初夏の特別礼拝説教「細川ガラシャ ーその愛と赦しー ローマ人への手紙7:19~25 ジャーナリスト守部喜雅氏

2021年6月6日(日)初夏の特別礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙7:19~25
説教者:ジャーナリスト 守部喜雅氏

 今から450年前、日本は戦国時代に突入し、三百近い領主が、国盗り合戦をしていました。その乱世の時代に、頭角を現してきたのが織田信長です。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」はその信長と、家臣・明智光秀との葛藤を描いたストーリーでしたが、実は、この戦国時代は、キリシタン大名が83名もおり、キリシタンの数は、少なくとも50万人はいたと言われている、いわゆる、キリシタンの世紀でもありました。

 昨年の7月には、礼拝で、細川ガラシャの信仰について、宣教師ルイス・フロイスの著作「日本史」を参考にして、紹介いたしましたが、今回は、細川ガラシャが信仰に導かれたきっかけを作った高山右近について、さらに、その高山右近の救いの契機となった日本人修道士・ロレンソ了斎の救いの証しから、話を始めてみたいと思います。

 

 1549年(天文18)8月15日、スペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルとその一行8名は鹿児島の坊之津に上陸、鹿児島では、領主・島津貴久に厚遇され、地元の、仏教の僧侶とも親交を結びますが、来日の最大の目的である、天皇に謁見し布教の許可をもらうべく、鹿児島から長崎の平戸経由で、本州に向かい、山口の地に入ります。その後、天皇の住む京都へ向いますが、天皇に会うことはできず、失意の内に山口に戻るのです。そこで、領主・大内義隆の歓迎を受けたこともあり、しばらくは、山口にとどまり伝道活動をします。

 山口の街中で、路傍伝道をしていた時のことです。日本人のキリシタン・弥次郎の通訳で、ザビエルの説教を熱心に聞いていた一人の盲目の琵琶法師・了斎がいました。彼にとって、天地万物を造られたデウス(神)が、愛の神であり、人間を罪と死の恐れから解放するために救い主イエス・キリストがこの地上に来られた、という説教は、その心を激しく揺さぶったのです。聖書の中に、人生の不条理に悩んでいた了斎にピッタリの物語があります。

 <・・イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った。「先生、この人が生まれつきの盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか。それとも、その両親ですか」。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためである。」・> 

(ヨハネ9・1~3)

 日本に伝わった仏教の教えの中に、「因果応報」という言葉があります。了斎は、琵琶法師でしたが、仏教にも深く通じていました。ですから、自分が盲目に生まれてきたのは、因果応報の故で、あきらめるしかないという思いが心を支配していました。ところが、イエス様が「そうではない、お前が盲目なのは、神のみわざが現れるためである」と言われたことを知ると、了斎の人生に明るい光がさしてきたのです。

 ザビエルに導かれて、キリシタンになる証として洗礼を受けた了斎は、その後、イエズス会の修道士・ロレンソ・了斎となり、織田信長や豊臣秀吉にも福音を大胆に伝えています。ルイス・フロイスは、「日本史」の中で、了斎が語った次のような説教を紹介しています。

 「天にも地にも唯一の神(デウス)しかましまさぬ。そのお方は、世界万物の創造主、人類の贖い主にして、救い主であられ、我々はこの全能、全知、全善なるデウス様について、次のごとく信じ奉らねばなりませぬ。デウス様は、人類を救うために人となり、一人の処女からお生まれなされた。そして、この人間となり給うたデウス様は、40日40夜、断食し、その他多くの苦行の業を行い、ついに捕らえられ、茨の冠をかぶせられ、肩に十字架を負うて連れ出され、カルバリオという山中で、二人の盗賊の間で、磔にされ、十字架上に死して葬られ、それから三日後に大いなる勝利と栄光のうちに復活し、40日目に天にお昇りになられた。そして、そのお弟子たちは天からのお恵みを受けた後、世界の大部分を改宗なさった。かくて、伴天連様たちは、キリストのお弟子たちの模範に倣って、私たちにも教えを説くためにおいでになったのである。そして、この十字架にかけられたお方をば、私たちは神(デウス)、そして、世の贖い主とお認めせねばなりません」。

 

 1564(永禄7)年、それは、ザビエルから洗礼を受けてから14年後の事ですが、ロレンソ・了斎は、奈良にあった沢城の城主・高山飛騨守に招かれて、約一週間、キリストの福音を語っています。初めは、キリスト教に反発していた飛騨守も、了斎の説教によって回心、自らと家族全員、そして家臣を合わせて約150人がロレンソから洗礼を受けたのです。その中には、12歳の嫡男・彦五郎、後の高山右近もいました。 高山右近の信仰の転機は、20歳の時、権力争いの陰謀の渦に巻き込まれ、首に致命的な傷を負い生死の境をさまよいます。奇跡的に助かった右近は、キリストに身も心も捧げる決心をし、武士の仲間に次々と伝道、その中には、黒田官兵衛、蒲生氏郷、細川忠興らがおり、官兵衛と氏郷は洗礼にまで導かれます。忠興は、洗礼こそ受けませんでしたが、右近の説く、キリスト教の愛と赦しのメッセージに感動し、妻の細川玉にも、その感動を熱く語ったのでした。

