父の日主日礼拝説教「信仰の父アブラハム」 創世記22:1~18 深谷春男牧師

2021年6月20日(日)父の日主日礼拝
聖書箇所:創世記22:1~18
説教者:深谷春男牧師

 父の日、おめでとうございます!

 家庭を大切にし、両親を敬い、夫婦相和し、兄弟姉妹を愛し、子供たちをやさしさと愛情をもって、しっかりと育てるのは、素晴らしいことですね。

 クリスチャンになってしばらくした時に、聞いた話がありました。「正しい人が多いと家庭は混乱に陥る。悪人が多いと家庭は安らかである。」え?と思ってさらに読んだら、このように書いてありました。

 正しい人の多い家庭・・・・・

「父:誰だ、こんなところにバケツに水汲んでおいたのは!ひっくり返しち  

   ゃったじぁないか!」

「母:どこに目がついてんのよ!自分の歩く足元ぐらい、よく見たら!」

「父:俺が一生懸命会社で働いているんだ。感謝が足りないじゃないの。」

「母:私こそ、朝から晩まで働いているのよ。自分のことしか考えない男、サイテーよ。」

罪人の多い家庭・・・・・

「父:あれ、すまん。バケツにつまづいて、ひっくり返しちゃった。」

「母:え~?ごめんなさい。途中で仕事できて、そのままにしちゃった。」

「父:いや、僕が悪かった。最近、ボケっとしてるからね。すまん。」

「母:いいえ、わたしが悪かったのよ。そのままにして。ごめんね。」

 

【今日の聖書個所の概説】                                                          

 「アブラハムは信仰の父」と呼ばれています。ですから、わたしどもがアブラハムから学ぶのは、「信仰」です。アブラハムの信仰は「神の言葉を信じて、行く先を知らないで出てゆく信仰」であり、「無から有を呼び出す神を信じる信仰」です。また、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)ともあります。

 この聖書箇所は、信仰の父アブラハムが受けた人生最大の試練、「イサク奉献」の劇的な場面です。アブラハムは主なる神より、息子イサクを燔祭として捧げよと命じられました。100歳にして与えられたこのイサクを、アブラハムは自分の命よりも深く愛していました。しかし、「イサクをささげよ」と言われたアブラハムは、すぐにその言葉に従います。そして、朝早く起きて、三日間かけて、モリヤの山に登り、二人の若者を途中でここで待てと言って、息子と二人だけで示された場所にまで登りました。息子に燔祭のたきぎを負わせ、手に火と刃物を持って、登って行きました。途中の、アブラハムとイサクとの会話などは、その心の動きやお互いの愛情が文学作品のように描かれます。アブラハム、その場所に着くと、祭壇を作って、それから息子を縛り、手を伸ばして刃物を取り、今や、息子を屠ろうとしたそのときに、神はその手をとどめ、殺してはならないと告げます。そして、神様は、アブラハムの信仰の姿を見て、大いに祝福することを約束してくださいました。

1- 2節 神がアブラハムを試された。イサクを捧げよとの命令。

3-10節  アブラハム、神の命令に従う。(7-8節父と子の対話)

11-12節 アブラハム息子をほふろうとする。御使いそれを止める。

13-14節 アブラハム、山羊を見つける。

15-19節 アブラハムへの祝福の再確認。ベエルシバに帰る。

 

メッセージ・ポイント】                                                    

1)1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。(1節)

7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。(7節)

11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 (11節)

⇒ 今、わたしはここに!       ― 主の臨在の前に歩むこと ー                                                             

 この箇所には3回ずつ使われる「典型的な信仰の言葉」が3つあります。第一は〔ヒンネニー〕という言葉で、「はい」(1,11節)とか「ここにいる」(7節)とか訳されます。二番目の言葉はイサクから父への問いに対する答えとして使用されています。しかし、これらの3回使用は印象的です。これらの言葉は、神様の臨在のみ前に、「謙遜と心の準備を表す言葉」と言われます。アブラハムは老齢に達し、いつでも神様に仕える霊的な状態へと変えられていました。信仰とは神の御前に、いつでも心の主権を明け渡した心の状態なのです。わたしどももいつでも、主の臨在とその御前に、心の備えをなし続けたいものです。

 様々な体験を経て、100歳をはるかに超えたアブラハムは、深い恵みの世界を歩み続けておりました。それは「主の臨在」と共に歩む生活です。

 

2)2 神は言われた「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(2節)

12 「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(12節)

