説教「信仰の従順について」ロマ書講解説④ローマ人への手紙1:5,6 深谷春男牧師

2021年5月16日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:5,6
説教者:深谷春男牧師

  木曜日の祈祷会で詩篇78篇の学びをしたときに、イスラエルの民の歩みを学ぶ中で、「不従順」と言うことが分りました。神様の恵みと祝福を経験して分っていながら、それに従いえない、人間のかたくなさが記されておりました。それは「うなじの固い者」という表現がなされておりました。また、多くの詩篇の中でも年老いた伝道者が、自分の子どもたちの世代、孫の世代へと下って行くうちに、「不従順の世代」、「反逆の世代」が起こって、アブラハム以来の信仰の民の姿が、崩れてしまわないようにと必死で祈る姿が記されておりました。

 特に「不従順の世代とならないように!」。息子の時代、孫の時代、曾孫時代に、「主とは誰か?」と言わないように。「主の贖いの業?わたしは知らない」と言う世代が起こらないようにと言う祈りに心が引かれました。 本日は、ロマ書から信仰の従順について見てまいります。

【テキストの概略と構造】                                                          

さて、今日もわたしどもは、礼拝でローマ人への手紙を読んでいます。今日は5~6節を中心に学んで見たいと思っています。

1~7節の内容も細分化すると次のようになります。

1-7節を細分化

 1節  自己紹介(キリストの僕、福音のため聖別、召された使徒)

 2節  福音紹介(旧約聖書に約束された救い主、主イエス)

 3,4節 キリスト紹介(肉によればダビデの子、霊によれば復活の主)

 5,6節 世界の紹介 (全世界は信仰の従順へと召されている)

 7節  クリスチャン紹介(愛され、召され、聖とされ。恵みと平安)

 

 【メッセージのポイント】

1)、わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと   (5節a)

  ⇒ 信仰の従順に至らせるために! 

 「信仰の従順」とパウロは言います。「すべての異邦人を信仰の従順へと至らせるように」自分は「恵み」と「使徒職」を受けた、と彼は語りました。「信仰の従順」という言葉は余り一般には聞かない言葉ではないでしょうか?「従順」という言葉はそんなに大きな喜びを感じるような言葉ではないように思います。  

 しかし、実際にパウロは幾度か「従順」という言葉を用います。16:25~27の祝祷でも「 願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、27 すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。」と用いられています。カルヴァンは「不信こそは神への反逆の極致」であると語っています。

 確かに信仰とは、主イエスの贖いの恵みを受けて、それに応答して生きて行く、「信仰の従順」を意味する言葉です。

 旧約聖書を読むと、神の民であったイスラエルは、その契約を守らず、偶像礼拝を行い、神の民の実質を失い、ついに選民失格の中に落ちてしまいました。旧約の神の民の罪は、信仰の従順を捨て、不従順な民となり、反逆の民となり、最後は選民失格の民となってしまったのです。

 信仰は、神様との人格的な交わりであり、神の愛の中に歩む祝福の生涯です。新約においては、さらに、主イエスの贖いの愛の中に導かれ、恵みのうちに義とされる道が示され、聖霊なる神御自身の内住による勝利の生涯が示されます。この恵みの世界を神と共に歩むことを信仰の従順と呼びます。

 一方、罪は、この神の救いを一度は受け入れましたが、やがてこの世の煩雑さに心奪われ、神様の恵みに生きることができなくなり、神様を見上げて第一にして歩むことを忘れ、この世の風潮に流されて礼拝も遠のき、気がついたときには、子どもたちも大きく成長し、教会に行こうと言っても、友だちのとの計画があり、学校の部活があり、テストのために勉強があり、中学、高校のころになると、自分の価値観と嗜好に従って自分の道を選び、いつのまにか、聖書を読むことを忘れ、祈ることを忘れ、神様ヘの信仰が消えゆき、不信仰、不服従、さらに強制されたら、反逆、背教の世界へと陥り、混乱と暴虐の道を歩むことになってしまうと言うのです。何という恐ろしい世界でしょうか?

 信仰の従順へとまっすぐに歩んで参りましょう。

 詩篇の言葉をお読みしてみましょうか。(詩篇78 :5~8)

5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、

 その子孫に教うべきことを、われらの先祖たちに命じられた。

6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、

 みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、

7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、

 その戒めを守らせるためである。

8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、

 その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと

 ならないためである。

 

2)彼によって、恵みと使徒の務めを受けた。(5節c)

   恵みと使徒の務めを受けた。

  ここでパウロは「恵み」と「使徒の務め」を受けた、と語っています。「恵み」という言葉は大変重要な言葉で、これは「主イエスキリストの十字架の贖い」を指しています。人生には神から受ける様々な恵みがありますが、最も大事な恵みはわたしたちの罪が主イエスの十字架の贖いのゆえに帳消しとされたこと。主イエスの御宝血は、前に学んだように「神のナルド」を意味しています。

わたしたちは想像を絶した価値で、買い取られたのです。

 「使徒の務め」というのも、パウロに与えられた福音宣教の努めのことです。これは、キリストの使者という意味でもあり、ある時には大使と訳されます。パウロは、使徒行伝9章にあるように、ダマスコ途上でキリストの顕現に出会い、光に照らされ、その衝撃で三日間、目が見えなくなるほどの体験をし、キリスト教迫害者から、一転してキリストの福音の伝道者となりました。価値のない者、取るに足りない者が、神の恵みによって救われ、使徒とされたことをローマの信徒に知らせて、自己紹介をしているのです。

 

3)あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである。(6節)

⇒ キリストに属する者となるように召された。

 パウロは、あなた方はローマ教会の教会員です。あなた方の多くはユダヤ人ではないが、今は、主イエスの十字架の贖いを受けて神の民となった、異邦人のクリスチャンです、と語っています。パウロは、わたし自身も主の贖いの恵みを受けて救われ、今は「異邦人宣教の使徒」として使命を受けて、神の恵みの世界を語り伝えています。共にキリストに属する兄弟姉妹なのです。そのような主にある恵みを与えられて、感謝で一杯です、と自分とローマ教会の関係を語っているのです。主にある、兄弟姉妹の関係。これは天国の交わりです。

 

愛する兄弟姉妹。今日は、特に「信仰の従順について」という説教題のもとで、わたしたち信仰者の内容を深く考えています。

先日、わたしは、以前の牧会の赤羽教会の代表的な役員さんの奥様の御葬儀に行って参りました。忠実な、やさしい信仰者の姉妹の御写真が棺のそばに置かれておりました。葬儀の説教は、ルツ記からでした。ルツ記は、ルツの義理の母であるナオミの物語でもあります。

 ベツレヘムに飢饉があり、ベツレヘムで生活できなくなったナオミは、ご主人と共に二人の息子を連れて、モアブの地に移住しました。厳しい生活が続き、ナオミの二人の息子も、モアブの女性と結婚して家庭を築きます。しかし、ナオミの生涯に試練が襲います。ご主人が召され、二人の息子も召されてしまったのです。ナオミはやもめとなり、二人の息子の嫁と3人で暮らすことになりました。やがて、この二人の嫁にも別れを告げて、ベツレヘムに帰ろうとします。その時、モアブの女性ルツは、相嫁がモアブの地に帰ったのですが、彼女はナオミと共にある事を選び、「あなたの神はわたしの神、あなたの民はわたしの民」と告白してベツレヘムまで一緒に行きました。異邦人のルツは、義母に仕え、真の神に仕える女性となりました。落ち穂拾い重労働をしながら、彼女はナオミに仕え、やがて、ボアズとの結婚導かれ、イスラエルを救うダビデ王が与えられることになりました。「姉妹は、ルツのような姉妹でした・・。」と語られました。

 その御葬儀で、彼女の3人の息子さんに12年ぶりに会いました。皆、中年の貫禄ある紳士となっておりました。また、お孫さんも小学生でしたが小学生でしたが、20代に青年になっており、びっくり!彼らが、ひょっこり現れて、「ふかやせんせい~!」と声をかけられ、「え~?ふじ君?」「え~?あのだいご君?」「かおりちゃん?」とびっくり仰天。ヤコブがハランから、20年後のベールシバに帰った時のようでした。お母さんの召天は悲しいことでありましたが、お母さん、おばあちゃんの信仰の歩みを、心に刻むときでもあり、また、懐かしい方々との再会の時でもありました。

 でも、自分の家に帰って主の前に祈った時、わたしたちの子どもたち、孫たち、その息子たちの「救い」と「信仰の従順」の恵みの世界は、しっかりと継承されているか?心に語りかけられました。

 そして、かつて見たドブソン教授のビデオを思い出し、ドブソン先生のおじいちゃんの事を考えてました。ドブソン家は20数人のいとこがいるが、皆、牧師となっているという証しでした。それは、晩年の10年、おじいちゃんが子供ために、孫のために、熱き祈りをご自分の使命として、名前を挙げて、祈り続けた結果であるとの話でありました。子孫のため祈ろう!そう深く示されました。

 今日は、ロマ書から「信仰の従順」という事を学んでいます。1章17節にも、「信仰から信仰へと成長すべき事」が語られています。内村鑑三などは、明治の初め、初めて唯一の天地創造の神を知らされ、彼の生涯に一大転換が起こりました。さらに十年目にして、米国のアムハースト大学でシリー総長と出会い、「十字架の贖い」と言うことを知りました。そして、50歳の時に愛情ルツ子の死を契機に、復活の信仰、第一次世界大戦を機に、再臨の信仰へとその歩みは引きあげられてゆきました。松江の聖者と言われたBFバックストン先生は、信仰の恵みの世界を「憂えしめざる臨在」と語られました。われらと共に歩まれる聖霊なる神様が、悲しまれないような、喜びとの平安に満ちた生涯を指し示しました。エペソ4:30には「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。

「十字架の贖いを受けること」、そして、「内なる聖霊様を悲しませない生涯に歩むこと」が、最終的なわたしどもへの霊的成長の課題です。アブラハムのような、モーセのような、ダビデのような、イザヤやエレミヤのような、また、ペテロやパウロのような、また、ヨケベデやるルツのような、代々の聖徒のような「信仰の従順」御言葉とともに歩み、聖霊の恵みに潤う、最高の人生を歩み、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」との御言葉を証しして行きたいと思います。

【祈り】 全能の主よ。今日は、ローマ書1章5、6節から「信仰の従順」について学びました。コロナ感染の厳しい時でございますが、歴史の支配者なる全能の神ヘの信仰をしっかりと持ち、「この世界の造り主なるあなたへの信仰」をしっかりもち、「十字架の贖いの恵みへの信頼をしっかりと保ち」「聖霊なる神様の導きの中で信仰の従順」へと信仰の歩みを全うさせてください。ルツのように、また代々の聖徒のように、臨在の恵みに満たされ、「信仰の従順」を与えられて、「善かつ忠なる僕、良くやった。わが花嫁よ!」と呼ばれる者とならせて下さい。われらの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン