三位一体主日礼拝説教「神から出たもの」使徒行伝5:33~42 深谷美歌子牧師

2021年5月30日(日)三位一体主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝5:33~42
説教者:深谷美歌子牧師

 わたしの出身地は、長野県で、飯田市と天竜川を挟んで向かい合った、喬木村というところです。父の出身地でもあります。次男坊の父が、横浜に伯父を頼って出て、叔父の仕事を覚えながら、夜学に通っていて、佐野さんというお米屋の息子に教会に誘われ、そこで救われました。喜びのあまり伝道者になりました。横浜で伝道していましたが、戦争で焼け出され、郷里の喬木村に引き上げ、そこで、開拓伝道を始めました。なかなか救われる人が起こされない中、違う教会を紹介しようかという方があったそうですが、「ここでダメなものはどこに行ったって駄目だ」と留まったそうです。38歳から29年間伝道し続けました。「みのるさ」と呼ばれて親しまれた存在だったようです。父は心筋梗塞で、突然召されました。父の自覚は「戦後のどさくさに紛れて牧師の資格が与えられた。何にもない者」でした。「キリストの血に贖われし身」です。神様がこの地に遣わされたとの自覚でした。

 今、喬木教会は、(全国でも村にある教会は珍しいそうですが)伊奈聡先生が赴任21年目になります。40-50名の礼拝が守られています。リニアモーターが牧師館の真上を通るので、新会堂を造ることになり、祈っています。神様から出た業が進んでいるのを見ます。「神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい」のことばの様に。

本日の聖書箇所から、神様から出たものは何だったかを見てまいりましょう。

【聖書箇所の概観】

 前回は 最高法院での弟子たちが「人間に従うよりは、神に従うべきである。

30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである。32 わたしたちはこれらの事の証人である。」と大胆に語ったことを学びました。それを聞いた最高法院の議員の姿が今日のところです。

33節   最高法院の裁決。殺そうと思った。

34-39a節ガマリエルが、もし神から出たものなら滅ぼすことはできないと発言。

39b-40節 最高法院の判決。むち打ちの後、イエスの名によって語るなと命じ

     釈放した。

41-42節 御名のための恥を喜び、引き続き教えたり、宣べ伝え続けた。

 

【メッセージのポイント】

1)激しい怒りに捕われた。― 自分を義とする

これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。33節

 これを聞いたというのは、32節までの弟子たちの証言の言葉を聞いたということです。素直に事実として聞いて「えっほんと?」と言うようなアクションではなく、「激しく怒り」という反応が起こりました。『怒りなどの激情によって心を引ききられる』という表現だそうです。「骨身にこたえ」と訳している方もあります。

 弟子たちが最高法院(だれも逆らえないはずの最高権威)の権威に従おうとしないばかりか、議員たちが間違っていたと指摘されて、民衆からの攻めを受けるかもしれない。(あの男の血の責任を我々に負わせようとしている、28節)それらの思いが「骨身にこたえ」たのでしょう、殺そうと思いました。

 赤羽で伝道師だった都築英夫先生が、ある時メッセージで、「人が怒るのは、自分が正しいと思っている時です」と語られて、「え?」と思ったのですが、確かに怒る時は、自分が正しいと思える時です。深谷を怒っている時は「また出しっぱなし、片付けるってとこまでやって欲しい」など。

 多くの場合、罪を面と向かって指摘されてもなかなか素直になれないものです。

 先日、アスベストが、国が早くこの害を見つけて、使用を禁止すべきだったとの裁判所の判決がでました。菅総理大臣が、「申し訳ありませんでした」と素直に謝りました。ご遺族の奥様が「謝ってくれたので、こころが晴れました」と涙ぐんで語るのを見て、謝った首相も、受けたご遺族も素晴らしいなと思いました。

 サンヒドリンの法廷の人々は、事実の証言を聞いても、信じようとはせず、自分たちの立場を正しいと押し通そうとし、激しく怒りました。

2)神から出たもの

34 ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。36 先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。34-39節

 ところが、と、最高法院の中の人から、他の人とは違う人が登場しました。それはガマリエルです。 殺気立って、激怒している仲間の中で、まず弟子たちを退場させた上で、冷静に意見を述べました。

 チウダという人物は、ローマに反抗して立ち上がった人のようです。が、ローマ軍によって鎮圧されました。ユダもそうでした。ここでガマリエルが伝えたメッセージは、人間がどんなに理想をもって立ち上がっても、それが人間からでたものであれば、本人が死んだら、従った者たちは散りじりなってしまうということです。それが、時代を超えて、何度か実証されていると語りました。

 ガマリエルはパリサイ派で、この議会の構成はサドカイ派の方が多数であったようです。しかし、民衆は真実に生きようとしているパリサイ派の人々を信頼していました。その中でもガマリエルは最も信頼されていた人物でした。彼が亡くなった時、「ラバン・ガマリエルが亡くなって以来、もはや、律法を尊敬する心が失われてしまった。それと同時に、純潔さも禁欲もすたれてしまった」と言われて惜しまれたということです。その彼の言葉で、サドカイ派の人々も、彼の忠告を受け入れ、釈放の判決を出しました。

 ここで教えられることの一つは、神様が、弟子達が何もしないのに、逃れ

の道を備えられたことです。クリスチャンは自分の力でどうこうしたと証しするのでなく、神様からのものを経験し証言する者です。

 今一つは、クリスチャンはイエス様を信じているが、本当に神様が彼らと

共におられ、語られていることは事実か?と見ている人がいるということです。

 イエス様に救われて生かされたというが、その命が伝えられて、信じた人々がまた生かされていくか?自滅どころか、広がって行くか?人間が起こした運動との違いを、ガマリエルは見ていました。 6:7 に、こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。とあります。サドカイ派、パリサイ派とかは書いてありませんが、ガマリエルの忠告を聞いた人々が、素直に見ていて受け入れる人々が起こされたのかもしれません。

クリスチャンは「神からのものか?」と見られています。それこそ自分でするのではありませんが、ご聖霊に依り頼んで、わたしたちの命が、神からのものであることを証しさせていただきましょう。 

3)喜び、イエスがキリストであることを宣べ伝えた。

41 使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。42 そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。     41-42節

 むち打ちというのは40に一つ足りないものだったでしょうと推測している方があります。死ぬ一歩手前までのむち打ちは、どんなに恐怖だったでしょう。しかし、恐れている様子は見られません。喜びながら出てきました。しかもすぐに、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引き続き教えたり宣べ伝えたりしました。

 人間の世界だけの命でしたら、ひどいむち打ちの後「あの名によって語るな」と言われたら、語らないだけなのですから、そうするのではないでしょうか?でも彼らは語らないではいられませんでした。やせがまんではできないことです。聞いた人々も、信じたら為政者から迫害されると思ったら、避けるのではないでしょうか?

 ところが恐れるどころか、喜んでいて、イエスがキリストであることを伝え続け、聞いた人々も、救いを受けた人々が喜んでいる様を見て、次々受け入れる人々が起こされました。イエスさまの十字架を前にしたとき逃げ回った弟子達からは考えられません。

 先週ペンテコステ礼拝で「聖霊について」語られました。主の救いの完成者である聖霊が送られました。この弟子達の姿は聖霊の業としか考えられません。

 使徒行伝16章にピリピの町で、パウロ達がやはりむち打ちの後、牢に繋がれ、しかし彼らは神に祈り、さんびを歌い続けたと書かれています。地震の後、獄吏がイエス様を信じる者になったことも書かれています。聖霊の業でしょう。

 守部喜雅兄がワンミンタオという中国で22年間、信仰のゆえに獄に繋がれた経験をされた牧師に、35年位前にお会いしたそうです。アメリカの青年も一緒だったそうです。90歳を越えての師はその経験を「霊の大学でした」と語られたそうです。みすぼらしい姿だったにもかかわらず、黙って歩いていた帰り道で、この青年が涙ながらに「僕は宣教師になります」と語ったそうです。私達も自分の力では到底できませんが、聖霊が内に主となってくださるとき、この恵みの命を生きられるのです。

 最初に父のことを語らせていただきましたが、父は背が低くかったです。講壇で「背がちっとぐらい低くても、いーじゃありませんか。神様は真実です。信じてから何十年、一度も裏切られたことが無い。」この証言を聞きながら、わたしもキャリアを積んであの言葉を言ってみたいと思ってきました。

 私もこの歳になって、心から「神様は真実です。一番大事なことは、主の十字架を信じ罪赦されて、永遠の神の命を頂くことです」と伝え続けています。

祈り 

 天のお父様。自分を義として、主の十字架を退けることがありませんように。救いを受けた私達が、聖霊様の業を証しするものとしてお用い下さいますように。主の御名によって祈ります。 アーメン