16 「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、(16節)

⇒ お前の息子、お前の独り子! ― 独り子を給う愛を知ること                                                      

   第2の言葉は「お前の息子、お前の独り子」という言葉です。これは2,12,16節と3回使用されます。特に2節の言葉は直訳をすると          「連れてゆけ さあ を(¯eth) お前の息子 を(¯eth) おまえの独り子 お前が愛してしまったところの を(¯eth)イツハク」となっている。ここでは目的語を示す(¯eth)が三回も繰り返されて強調されています。つまり、

  さあ、連れてゆくのだ。お前の息子

             お前の独り子

              (お前の愛してしまったその者)

             イツハク 

 三重ないし四重の折りたたむような文章でアブラハムのイサクへの愛の言及がなされています。アブラハムは子どもが無く、百才にして初めて赤ちゃんが生まれました。彼は子煩悩で、息子のイサクを可愛がり、ついにイサクに心が引かれて、神様よりもイサク中心に生きるようになってしまったのです。神はこの心の状態を指摘するために、3回も同じ言葉を繰り返しました。

 ご存知のように、神ご自身がその独り子を十字架にかけて、われらの罪のあがないとなしてくださいました。イサクの歩んだモリヤの山は、やがて神の独り子、主イエスの歩んだゴルゴタの丘と同じ場所です。イサクは自分を犠牲とする薪を背負いましたが、主イエスは自分を犠牲とする十字架を負って歩まれました。ある方が「神様はその友であるアブラハムに、独り子を犠牲とする御自分の心の痛みを知ってもらいたかった」と語りましたが深い洞察であろうと思います。しかし、この創世記22章は、信仰の父アブラハムの生涯の頂点と言って良いところですが、聖書はいったい、何を語ろうとしているのでしょうか?よく、旧約聖書の頂点はイザヤ書53章の苦難の僕であることが語られます。一人の「苦難のしもべ」が、イスラエルの民族の犠牲となって、身代わりの死体験する聖書箇所です。それはイエス・キリストの預言であることが新約聖書いたるところで記されることになります。聖書のメッセージはわたしたちが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する信仰ですが、その神様が、命を懸けて、最も愛する独り子をわたしたちにくださるという、身代わりの十字架のメッセージなのです。これは「驚くべき恵み」のメッセージです。

 

3)8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。(8節)

 14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。(14節)

 ⇒ 主の山に備えあり!   神の摂理(救いの計画)を知ること                                                            

 第3の言葉は「備えあり」という言葉です。これは「見る(ラーアー)」という言葉から変化したもので、8、14、14節に3回使用されています。「見ていてくださる」「神ご自身が見通していてくださる」という信仰は、当然のこととして、神ご自身が、「面倒を見てくださること」「備えをしていてくださること」を意味しています。今回の説教題は8節の言葉から取ったのですが、この物語の構造は明らかに8節の「神備えたもう」を中心に構成されています。また、14節には「アドナイ・イルエ (=エホバ・エレ)」という有名な聖句が出てきます。神は、わたしたちの服従する心の姿勢を見ていてくださると言うのです。

 信仰はアブラハムのように信仰の目をあげて、「前 (pro) を」、「見る (video)」ことなのです。信仰とは摂理(プロビデンス)の神を信じて歩む生涯なのです。

 三浦綾子さんの居間にはこの聖句が飾っていたことを聞いたことがありました。7年間、脊椎カリエスで寝たままの状態で、寝返りも打てないような状態から心身ともに癒され、結婚して新しい生涯に入って行くことには多くの不安や恐れが伴なったことでしょう。でも、全能者にして天地の造り主、わたしどもの生涯と歴史を導く救い主、善にして善をなされるお方への三浦さんご夫妻の深い信仰が込められていたのだと思います。                                    

 兄弟姉妹!アブラハムのように、信仰の人生を歩みましょう。主の臨在の御前に仕える姿勢、神様の人知を超えた驚くべき命がけの愛を知り、試練の中でも摂理の光に導かれる、突き抜けた霊的な聖書信仰へと主に導いていただきましょう!ハレルヤ 

 

【祈祷】  主よ、父の日を感謝します。わたしどもの信仰を、信仰の父アブラハムのように、あなたの臨在の前に歩み、またいつでもあなたとの人格的関係の中に、あなたの驚くべき愛、独り子イエスを十字架にかけられるまで愛し給うその愛を知り、また、あなたの深い摂理信仰の中へと導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン