聖霊降臨節第十四主日礼拝説教「神の怒りは啓示される」ローマ1:18ロマ書講解⑪ 深谷春男牧師

2021年8月22日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙1:18
説教者:深谷春男牧師

  先日、「チコちゃんに叱られる」というNHKのTV番組を見ました。5歳の人形のチコちゃんが、「ねえ、ねえ、オカムラ・・・」等と大人の男性に語りかけたり、難しい、当然と思っていることを、質問し、良く理解していなかったりすると、最後に、真っ赤になり、鼻や耳から(?)煙を出し「ぼーっと生きてるんじゃねえよ~!」と、大声を出すところで、皆が爆笑という楽しい番組ですね。5歳の女の子が、だいの大人を、「ボーと生きてんじゃねえよ!」なんて、いきり立つので、うちではあまり人気がなく、見ることがないのですが、この間は、夕食の後にちらっと見ました。「消えるボールペンインクはなぜ消えるのか?」という不思議な内容でした。あれは温度が高くなると透明になるインクの発見から始まったという数十年の歴史も語られ、びっくりしながら見ておりました。そして最後に、インクの発明者の方が、チコちゃんに質問がありました。「チコちゃんら、今日は消えるインクの話でしたが、チコちゃんは5歳でしたよね。5歳でも消したい過去ありますか?どうかな?」。わたしは聞いていて、なんというきつい質問!!と思いました。消したい過去がありますか?罪認識を問うている・・? 

【今日の聖書箇所の概略と構造】

 さて、今日は、ローマ人への手紙1章18節をご一緒に読んでみたいと思います。第一章は、以下のような構造になっています。 

 1‐17節  手紙の序文……・自己紹介・ローマ訪問計画・主題の導入

18‐32節  本題に入る…………神の怒りの啓示。人間の罪責表。

  今回は、18節を通して、「神の怒り」ということを学びたいと思っています。この箇所から、いよいよ、パウロは、ロマ書の本題に入ります。ロマ書を3つの大伽藍に喩えて説明しましたが、ここから、大聖堂3棟のはじめの第1棟に入ったことになります。

 

【メッセージのポイント】

1)18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。(18節)

  ⇒ 神の怒りの啓示!

 「神の怒り(オルゲー セウー)は・・」とパウロは本論を切り出します。何度か言いましたが、この18節からロマ書の本論部になります。パウロはこれから「神の救いの業」を語ろうとしています。17節では「福音には神の義が啓示されている」と語り、主題への導入としました。

 今、「神の救いの福音」を語るのに、まず、その第一声は「神の怒り」でありました。いったい、どうしてでしょうか? しかし、ロマ書の構造において見れば、これは当然のことでした。パウロはこれから、遠大な神の救いの計画を語ろうとしているのです。

 

 第一部は1:18-8:39でそこでは「魂の救い」という問題を論じます。この第一部は人間の問題を「罪と死」(8:2)と見て、その問題の解決へと筆を進めるのです。創世記3章のアダムとイブの原罪から語り始めます。その2つの問題も、もとをただせば「罪」からの救いです。神との断絶をした「罪」の結果、死が到来したのであるから、やはり「罪」に焦点が絞られることになるのは当然です。ですから、これから1:18-3:20までは、異邦人の罪、ユダヤ人の罪、全人類の罪という具合に、罪の下に売られている人間の状況を語ろうとしているのです。

 ドイツの有名な神学者はこの箇所、1:18~32までの箇所を「夜」という題をつけました。まさにここは光のない「夜」とも表現すべき人間の罪の姿を語ったところであります。人間の現実の罪の世界の緻密な描写です。「醜悪な罪の現実の描写」とでも表現できるでしょうか?

 

 昔、教会の屋根裏で、神学校に行くための訓練を受けていたときに、ロマ書を読んだときある説教者が、「福音は地獄の火に照らして読め」と語るのを読んだことがあります。本来、自分が行くべき罪の結果としての裁き、地獄の火に照らしつつ、このような恐ろしい結果から、主イエスの十字架の「恩寵・恵み」によって救われたことをわたしたちは知るべきだと言うのです。人間の罪、自分自身の罪を深く理解せねば、福音の理解も出来ません。

 わたしは高校生の頃に、よく、自分の罪の裁きとして、恐ろしい夢を見たことがあります。トウモロコシのお化けのような、ベトナム戦争の犠牲者が、わたしを呪っているような、そんな夢でした。

 

 わたしは、旧約聖書を読んでいて、驚くことがあります。旧約の中にイザヤやエレミヤと言った預言者が出てきます。この預言者の中心メッセージは「神に帰れ!(シューブ)」ということです。エレミヤ4章やイザヤ6:10など。神に立ち帰れ!というメッセージは非常に強い、神の救いのメッセージです。しかし、この時、イザヤやエレミヤに対抗して、偽預言者が現れました。この偽預言者のメッセージは、「神は怒らない」「神は具体的には行動しない」というものでした。しかし、イザヤやエレミヤやエゼキエルは、神に立ち帰れ。反逆の中にあるならば、やがて、破局が来る!神の怒りの時が来る!と語ったのでした。そして、実際に、北イスラエルはBC.722年にアッスリアに捕囚となり、南ユダはBC.586年バビロンに捕囚となりました。聖書の語る神様は、この世界の創造主であると共に、この世界の裁き主であります。罪を見逃しにすることはできません。神は生きておられるのです。

 

2)18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。(18節)

⇒ 神の怒りは、天から啓示される。

 いったいこれは何を意味しているのでしょうか?

