聖霊降臨節第七主日礼拝説教「ローマ訪問への熱望」ロマ書講解⑥ローマ人への手紙1:8~15 深谷春男牧師

2021年7月4日(日)聖霊降臨節第七主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:8~15
説教者:深谷春男牧師

 7月になりました。2021年も半分の折り返し地点。今年も、残された半年間、神様のすばらしい恵みの中を走り続けましょう。今日は、信仰の最高の謙遜の美徳を身に着けたパウロに学びたいと思っています。

 

【今日の聖書箇所の概略と構造】  (1章全体の構造) 

1~ 7節  手紙の序文1……・自己紹介と福音紹介

 8~15節 手紙の序文2……・ローマ訪問計画、パウロの素顔。

16~17節  主題への導入……・神への信仰こそ救いである

18~32節  本題に入る………・神の怒りの啓示

 

すでに1-7節の箇所を学んできました。ロマ書を一つの大聖堂と考えるならば、そこは表玄関でした。それは「宝石の間を踏み分けつつ来た」ような信仰上大事な言葉のぎっしり詰まった、「壮麗雄偉な表門」でした。しかし、今日の箇所は、「一つの廊下」です。それは「簡素樸淳(ぼくじゅん)」なつくりであって、看過されやすいものです。しかし、内村鑑三はこの1~7節を「山中の湖」として、また8~15節を「湖から流れ出る小川の清流」にたとえています。少し、読んでみますね。

「これを山中の水にたとえてみよう。それは木の根をくぐり、草の葉を渡って谷に集まり、いくつもの谷川から窪地に注ぎ、地下より湧き出た水と合流して一つの湖を形成する。その湖の深さ、静けさ、清らかさは、天に向かって開いた澄んだ瞳にたとえるべきものである。その尊さは誰もが認めるところだ。この湖水は静かに、静かに下方に移動して、やがて糊口から川となって流れ出る。その川は、湖に比べると狭くて浅い。ただ激しく岩を打ちながら、その水は低地に向かって流れてゆくだけである。読みの浅い観察者は、このような川のすばらしさを閑却(かんきゃく)して、もっぱら、もっぱらあの湖の奥ゆかしさを讃美しがちである。しかしながら、実はこの川にもまた少なからぬ趣と味わいとがあって、例の湖において見出した風情とは異なる別個の尊さがある。その水の流れ、岩のたたずまい、その両岸の姿、その浅き流れ、青々とした深き渕を作る碧潭(へきたん)・・・そのすべてのものに他にはないところの風趣がある。ロマ書1‐7節をすばらしい内容と称える一方で、8‐15節を月並みなものとして重視しない人は、山中の流れには目を向けずに、その湖の姿にのみ好奇心を抱く人は思慮のないお粗末な考えの持ち主だ。ちなみに、ひとたび川となって湖から流れ出た湖水が、途中で突如として一大瀑布の壮観を作り、再び川となり、湖となり、また瀑布へと、たびたび姿を変えながら、最後に洋々と広がる大河となって海に注ぐように、ロマ書の全体は何度も姿を変えて読者の前に現われ、そのいずれの姿にもそれぞれ独特な趣を呈しながら結びに至る。これを読む者は、その一語一語に、その一句一句に、その一節一節に、その一章一章に、そのすべての箇所に細心の注意を払わねばならない。一つとして、不用なもの、無価値なものは存在しない。」(「ロマ書の研究」第六講。文章は内村鑑三の文章を現代文に翻訳した(?)佐々木忍兄のもの。いのちのことば社から出版から引用。)

 

【メッセージのポイント】

8 まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。

   ⇒ まず、第一に神に感謝するパウロ! 

  パウロはこれからローマ教会訪問の計画について語るのですが、その最初に感謝をささげています。日本語だと動詞が後に来てしまうので、長文だと意味不明になってしまいます。もともとのギリシャ語は、ストレートです。「まず 感謝します。 わたしの神に」と切り出し、「イエスキリストを通して あなた方一同のことを…」と続きます。

  「まず第一に感謝!」。これぞパウロの素顔といって良いでしょう。パウロはロマ書のみならず、ほとんどの手紙は「まず、感謝」から始めています。わたしどもも、まず、神に感謝するところからすべての事をはじめてゆきたいものです。しかし、どうして、様々な問題があっても、感謝できるのでしょうか?

これは、神の摂理の御手を信じているからだと思います。「すべてのこと相働きて益となるをわれらは知る」「あなたは善にして善を行なわれる」「最善と最愛がわたしを追ってくる」等、信仰者は神の摂理の御手を信じることができるがゆえに感謝からすべてを始め得るのです。

 

2)9 、10わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。 (9、10節)

  熱い祈りの人パウロ!

  8節で「感謝」をしたパウロは、続いて、「祈りと願い」について語ります。彼は「熱い祈りの人です!」。「わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え」ていますと、語ります。わたしどもは自分の救われたことだけ感謝していればいいのではなく、他者のために身代わりの祈りをしているパウロを見ます。これを「執り成しの祈り」と言います。熱い祈りの人パウロ!「わが証人は神なり!」

  聖書に記されて信仰者は祈る人々です。旧約の神の民であったイスラエルの人々は熱心に祈る方々でした。信仰の父と言われるアブラハムは祈る人でありました。彼は、自分の住んだところでは、どこででも祈りの祭壇を築いて祈りました。イスラエル民族の名前をもらったヤコブは、天使と相撲を取るように祈った人物であります。その息子ヨセフもまた神に祈り続ける人で、17歳でエジプトに奴隷に売られた時に祈り、無実の罪で牢獄に入れられた時にも祈り、ついにエジプトの宰相、総理大臣になりました。エジプトから奴隷であったイスラエルを脱出させたあのモーセも祈りの人で、顔が神の栄光で輝いていたと語られています。ヨシュアもサムエルもダビデもエリヤもイザヤもエレミヤもダニエルも・・・・祈りの器でありました。旧約の神の民は祈りの民です。

新約の神の民、教会も祈りの民でありました。ある先生が言いました。新約の教会は祈りの教会です。使徒行伝2章のペンテコステが教会の誕生ですが、教会は120名の主の弟子たちが祈っているところに、聖霊なる神様が降臨し、教会となったのです。弟子たちの群が教会となるのですが、教会は、教会となる前から、祈りの人々から生まれたのです。

  森山諭師がある時にお話し下さいました。あるところに顔に大きなあざがあって人前に出るのが苦手な婦人がいました。彼女は主を信じて救われました。でも人の中に入って行く勇気がありません。森山師は彼女に教会員名簿と求道者名簿を渡して、彼らのために祈ってくださいと依頼しました。彼女はそれを忠実に実行しているうちに、毎日、名を読んで祈っている方々がどのような人なのだろうと感心が湧き、やがて、教会に出席するようになられたとのことでした。執り成しの祈りは神様にある信仰と愛の証し、わたしたちを変えてゆきます。

 

3)11 わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。12 それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。(11、12節)

謙遜の心を持つパウロ!

   11節には、聖霊の賜物を頂き、教会をリードする特別な使命を持っているパウロの熱い思いがあります。パウロが行くところ行くところで多くの人々が主イエスを信じて救われ、すでに信仰を持っている兄弟姉妹も信仰生活に励ましを得て、リバイバルが起きて行きました。ですか

らパウロは「聖霊の賜物」をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と語りました。でも、12節で「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と言い換えています。これはどういうことでしょうか?多くの注解者は、これはパウロの謙遜を示すと説明します。自分が上に立って「霊の賜物を与えたい」というのは傲慢だと感じ、「互いに持っている信仰によって励まし合いたい」と言い換えたのだと言います。このような謙遜な、人間関係の機微を心得ている人こそキリストの使徒にふさわしいと絶賛されます。主にある謙遜!わたしも祈り会や早天で皆様の証しと真実な祈りを聞く時、ああ、ここに主がおられる!と深い感動を覚えます。

 

4)13 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こう・・・14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。

  ⇒ 世界宣教の幻を持つパウロ!

  最後は、神の福音によって救われたパウロの切なる思い。福音宣教の幻です。これは今後も学ぶ事ですが、魂の救いのためには世界中どこまでも出かけて行く熱情と使命感が彼にはありました。わたしどもも、主のみ旨とあらば、どこまでも従う信仰者となり、いつでも世界宣教の幻に心燃やす生涯でありたいと思います。「はたすべき責任!」福音宣教は返すべき責任です。=本田弘慈師。これは 「負債」という言葉は「オフェーレーテース」で、返すべき借金の意味です。伝道は負債であって、負債は返さねばならない義務があるのです。

 

祈り】 今日は、宝石を敷いた玄関口と大伽藍のへの廊下のような部分、「普段着のパウロ」から信仰者の姿を学びました。キリストの救いを受け、聖霊に満たされて生きる姿は「まず感謝」「熱き祈り」「謙遜」「救霊の熱情と幻」の姿でした。主よ、そのように、日々の歩みを導いてください。御名によって祈ります。アーメン