 

 さて、ここから、細川ガラシャの波乱の半生を語らなければなりません。昨年の礼拝でのお話の中では、明智光秀が起こした「本能寺の変」についてくわしくお話しましたが、織田信長を殺害した光秀も、豊臣秀吉の軍勢に追い詰められ無残な最期を遂げますが、光秀の娘である細川玉にとっても、絶体絶命の場面を迎えていました。本来ですと、謀反を起こした本人だけでなく、その家族も死罪というのが、戦国時代の掟でもありました。玉は死を覚悟しました。

 しかし、夫の細川忠興は、妻を死罪にするのは忍びなく、京都の山奥、味土野に玉を幽閉したのです。元々、宗教心の厚い玉です。明智家にいる頃は、父の藤孝につれられて毎日のように禅寺にかよっていました。ですから、味土野に幽閉されていた二年は、熱心に神仏に救いを求めるときでもあったのです。

 しかし、禅宗の教えにすがろうとするのですが、心の平安はまったく得られません。その当時の、玉の精神状態について、ルイス・フロイスは「日本史」のなかで、こう語っています。「彼女が禅の修行で会得したことは、彼女をして、精神をまったく落ち着かせたり、良心の呵責を消去せしめるほど強くも厳しくもなかった。それどころか、彼女に生じた躊躇や、疑問は後を断たなかったので、彼女の霊魂は深い疑惑と暗闇に陥っていた」。

 

 細川玉の魂は、本当の安らぎと希望を求めて飢え渇いていました。戦乱の時代です。戦死した兵士の死体が累々と横たわっているような現場が当たり前のような闇の時代です。どこにも生きる意味と希望を見出せない時代だったのです。そして、謀反人の娘として、死が迫っていました。

 その時です、玉の世話係として随行してきた侍女・清原イトの祈る姿に心ひかれます。聞くと、イトの父親・清原枝賢は、あのロレンソ了斎に導かれ洗礼も受けていたキリシタンだったのです。玉は、イトから、むさぼるようにキリシタンの教えを聞き、加えて、かつて、夫・忠興から聞いた高山右近の信仰の物語がよみがえってきたのです。

 二年の幽閉の期間が過ぎて、大阪の屋敷に戻ることが出来ても、そこは、自由を奪われた牢獄生活のような現実が待っていました。「教会に行きたい!」。玉は、遂に、危険を冒してまで教会を秘かに訪れます。この間の事情は、昨年7月の礼拝で語らせていただきましたので、自著「宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」を読んでいただきたいと思います。

 フロイスの記録によりますと、細川玉が、初めて大阪の教会に行ったとき、修道士に一番質問したのは、禅宗とキリスト教の違いだったとあります。そして、玉を悩ませていた人生における最大の問題は、“良心の呵責”だったというのです。それは人間の罪の問題でもありました。ここで、今日、与えられたみ言葉を読んでみます。 

 「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのをみる。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるであろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」。(ローマ人への手紙・7・19~25)

 

 ここに、「わたしはなんとみじめな人間なのだろう」という嘆きの言葉が出てきます。これは二千年も前の話になりますが、キリスト教徒を迫害し、後にイエス・キリストに出会い回心した使徒パウロの偽りのない言葉です。実は、細川ガラシャも、かつては、このような嘆きの言葉を発したのではないでしょうか。いえ、そんな昔の話ではなく、現代に生きる、わたしたちもまた、人知れず、うめくように発している嘆きの言葉ではないかと思うのです。

 ここには、罪と死からの救いはどこから来るのかという、人間にとって、究極的な問題が問いかけられています。

 神の前に罪びとでしかない自分を認め、悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じた時、細川玉は細川ガラシャとなりました。ガラシャとは神の恵みという意味です。そして、キリストの霊であられる聖霊が、彼女を日々、新しい人に創り変えてくださったのです。

 

 「キリシタンになることを決めて後の彼女の変わり方はきわめて顕著で、当初はたびたびうつ病に悩まされ、時には、一日中、室内に閉じこもって外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとしないことがあったが、今では、顔に喜びをたたえ、家人に対しても快活さを示した。怒りやすかったのが、忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが、謙遜で温順となって、彼女の側近者たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった」。(完訳日本史・フロイス)

 

<祈り> 天の父なる神様、今日も、命を与えて下さって感謝します。今、世界は、コロナ禍で、苦しみのただ中にありますが、この闇の時代にも、イエス・キリストにあって、喜びがあり、感謝があふれ、希望に満ち満ちています。どうか、この人知をはるかに超えた神の平安を人々に伝えるために、わたしたちをお用いください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン