聖霊降臨節第十五主日礼拝説教「起きよ、立ち上がれ」エペソ5:4~8 古屋博規牧師

2021年8月29日(日)主日礼拝
聖書箇所:エペソ5:8~14                       
説教者:古屋博規牧師

8あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい一9光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである一10主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。 11実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 122彼らが隠れて行っていることは、ロにするだけでも恥ずかしい事である。13しかし、光にさらされている時、すべてのものは、あきらかになる。14明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある。「眠っている者よ、起きなさい。死人のなからから、立ち止がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」。

 エペソ5章8~ 9節で記されているその様な相応しいキリスト者としての姿は、何を手本とすべきでしようか? 聖書は、以前の闇と今の光の状態を指摘しつつ、今は主にあって光です、と教えます。今や、キリストの性質を受け継いでいます。その歩みの中で、光はいのちを示す善意と正義と真実をもって、他者との対話や交わりに臨ませようとします

 皆様も、私も周囲からキリストの薫りなるものを期待されています。キリスト者らしさとキリスト者臭さは違うように思います。「キリスト教は好きたけど、『クリスチャンは嫌いだ、』」といわれるとき、一番出鼻をくじかれ、反省を促され、起きあがりも、立ち上がりも出来ないほどになります。「もはや私が生きているのでなく、キリストにより生かされている、」(ガラテヤ2 : 20 )と、いつでも言えるだろうか?と考えることしきりです。そんな時、神様は良い人だけでなく、悪い人にも光を与えて下さると慰めるのです。人生は、良いときばかりではない。悲しさを感じたり、体調が悪い日もあります。社会のただ中での煩わしさ、腹立たしさ、悲しさや、体調の悪さなどに悩殺されずに、どの様に自分を表せるのだろうか?と思うのです。神様は上の中にある種に、光で射し照らして、暖めて、発芽させ、成長させて実を結んでドさるのです

10節以降は、神の御心が何であるかを学びます。光の子どもらしくあゆむにあたって大切な事の先ず第一は、「主に喜ばれること」が何かを吟味しなさい、見分けなさい、です

 第二は、闇を放置しないで明るみに出すこと(1 1節)、指摘することーです

私たちは、闇の支配が続くのではありません。必ず顕わにされ、光が包んでくれるのです。主イエス・キリストが十字架に架けられた時、犯罪人二人も左側に、そして右側につけられた情景を思いだします。死を前にして、強盗の彼らも共に最後を迎えます。誰もが、十字架につけられるのは当たり前だ、仕方ない、当然だ、と言うかも知れません。人々のその様な、すてばちな声を感じようとも、主は対話されます。最後に彼らはどんな言葉を残しているかが、ルカ2 3 : 3 9 ~ 4 3に記されています。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。』と示されています。一方は今までの生活の恨み言を語り、「今まで立派なことをいっても、責任を果たせないのか」と言って同じ責めを受ける事は当然だと言います。けれども、主イエスは彼の言葉に反論せず、また、聞き流さないで受け止めようとされます。もう一人の犯罪人は、主を冒涜する犯罪人である仲間をたしなめて、この人のことを恨む理由はない。我々は「この責めを受けるのに当然のことをしたのであって、この人は何もしていない。」と開き直りではなく、ありのままであろうとしましたそして彼は「私を思い出して下さい」と言い続けました。主は「あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われました

 人は自分のしていることを正当化して、他人を責めます。犯罪人ならずとも、悪意は誰もが持っています。自分を正当化しつつ、自分のしていることを素直に認めようともしないで、他人のせいにしますし、素直に自分を認められない、他者に、隣人に、噛みつき、人は傷つけあうのです。そして、死をも受け入れず、起き上がる勇気も持ち得ていません。もう一人の犯罪人は、闇を隠すことなく、当然のことと認め、深く受け止めました。彼は、明らかに主イエスの光に包まれていました。闇の業は、自分を正当化し、偽り、責任を転嫁します。だから、恥じ入りたいような悔い改めを必要とする思いも、光によってさらされ明らかになるとき( 13節)人は、光の子となります主イエスが、この犯罪人のひとりに向かって一緒にパラダイスにいるであろうと言われます。自分が闇の中にいる時、たとえ体が袞弱していても、ありのままの自分の姿を受容できる静かな心を持った人は、立ち上がって生きる事が出来るのだろうと思います。彼も恐らく絶望から希望へと導かれたことでしょう。人前で立派そうに見えても、人は死を恐れ、滅びることよりも生き延びることを優先します。しかし、この犯罪人は「思い出して下さい」と御国にお入りになる栄光の主に望みをかけたのです。当時のパウロが教会へ主張したことは、闇からの解放に立ち上がることでした

 旧約聖書のエレミヤという預言者は、「心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」(エレミヤ1 7 : I () )と言っています。この様に言うのも、人の心は、危険で、不正もはびこり、神を冐涜し、闇が支配していることをさしていました。彼にとって悩みは尽きず、これて良かったか?と何度も悩み苦しみますもの笑いになる時もありました。忠実に神を伝えるほどに人は、嘲り迫害します。その様な時、彼は人間全体の問題として闇に支配されている状況を憂います。嘘つきの人間、デタラメの世の中の矛盾にもかかわらず、神は人間の最も深い奥底にある思いを探り、見えない所まで見ていて下さるのたから、神の前に私たちは起きて立ち上がらなければ、我々が弱い人間だと言うことが本当にわからない。だから先ず、聖書を読み、お祈りし、強くなろうという思いだけを持つのではなく、自分は本当に弱く、偽りを持っていることを明らかにして、あらゆる事を通して気付かせていただくのです

 私たちは、よく「教会は弱い者の集まり」と言います。それは起きあがれない、立ち上がれない姿そのものを皮肉る言葉です。しかし、それは、この世の、弱き本音のように聞こえて来ます。なぜ「真実」が言えずに偽るのでしょう。しかし、神が近くにおられることを信じる時、人は自分の弱さを恐れません。偽ることもしません。キリストの十字架に真っ正面から向き合って、救いを見出す事が出来るのだと思います。私たちは自分の生き方に自信がない時、正直に生きられないで、騙されたと平気で言うことがあります。自分を正当化しようとし、自分の本心ではないと隠したりもします。夫婦でさえも「仕方ないから・ ・とか、騙されて・・・とか」自分の意志でないことに平気となる時に、「ハッ」と我に返ります 詩画作家、星野富弘さんは

「だれもが棘をもっている 外に向いているか、

内に向いているか、それだけの違いです。」

「花と棘とが同じところから生えている、やがて花は散り、棘だけが残る。なんだか私の心のようで、胸の奥がチクリと痛い」と、うたっています

 

 私達は、人からの評価で生きていることがしばしばあります。いや、ほとんどがそうかも知れません。しかし、謙遜というのは神の眼羞しに写る、自分のありのままの姿で生活することです。人の世の評価で、人がもし右往左往するとしたら、キリストの謙遜さとは、ほど遠くなることでしよう。キリストの薫りは弱いところに神の力として働きます。私達が自分で薫り高くあろうとすると、神様の薫りは薄まります。自分は何様かも知らずに、誤解、意地悪、親切を仇で返し、身の程を知らずにふるまっていると、自分が赦されていることを忘れてしまいます。しかしイエス・キリストの出会いは、その様な私であっても、主はいつも「眠っている者よ、起きなさい。死人のなからから、立ち上がりなさい。」(エペソ5 : 1 4 )と呼びかけていて下さっています。

 私たちは棘を沢山外に向けています。そんな弱い払達に、人生において柔相で優しい人であるように、失望の中においても、他人の心ない仕打ちにあった時にも、信頼していた人の不誠実さに対しても、人生で遭遇する種々の苦しみで、自分の心を頑なにしたり、意地悪にするのでなく、和らげるものにするように主は、立っていてくださいます

 ニューヨーク、リハビリテーション研究所の壁に書かれた病者の祈り一がありますこの詩を見る時、「起きて立ち上がれ」と導いて下さった神様の愛が、より鮮明に伝えられているように思います。ここにご紹介します

 

大事をなそうとして

力を与えてほしいと願ったのに

慎み深く、従順であるようにと

弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと

健康を求めたのに

より良きことができるようにと

病弱を与えられた

幸せになろうとして

富を求めたのに

賢明であるようにと

貧困を授かった。

 

世の人々の賞賛を得ようと

権力を与えて欲しいと求めたのに

神の前にひざまづくようにと

弱さを授かった。

人生を享楽しようと 

あらゆるものを求めたのに 

あらゆることを喜べるようにと

命を授かった

求めた者は一つとして与えられなかったが

ねがいはすべて聞きとどけられた。   

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず  

心の中の言い表せない祈りは

すべてかなえられた。

わたしはあらゆる人の中で

もっとも豊かに祝福されたのだ。