 ここでパウロは、神の怒りは天から啓示されるというのです。「啓示される」とは、カバーをかけて隠されていたものが、カバーを取ってあらわにされるというようなものです。新車の発表会などで、美しい女性が出てきて、感動的な音楽と共に、さーっと覆いが取り去られ、光り輝く新車が現れる姿を、「啓示」とか「黙示」と言います。

 17節では「神の義」が現れ、18節では「神の怒り」が、神の光に照らし出されて、登場することとなります。つまり、長い歴史の中で、計画されてきた「神の救いの経綸」、神の「秘密」が「神秘」が、神様御自身によって、明らかにされることを意味しています。照らし出される、被照体は、「主の十字架!」であります。これは「神の愛」であり、「贖い」であると共に、「神の怒り」でもあるのです。

 

3)18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。(18節)

⇒ 神の怒りは、不信心と不義とに向かう!

 パウロはこの18節で「神の怒り」は、何に向かって語られるのでしょうか?この節を読みますと、「人間のあらゆる不信心と不義に対して」怒られるのだと語ります。「不信心」とは少し古風な言い方ですが、これは現代では「敬虔ではない」という言葉です。クリスチャンのことを表現する言葉に「敬虔なるクリスチャン」という褒め言葉がありますね。「これは神様を信じ、神様を恐れて、頭を垂れる、祈りの姿勢を持つクリスチャン」のことです。ここで言う「不信心=不敬虔」という言葉は、「神を恐れない、不遜なもの、傲慢なもの」のことです。 

 日本人が戦時中に、韓国や中国に入って行き、神社参拝を強要した時の悲惨さは言葉に表せません。韓国のクリスチャンリーダーが「わたしは神のほか何者をも恐れない!」と殉教を覚悟で語った時に、日本の軍人は「わたしは神をも恐れない!」と言って、恐ろしい虐殺・蛮行を行ったというのを聞いて、唖然としたことがあります。軍事力を背景に、虐殺や拷問や婦女暴行などの「不信心や不義」を行ったならば、真の神が怒られないはずがありましょうか?そのような現場に直面したなら、人間でも「怒る」のです。わたしたちでも怒るではありませんか。

「不義」というのは「道徳的犯罪」のことです。

「不信心と不義」。それは「神はいない。人間の世界は偶然にできたアメーバ-の世界と同じだ。われらの思想に従わないものには何をしてもいい!」という考えです。そのようにして、戦時下のナチスの政権は600万人のユダヤ人を殺害したと言います。

 「はばもうとする」という言葉は、カテコーという言葉で、来るのをさえぎるという意味ですが、もう少し強い意味があり、来るそのものを捕らえて、箱に入れて覆ってしまう、人なら牢獄に閉じ込めるという意味だそうです。そうすると、人間は、悪意ある罪の力で、神の真理を遮り、神の真理を捕らえて、箱の中に閉じ込めて、その真理が露われないようにする不敬虔と罪を持っている。神の怒りはその不信心と不義に対して向かうとパウロは語ります。

 今日の結論として、わたしどもは主イエスの救いの福音を受けるに当たり、その前に、まず、自分の罪の現状を深く認識しなければなりません。そして主の十字架を見上げ、死を打ち砕いた復活の主イエスを見上げつつ、まことの光なる神に立ち返りたいと思います。

 

【祈祷】 恵みの御父。今日は、ロマ書も序文を終えて、いよいよ福音の本論に入り、「神の怒りの啓示」について学びました。ここに人間の本性が暴露されます。あなたの目の前には、わたしたちの罪と汚れに染まった姿は「あなたの怒り対象」でしかありません。しかしそのような、罪の僕、哀れな怒りの対象であるわたしたちを、「神の義」、「神御自身の救いの計画」の中において救い上げてくださいました。今、秘密のベールが払いのけられて、主イエスの十字架が、その主の贖いの恵みを明らかに示してくださいました。愛する御子を十字架にかけるほどに人間の不義を怒られる「神の怒りの啓示」。わたしどもをあなたご自身の恩寵と愛を知り、いよいよ深く信仰の生涯へと歩み行かせてください。わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン