説教「パウロのキリスト紹介」ロマ書講解③ローマ人への手紙1章3、4節 深谷春男牧師

2021年5月2日(日)復活節第五主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:3,4
説教者:深谷春男牧師

  先週は、美歌子先生から「主の事実の証人」という説教を受けまして、感激しておりた。使徒行伝5:30~31で、ペテロ達は、「わたしたちはこれらのことの証人です」と語り、「主イエスの十字架、復活、昇天」を語り、そして「聖霊もまたその証人です」と語りました。この十字架、復活、昇天、そして聖霊の確信に満たされた生涯は、どのような試練をも大胆に乗り越えることができるとして、ニック・ブイチチさんの証しをも伺いました。生まれながら手足のなかったブイチチさんが輝いてコンサートで証しする姿に、大きな励ましを頂きました。信仰は、わたしたちの人生の暗闇に、永遠の光を輝かす!ハレルヤ。

 【今日の聖書箇所の概略と構造】                                                          

 さて、今日は、ロマ書の1章3,4節を学びますが振り返ってみます。内容を敷衍してみますと大体以下のようになります。

1節は、パウロの自己紹介。キリストの僕、福音のために専用に用いられるため   に選ばれ、神様からの召命を受けて使徒となりました。

2節は、パウロの福音紹介。福音はキリストご自身です。それは旧約聖書で約束されたメシア(=救い主)で、旧約聖書はキリスト出現約束の書。

3節は、パウロのキリスト紹介。主イエスは人間としてはダビデの子孫から生まれ、血肉をもったまことの人でありました。

4節は、主イエスは、真の人であると同時に、真の神でもある。特に死者からの復活という奇跡を持って、力ある神の子である事が定められ、彼は今も生きて、わたしたちと共に歩み、希望の力となっています。

 

 この3、4節は、福音の内容の非常に短い要約です。ここには「福音とは主イエスキリストご自身である」ことを率直に書いています。

 特に御子に関する叙述は、注解書などを読みますと、すでに原始教団において定式化された言い回しをパウロが用いたと推測される(アルトハウス)と言われます。また、ケーゼマンはこの部分が、その前後よりはるかに入念な文体であることに注目し、正反対の対句法、分詞構文の使用、動詞の文章冒頭への配置等から、パウロ以前の時代に由来する礼拝用式文の断片であると指摘しています。 2000年前のすばらしい証し人の信仰告白を共に受けて歩みましょう。

 

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、(3節b)

 ⇒ 肉によればダビデの子孫から生まれ!    主イエスは真の人。

 パウロは3節のはじめに、「福音は・・・御子に関するものである」と明確に宣言しました。「福音は主イエスキリストである」(内村鑑三)。主イエスのご人格であり、主イエスが、人間の歴史の中に来られたことそのことが、そのものがわたしどもの救いであります。

 この最初の挨拶の中でパウロは二つの方面から主イエスを紹介しました。第一の主題は、「肉によれば」ダビデの子孫から生まれと語り始めます。「肉によれば」とは、人間的な見方をすれば、あるいは歴史的な観点から見れば、主イエスは、ダビデの子孫から生まれたと語ります。そして第2番目には「聖なる霊によれば」と語ります。これは、神様の目から見たならば、信仰的な見方をするならば、主イエスは死者の中からの復活によって、力ある神の子となられた御方であると、この二つのことを簡潔に述べました。

 キリスト教の歴史の中では、いつでも多くの議論がなされました。「史的イエス」と「信仰のキリスト」という二つの重要な出来事の中で、わたしたちはこの二つの主題を正しく理解するようにと語ります。

 「パウロのキリスト紹介」は大切な内容を持っています。主イエスのなされた、癒やしの業や、山上の説教のような教えの業ではなく、キリストなる御方はどのような御方であるかにのみ焦点を絞って、わたしたちの救い主を語ります。キリストの業(Doing)ではなく、キリストご自身はどのような御方であるか(Being)に焦点を絞っています。わたしたちも、主イエス様について、主はどのような御方であるかを、大切に理解したいと思います。

  かつて国際福音伝道会の台湾集会に行った時に、台湾の有名な高俊明牧師が、「救いは主イエスご自身であり、その受肉であり、十字架であり、復活であり、再臨である。これ以外の救いの基礎はどこにもない」と語っておられた姿が印象的でした。

 ここでは、イエスキリストは、その歴史性を持っているということが強調されます。主イエスは歴史の中にご自分の位置を占めています。「ダビデの子」というのがそれです。サムエル記下7章で、「ナタン預言」とか「ダビデ契約」と呼ばれる箇所で、キリストなる御方は、ダビデの子孫から生まれるというのです。

