聖霊降臨節第八主日礼拝説教「福音を恥としない」ロマ書講解⑦ローマ人への手紙1:16、17 深谷春男牧師

2021年7月11日(日)聖霊降臨節第八主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:16,17
説教者:深谷春男牧師

ダイナマイトの力はすごい。大きな岩を吹き飛ばしたり、大きなビルを粉々に破壊してしまいます。パウロは、福音は「神のダイナマイト」だと語っています。硬い自我の岩を砕いて、魂の深みから永遠の命が噴出するように導いてくださるのです。 

【今日の聖書箇所概説と構造】

 ローマ人への手紙を読んでいますが、1章は以下のような構造になっています。パウロはローマの教会の皆さんに、自己紹介とローマ教会に訪問して、お会いして、共に励ましあいたい旨を、切々と語り、今日の⒗,17節で、主題への導入をかたっています。表にすると次のようです。

 1‐ 7節  手紙の序文1……・自己紹介と福音紹介

 8‐15節  手紙の序文2……・ローマ訪問計画

16-17節 主題への導入……・福音は神の力、信じる者をすべて救う

18‐32節  本題に入る ……・神の怒りの啓示

  今回は、16-17節を通して、今日は、この「ローマ人への手紙」の主題をご一緒に考えてみたいと思います。この箇所は、この「ローマ人への手紙」の中心主題への導入で、まさにロマ書の「看板」と呼ばれる個所です。

【メッセージのポイント】

1)わたしは福音を恥としない。(16節a)

⇒ 福音を恥としない!

 まずはこの「福音を恥としない」という言葉に注目しましょう。いよいよ、この16節から、主題への導入が始まりました。16節の始めに、「なぜなら」という短い言葉があって、15節からのつながりがあって、挨拶の自然のつながりの中にパウロはこの手紙の中心主題を何気なく語りつつ、信仰の中心主題に読者を迎えているのだと言われます。

 「わたしは福音を恥としない」とパウロは言います。これは不思議な表現です。しかし、ロマ書を読んだことのある人は、この言葉は非常に印象深い言葉として心に残っているのではないかと思います。

 この表現の背景にはこの手紙を書いているパウロの状況が影響しているのだろうと言われます。この「ロマ書」が執筆されたのは、使徒行伝20章2,3節の、コリント滞在時の3ヶ月の間であろうと言われます。当時のギリシャの港町コリントは人口70万人の大都会で、政治的にも経済的にも繁栄をきわめていました。哲学や数学等の学問も盛んであり、大富豪も貧しい人々も、自由人も奴隷も、学者も無学な人も、実業化も芸術家も様々な人々が住んでいたと言われます。使徒行伝17章ではパウロはアテネのアレオパゴスの評議所で福音の演説をしたが、最後に死者の復活までを語ったときに、多くの有識人は、パウロの演説をあざ笑い、「このことはいずれまた・・」といって去って行ったと記されます。人間の肉体をさげすみ、人間の精神的な崇高さを強調するプラトニックな背景の中では、死者の復活のメッセージは受け入れがたいものに響いたのでしょう。

 

2)18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、

救にあずかるわたしたちには、神の力である。

(1コリント1:18)

⇒ 福音は、ユダヤ人にはつまづき、ギリシャ人には愚かなもの? 

 パウロのロマ書を描いた背景と同じ頃に書かれた1コリント書は大変、状況が似ているように感じます。ロマ書の次にある、第一コリント書では、「十字架の言」滅び行く者には「愚か」であるが、救いに与るわたしたちには「神の力」であると語っています。これは主イエス様が十字架にかかって、わたしどもの身代わりになって下さったという福音の中心メッセージを初めて聞いた方の反応だったのでしょう。この福音、驚くべき神の愛を信じる時に人は救われる!しかし、これは、信じようとしない人にとって愚かであるのだとパウロは言うのです。これは福音を語った時の反応を体験したパウロの実感だったのでしょう。さらに、22節以下にはこのように記されます。

 

 22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。

 23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。           (1コリント1:22~24)

 

 ここに人類を代表している二つの民族の福音を聞いたときの反応が記されます。信仰の代表者のような「ユダヤ人」は「神からのしるし」なくしては信じられない。知恵の代表者のようなギリシャ人は「そんな神の愛」など、愚かにしか見えない。ユダヤ人は人間を救うのは、全能の神から来る奇跡的な力。ギリシャ人は、人間を救うのはソクラテスやプラトンのような人間の英知なのだ、と。しかし、パウロは言います。「否!人類を救うのは十字架につけられたキリスト」なのだと。「十字架につけられたキリスト」を見上げ、自分の罪を認め、悔い改めて、深い謙りをもって、神の愛と恵みに霊の目が開かれる事なのだと。反逆するどうしようもない人間を追い求め、ついには自分の独り子を十字架に掛けるほどに人間を愛する神の愛!この愚かなまでの神の愛が、人間を救うのだ!宗教的な代表者のようなユダヤ人から嫌われ、文明と知性の代表者のようなギリシャ人の嘲りと迫害のただ中にあっても、神の使徒パウロは叫ぶ。「わたしは福音を恥としない!」、人間の知性や霊性の人類を代表する巨大な思想を前にして、パウロは「恥としない!」と表現した。竹森満佐一先生は、この表現の方が、多くの人々に結果的には深く、心に染み渡る効果があったのではないかと語ります。

 柳生直行という先生は「わたしは福音を誇りとする」と訳しました。これは、モファットと言う新約学者の翻訳でとても有名な話です。しかし、これも少し、行き過ぎがあるように思います。福音は「恥」と思うような部分があるのだと思います。

 つまり、福音は十字架の福音です。十字架の福音を証しするには、自分自身の罪を告白せねばなりません。自分の罪を告白して見せるのは古今東西を問わず、それは恥ずかしいことなのです。でも、主イエスが我らの罪を担って、十字架の上に恥をさらして身代わりの死を受けてくださいました。そのことによってわたしどもは救われたのです。

 

  口あいて腸(はらわた)見せるざくろかな  芭蕉

 

 内村鑑三は名著「求安録」の裏表紙にこの芭蕉の句を載せました。

 前に牧会していた教会の植木のところに「ざくろ」がたくさんなりました。かごに取りましたら、20個以上あったでしょうか?真っ赤な口を開いたような果物が、たくさん集まると少し、異様な感じとなりました。神様の福音に触れると言うことは、自分自身の罪と関係があるのですね。自分の恥ずかしい部分に神様の光と愛が差し込んできて、わたしたちは自分の罪と自分の弱さや愚かさを知るのです。その愚かさをさらけ出しながら、わたしどもは、主よ、わたしはまさに罪人そのものですと告白するのです。

 数年前でしたが、有名な加藤先生の説教集のこの箇所を読みましたら、いろんなことが書いてありましてびっくりしました。

 鎌倉雪ノ下教会の最初の集会は、1917年10月31日(水)だったというのです。この日は宗教改革400年記念の年で、宗教改革の信仰を受け継ごうという気負いで、鎌倉雪ノ下教会は始まったというのです。そして教会の歴史を見ると恥ずかしいと思えることがたくさんあった、といくつかのことが記されておりました。

その一つは、第二次世界大戦中、政府からの求めで「湘南地方教会連合必勝祈祷会をした」ことが記されています。そして一年後には、「総懺悔運動」というのをしなければならなかった。

その二つ目は、新しい教会を建てようとしても、なかなか献金が集まらず、当時の松尾先生に大変なご苦労をかけてしまった。

三つ目に、伝道を祝い50周年目に、祝いの時を機会に教会が分裂して、何十名という人が、教会を捨てて出て行った。

四つ目に信濃町教会の高倉先生の真実さに導かれたが、しかし先生は、鬱のためみじめな最後となった。

五つ目自分が鎌倉に招かれた時には、心身の健康を損ねて、精神科の医師のお世話にもなり、その医師の勧告は「説教をやめなさい」とのことでした。でもそれは抵抗して講壇を降りることはなかった。

 人間の弱さや破れ、あるいは恥と思われるようなところが、あの、鎌倉雪ノ下教会でも、あったことを改めて思わされました。

 

3)それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(16節b)

⇒ 福音は神の力。信じるものをすべて救う力!

  ここでは福音は力であるといわれます。「力」は「ドゥナミス」という言葉です。やがて、ノーベルが爆発薬を完成したときに、どういう名前がいいかと考えて、この「ドゥナミス」から「ダイナマイト」と名前をつけました。それらのことを考えると、信仰は実にダイナマイトのような力であります。人間の行く道をふさいでいた、罪と死という大岩を吹き飛ばし、粉々にして、永遠の命にいたる道を完成してくれたのです。

 その力は今や、ユダヤ人とかギリシャ人とか、限定された人々にあらわされたのではなくて、「信じるすべての人に」与えられるというのです。それは驚くべき神からのプレゼントなのです。福音はそのように人を作り変えてゆく神の力なのです。十字架の主イエスを信じるということは、一見すると、自分の罪を認め、自分の恥をさらすような出来事なのです。でも、本当に人を変えるのはこの十字架の福音なのです。

 わたしどもの教会では、早天祈祷会や木曜の祈祷会で、豊かな、真実な証しがなされます。皆さんが、自分の失敗や、傲慢だった自分の愚かさなどを赤裸々に語ります。それは、魂に救いが与えられ、本当の勇気と勝利が与えられ、救われているがゆえにおこる恵みの業なのです。

 

 十字架の福音は、神のダイナマイト、天来の力。すべての人を救うのです。福音を我らは恥とせず、大胆にこの福音を証しするのです。

 

【祈祷】 天の父なる神。今日は愛する兄弟姉妹と共にロマ1章16、17節を共に読み、内容を深く学ぶことができて感謝します。「福音」とは、主イエス・キリストの十字架、わたしどもの罪の贖いの業であり、死を砕いて復活された、主イエスの恵みそのままであります。わたしどもは、自分の内側を深く探り、自分自身の罪深さを知り、そのような愚かなものに注がれる、あなたの御慈愛を体験したものです。主よ、わたしどももパウロのように告白します。「わたしは福音を恥とはしない。それは、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、すべて信じるものに救いを得させる力である。」新しく迎えた一週間。あなたの恵みと共に歩ませて下さい。わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン