に、両手がなく、二本の指を残して、後は足が全くない、ニック・ブイチチさんの記事が載ったことがありました。両手と足をください。と何度も祈りましたが、応えられませんでした。10歳のとき、自殺しようとしたが、牧師の両親が悲しむと気づき、やめました。しかし15歳のとき、ヨハネ9章の「生まれつきの盲人に、本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と語られた主のみ言葉に出会って、「心が変えられた」と証言しています。生ける神様に出会って、大切な存在であることを知り、今では世界中で証しています。

 ご人格であられる聖霊さまを毎日、心の王座にお迎えし、「我ならぬわれの現れ―来て、みずや天地ぞあらたまーれる。」讃美歌355と神様が共に生きておられることを味わい、証しする日々とされますように。

【祈り】 

 父なる神様。どんなに立派に見えても「人の評価にとらわれ、イエス様への不信仰に生きる生涯は、恐れと不安の生涯」です。どうぞわたしたちを、十字架の贖いを受け、罪と死の世界から、赦された命に生かし続けてください。問題が起こるとき、聖霊様に聞き従うところから来る「本当の自由、永遠の神の国の命」に生き続けられますように。

 主の御名によって祈ります。アーメン