 昨年のクリスマス礼拝の際に、ベアンテ・ボーマン先生は、肉体を持ってこの地上に下るキリストを語る、クリスマスの時だったので、サムエル記下7章から、主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったことを熱く語ってくださいました。主イエスは、肉体を取り、血肉をまとってわれらの世界に住まわれ、我々人間と同じ姿になられたのです。そして、あのベツレヘムの馬小屋の片隅でお生まれになられ、汚れた飼い葉桶に身を横たえられたのでした。そして、ナザレの村の大工の子ヨセフの息子として、貧しき憂い、生きる悩みを自ら体験してくださったのです。そしてその最後は、ゴルゴタの丘の上でわたしたちのために身代わりとなって、十字架上で、肉を裂き、血を流され、贖いの業をなしてくださったのです。パウロ先生はまず、人間として主イエスに言及されました。キリスト教は「歴史的宗教」であるとよく言われますが、主イエスは人間の歴史の中をそのまま歩まれました。

 「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)とも語られました。この告白は、ロマ1:3,4と全く同じ告白です。これを信じるときに人は,「救いを得、永遠の栄光を受ける」(Ⅱテモテ2:10)と告白されています。

 

2)、4聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。(4節a

 ⇒ 聖なる霊によれば死人からの復活によって。  主イエスは真の神! 

  さて、先ほど語りましたが、パウロのキリスト紹介は、第一に、歴史的であり、人間の血肉を持って歩まれた人としてのイエス、「受肉」と言うことが強調されましたが、それとともに、ここでは「聖なる霊によれば」と、信仰のキリストをも強調しています。霊的には、わたしどもは、主イエス様が、死者からの復活によって、力あるキリストと定められたと記されます。パウロは、ここでは「復活」を強調しています。十字架に言及しないで「死人の中からの復活」を決定的な転機として強調していることが注目されねばならないと、松木治三郎先生は指摘します。聖なる霊によるならば「キリストは、神の独り子であり、神のロゴスであり、神ご自身であったことが語られます。人間としてのキリストはまさに、十字架にかけられて殺され、墓に葬られたのです。それが3日目に、死を打ち砕いて、復活されて、いつまでもわたしどもと共にいてくださることを明らかにしてくださいました。主イエスは、死人の中からの復活によって神の子と定められたのだと語ります。

 考えてみれば、わたしどもの究極の課題は「死の問題」を解決して、復活の命を得る」というところでしょうか。大阪ケズィックで、「ドアを開ければパラダイス!」と語った、癌の手術を数回された先生の証しが大きな励ましになったと伝えられました。

 

3)これが、わたしたちの主イエス・キリストです。(4節b)

   ⇒ この方こそ、わたしたちの主!    主イエスは真の主!

 パウロは福音の紹介の最後に、「これがわたしたちの主イエス・キリストである」と告白します。「主」という言葉は、「キュリオス」というギリシャ語で、この称号はユダヤでは神に対して用いられました。また、ローマ帝国では、「皇帝礼拝」を強制するために、皇帝を主(キュリオス)と呼ばせました。しかし、ここでパウロは、イエス・キリストこそ、唯一の主であり、救い主であると宣言しています。

 ダビデの子孫として生まれ、死人の中からよみがえった力ある神の御子、イエスキリストこそ、わたしたちの唯一の主である。この「わたしたちの主イエスキリスト」という言葉は、ロマ書では7回使用され、

 「主よ、来たりませ(マラナタ)」と言う告白に現れる万物の主権者との内容、「復活のイエスこそわたしたちの主」という告白定型句なのです。トマスの告白のように「わが主、わが神!」と告白しましょう。

  イザヤ書25章7~9節にこのように記されます。

「7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。

 愛する兄弟姉妹。福音は主イエスご自身です。その「受肉」と「復活」に表わされた驚くべき神の恵み!その愛と真実。罪と死の世界に対する圧倒的勝利のゆえに「この方こそ、わたしたちの主イエスキリスト」と告白し、「主は近い!」とその臨在の恵みをたたえるのです。

 

【祈り】 全能の主よ。主イエスの「受肉」の出来事、その終局の十字架の贖いのゆえにわれらの罪を赦され神の子とされました。更に「復活」の恵みに与らせて頂きました。死の呪いは消え去り、天来の命にあふれる新しい人生が始まりました。インマヌエルの主と共に、この一週間を大胆に歩み行かせてください。主の御名によって祈ります。アーメン