聖霊降臨節第九主日礼拝説教「神の義は福音の中に啓示され」ロマ書講解⑧ローマ人への手紙1:16、17 深谷春男牧師

2021年7月18日(日)聖霊降臨節第九主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:16,17
説教者:深谷春男牧師

 大正7(1918年)年3月に、神戸女学院での卒業式に講演を依頼された内村鑑三は、その講演の後に購買部で働いていた身体に障害がある座古愛子さんのお願いで短冊に文字を書いて欲しいと頼まれ、「え?ここで急には書けん。後で送る」と言って後に、短冊二枚を送った。そこには「仰瞻(ぎょうせん)」と「待望」と書かれた。(「内村鑑三に日録10」鈴木範久著)。(「仰瞻」は、仰ぎ見ることと辞書にある。)信仰とは信じて仰ぎ見ることです。 

 さて、前回から、16-17節を通して、聖書の信仰の本質を学んでいます。この短い聖書の箇所は主題への導入部分です。まさにロマ書の「看板」と呼ばれる個所です。

【メッセージのポイント】

1)わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(16節)

⇒ 福音は神の力。すべて信じる者に救いを得させる力!

  パウロは、すべての方々に伝道しましたが、多くの方々はパウロの伝道に、反発し、反論し、それを受け入れませんでした。特に、ギリシャの知性と学問を最高のものであると自信を持っていた人々は、パウロの語る演説の席から消えてゆきました。ローマの世界を制覇した軍事力や法律制度の整備などに誇りを持っていた人々はパウロの語る福音に耳を傾けません。また、当時のユダヤ教、厳格な律法遵守の生活と奇跡を求める信仰の人々はパウロに敵対し、殺そうとまでしました。そのような人々に囲まれつつ、パウロは、「福音を恥とはしない」と語り、その内側に持つ強い信仰告白をします。

 「わたしは(断じて)福音を恥とはしない!」と語ったのです。その理由は、福音、すなわち、主イエスの十字架の福音は、ユダヤ人を始めギリシャ人者、すべて信じる者に救いを得させる神の力である。福音は、民族や人種の壁を越え、老若男女の区別なく、信じる者、すべてを救う神の力である、とパウロは宣言します。別のところでは、「十字架の言(メッセージ)は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには神の力である(第一コリント1:18)。」とも告白されます。ここでは、「福音」は「救い」を得させる力なのだと語ります。

 さて、パウロの語る「救い」とは一体何だったのでしょうか?貧しさからの救いか?飢餓からの救いか?病気や難病からの救いか?いいえ、そうではありません。人間の力ではどうすることもできない「罪の力、死の力からの解放です」(ロマ8:2)。真の自由と新しい命を与えて、人間を、根本から造りかえると言う「救い」です。

 「力」は「ドゥナミス」という言葉で、ノーベルが爆薬を完成したときこの言葉から「ダイナマイト」と名前をつけたことを先週も話しました。それらのことに関連つけて考えるなら、福音は実に、ダイナマイトのような力です。人間の内側にある「罪の岩」「高慢な心の岩」「不信仰な頑固な心の岩」も吹き飛ばし、わたしたちの心の深みから命の真清水を湧きあがらせるのです。

 

 ここで、強調されているのは、この「十字架の福音」は、どのようにして自分自身のものとすることができるのでしょうか?それも、ロマ書の中心主題のひとつです。それは、

「すべて信じる者に」  

と語られています。ここでは、「信仰」が強調されます。信じる者は、例外なく誰でも救われると記されます。しかし、信じない者は、神の恵みの賜物を拒絶するのですから、この救いに入ることはできません。福音による救いは、ただ、信仰によって、救われると語るのです。立派な行いをしたら救われるというのではありません。

 初めに、内村鑑三先生が、座古愛子さんに送った短冊に、「仰瞻」と「待望」という字を書かれたと話しました。主イエスの十字架を仰いで人は救われ、神の国に入るのです。「天国の鍵」は「主イエスの十字架を仰ぐ」ことです。「仰瞻」です。

 スポルジョンの回心は、十代のある日曜日の夜、大雪に日に礼拝に出席。その時、信徒伝道者がイザヤ45:22を語られた。「我を仰ぎ、救いを得よ」。その時に主を仰ぎ見て、あのスポルジョンの生涯が始まりました。

 ジョン・ニュートンもそうです。11歳から、船乗りとなり、海兵隊に連れられ、軍隊から脱走し、アフリカでの地獄のような生活、荒れ果て奴隷船船長奴隷船船長という恐ろしい罪の世界に足を取られた生涯。しかし、22歳の時に海上で嵐に遭って、主を仰ぐ。そこから、「アメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)」の人生へと帰られていった・・・・。

 ジョン・バンヤンは「天路歴程」の中で、このように描写しています。

さて、わたしは夢の中で、クリスチャンが進むべき街道は、両側とも垣になっているのを見たが、その垣は救いといった(イザヤ26・1)。この道を、クリスチャンは荷物を背にして走った。とはいえ、背負った重荷のために、非常な困難が伴わないわけではなかった。

彼はこのように走って行って、やや上り坂になっている所に達したが、そこに十字架が立っており、少し下った所に墓穴があった。そこでわたしは夢の中で、クリスチャンが、ちょうど十字架の所まで来ると、ひもが弛み、重荷は肩を離れ、背中から落ちて、転がり始めるのを見た。そしてころころと転げて、ついに墓穴の口に達し、中へ落ちて、もうそれきり見えなくなってしまった。

クリスチャンはうれしく、晴れやかに、うきうきした心で言った「主は御悲しみにより安息を賜い、その死によって命を賜うた」と。そこでしばらくじっとたたずんで、かつ眺め、かつ怪しんだ。というのは十字架を仰ぎ見ただけで、このように重荷がおりたということは、非常に驚くべきことに思われたからである。それで繰り返し繰り返し眺めているうち、ついにかれの目から涙が溢れ、頬を伝わってとめどなく流れ下った(ゼカリヤ12・10)。

さてかれが仰ぎ見、かつ涙にむせんで立っていると、これはなんと、三人の光り輝く者が、かれのもとに来て「安かれ」(ダニエル10・19)と挨拶した。それからそのひとりが「あなたの罪は赦された」(マルコ2・5)と言った。次の者は破れた服を脱がせ、着換えの衣を着せた(ゼカリヤ3・4)。また三人目の者は、かれの額にしるしをつけ(エペソ1・13)、封印をほどこした巻物を授け、走り行く時にこれを見、かつ天の門で差し出すようにと命じた。かくて、かれらは去って行った。そこでクリスチャンは喜びのあまり、三度小躍りして、こう歌いながら進んだ(神が心の喜びを与え給う時は、キリスト者はひとりでいても歌うことができた)。

 ここまで罪の重荷を負って来たが、

 ここにたどりつくまでは、味わった深い悲しみを
 除くすべもなかった。ここは何という所だろう。
 わたしの幸はここに始まるべきなのだろうか。
 重荷はここでわたしの背から落ちるべきなのか。
 くくりつけられた紐はここで断ち切られるべきなのか。
 尊しや十字架、尊しや御墓、

さらに尊きは、わがため恥を受け給いしその人。

(「バニヤン著作集Ⅱ」高村新一訳 山本書店版62~65頁)

 

2)神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

⇒ 神の義は福音の中に啓示される!          (17節)

 さて、愛する兄弟姉妹。17節に注意しましょう。この十字架は「神の義の啓示」であると語ります。「義」とは神ご自身の正しさを意味します。

①この世界の創造者なるお方は、「義なるお方」。これは詩篇7:9,

11で告白されています。しかし、この神の義はイスラエルの歴史においては罪ある者を罰する神の正しさを意味することになります。

②この神の御前に出て礼拝する者は、神の義を必要とすることが詩篇15篇や24篇で歌われ、礼拝場への入場資格との関連で使用されます。

神を礼拝し、神に義と受け入れていただくことは信仰者にとって最も必要なことです。そのような意味で、創世記15:6のアブラハムの信仰もハバクク2:4の「義人は信仰によりて生きる」も重要な聖句です。

③イスラエルの民はその最大の破局であるバビロン捕囚に直面した時

に、神の法廷における、自らの不義が問題となり、深い罪意識に捕らえられました。詩篇130篇には「あなたがすべての不義に目をとめられるなら、主よ、だれがあなたの前に立ちうるでしょうか」と歌われます。 

④神の厳粛なる裁きであるバビロン捕囚の悲惨を経験した後、神の「義」は、「裁きの義」ではなく、「恵みを与える義」であることが預言者によって宣言されます。その中でも、イザヤ53:11において、苦難の僕は自ら受ける身代わりの贖罪によって、多くの人々を義とすると記され、ここにおいて神の義は「神の救いの計画」と同義語となります。

⑤これはやがて新約の福音理解に大きな影響を及ぼすこととなりまし

た。パウロの手紙、ロマ3:21-26やガラテヤ2:16ように「神の義」の出現を、救い主なるキリストの出現、特にその十字架と復活における救いの業の出現へとつながって行きます。このように、「神の義」の理解は、宗教改革の出発となりました。ここにわれらは、旧約聖書、パウロ、ルターとつながる信仰の義認の流れの系譜を見ることとなります。

 今日、お読みしました、交読詩篇の71篇は、23節で「わがくちびるは喜び呼ばわり、あなたがあがなわれたわが魂もまた喜び呼ばわる」と神による「あがないの恵みの体験」が告白されます。実はこの詩篇は「義」と言う言葉が5回も使用(2,15,16,19,24節)され、義とは「神様の救いの計画」を表現しています。「神の義」=「神の救いの計画」がこの詩篇の最大の主題なのです。ルターの宗教改革は「義の発見」から始まったと言われますが、その最初のきっかけはこの詩篇71篇の学びからだそうです。われらの罪が贖われる時、罪の力と共に死の力も砕かれて、永遠の命の世界へと導かれます。高橋三郎先生、はこの詩を「義の支配」と題します。

 「神の義は、福音の中に啓示される」。これは非常に深い旧約聖書信仰の世界パウロのパウロの福音理解を示しています。「神の義」すなわち、「神の救いのご計画」は、十字架の贖いと復活信仰の「福音」の中に、啓示されたのでした。主を「仰ぎ見て」、人は神の驚くべき愛の恵みに触れて、救われるのです。ハレルヤ

【 祈 り 】 恵みの主よ。ロマ書1:16,17の学びを感謝します。あなたの十字架の福音の中に、「神の義」、すなわち「神様の救いの計画」を見、「子よ、心やすかれ、汝の罪、赦されたり」の御声を聞くことができますように。今日から始まる一週間、朝ごとに、あなた御自身の愛の窮みである主イエスの贖いの十字架を「仰瞻」し、主イエスの再臨を「待望」する、栄光の臨在と共なる日々を歩み行かしめ給え。御名によって祈ります。アーメン