新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストによる神の義」ローマ3:21~26 深谷美歌子牧師

2021年10月10日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ3:21~26                        
説教者:深谷美歌子牧師

さわやかな秋がやってまいりました。コロナ感染も静まってまいりましたね。秋晴れの空のような日々をお過ごしでしょうか?でも大型台風も来ますね。人生はいろいろ起ってまいります。

 今週のメッセージ個所は、秋の特別礼拝なので、いつもの使徒行伝ではなく、聖書の中心と言われている、ロマ書3章21節以下です。すでにイエス様の命を頂いている皆様が多いと思いますが、今一度頂いた命の恵みを確認し、まだいただいていない皆様にこの命が受け取られますようにと祈りつつ、礼拝を捧げていただけたらと願っています。

【 聖書の概略 】 本日の箇所の前に「すべての人は罪を犯した。律法によって生きているユダヤ人も、それによって義とされることはない」と言う主題が、3章20節まで語られました。そして3章21―26節のしかし今やと、全く別の救いの道、「信仰義認」の主題に入ってゆきます。

21節    実は旧約の時代もこの日を証し(指し示し)ていた。

22‐25節  イエスキリストによる神の義が与えられた内容。

26節    受け取り方は、イエスキリストを信じるだけ。

【メッセージのポイント】

  • 律法と預言者に証しされて。

 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。       21節

すぐ前の20節までで、パウロは律法によっては義とされない、と伝えたば

かりです。そのすぐ後に、律法と預言者とによってあかしされて現された。と書いています。どういう意味かまずみておきましょう。

初めての方のために、律法とはどういうものだったかということをお話し

させていただきます。イスラエルの歴史に、モーセという指導者が立てら

れたことがありました。それはイスラエル民族がエジブトで、奴隷にされていた時の事です。苦役の叫びを神様が聞かれて、モーセを立て、数々の神の奇跡を通して、イスラエル民族は奴隷から解放されたのでした。そして約束の地に導かれました。

そのとき、神様が、あなた方が神の民として歩むなら、私はあなた方の中に住み導き守る。契約のしるしとして、十戒を与えました。祝福される歩みを導くものとして与えられた細則の律法でしたが、パウロの頃には、これを守るなら、義と認められる。異邦人は律法を守らないし、取税人や遊女、羊飼いなど、律法を守らないものは神の祝福の外にあると信じられていました。

 ですが、律法は神の民の生き方を導くもので、正しいものでした。人間の生き方を指し示すものでした。

人間の世界の法律は、人間同士が、どうすれば一番良いかを考え、材料を持ち寄って考え、決定するもので、色々な考えもあり、絶対ではありません。しかし、律法は神様が祝福の生き方を与えたもので、絶対正しいものです。

今でも入門コースをする時、これを伝えます。1戒は、わたしのほかに、

なにものをも神としてはならないです。世界を造り、神の像に似せて人をお創り下さった神様に導かれて歩んでこそ、本当の生き方が分かるのです。 

預言者というのは、メシヤについても「石の心を除いて肉の心を与える」等、民を本当の意味で生かす方が来られることを伝えていました。

しかし、ユダヤ人たちは選民意識を間違って持ち、メシヤも神様の思いと

は違った王を待ち望んでおりました。ユダヤ人は律法の根本の神を愛し、

隣人を自分のように愛せよを、実行できないことを認めるべきでした。

しかし今やこの世界に、全く別の方法による神の義が現されたというのです。

  • イエス・キリストによる義が現された

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべ

て信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、               22-25節

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっ

ており、とあります。ユダヤ人も律法を全うできないし、ましてや異邦人は神を認めることさえしないで生きてきました。今も日本人のほとんどは神様を認めませんね。その人類に義とされる道が開かれたというのです。

Ⓐ神様の計画はユダヤ人の思い及ばない方法でした。神の民に対しても神様は、忍耐してこられたというのです。時至って、人を義とする方法を備えられたと。それは、神様の義と愛を満たす方法でした。

神様の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。1:18なら、滅ぼされるはずでした。 

しかし今やです!イエスキリストを送り、罪のない方を罪とし、十字架で遮断されたのでした。神の義(正義と愛)を貫き、信じる者を義とする道を備えられたのです。

この義と言う言葉は法廷用語で、無罪!と宣言すると言う内容です。この義は何の差別もなく与えられました。

②その方法は、神の子が十字架で血を流され、死をもって贖うものでした。(贖いと言う言葉は、奴隷を、代価を払って買い取ると言う意味です。)

イエスさま以前は、神殿の一番奥の至聖所に、犠牲の動物の血を携えて祭司が入り、契約の箱の純金のふたの上にその血を振りかけて、民の執り成しをし、神様と交わりが赦される場所でした。

イエス様はご自分の血をもって天の至聖所に入り、永遠の贖いをしてくださったのでした。へブル9:12

それで神様との和解が与えられ、直接父なる神様に祈ることが赦されました。この恵はイエス様の十字架の贖いを信じてのみ与えられます。信じて父と子と聖霊の名による洗礼を授けられた人は、無罪の宣言を受け取るのです。

3)くむ物を差し出すだけ

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。26節

すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていましたが、

価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる道が用意されました。全部神様が備えて下さいましたが、それをいただく方法はイエスを信じることです。このことをくむ物を差し出すだけと表現されている方がいて、その表現をお借りしました。

信じるということは、先ず、Ⓐ大元の罪を認める事です。神様がこの世界を造られ、この世界の主権者であられるのに、それを認めず、自分が正しいとばかりにものごとを判断し、自分が主権者として生きてきたこと

Ⓑそういう人生の中で、人を裁き傷つけ、自分も傷ついてきたこと、取り返しのつかない様々なことも全部赦されること。

 これらすべての代価をイエス様がご自分の命の血潮で払ってくださった。これは2000年前にこの歴史に確かに起こった出来事です。それを感謝をもって受け取ると言うことです。「その事を感謝して受け取ります。」と神様に祈ることが、くむ物をさしだすということです。

イエス様を、信じた者は、神の栄光にあずかります。本来、人間は神様に似せて作られ、神様と親しい交わりができる、栄光あるものでした。が、罪によって失われていた神様との交わりに入れられます。

罪の問題と共に、死の問題の解決がそこにはあります。伝道の書の言葉は

 1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。という言葉で始まります。 1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。イエス様によって、永遠の命の道が開かれるまでは、死で終わる、希望の無いものでした。しかし、この世を去るときこそ栄光に入れられる希望が与えられました。かつてアブラハムに約束の地を約束されましたが、完全な贖いは永遠の神の国が与えられたことでした。

*聖霊による命に生きよう

イエス様の十字架の贖いによって、神との平和を得た者は、罪と縁を切ったものです。義とされる24節とあります。法廷用語で、罪無しと宣言されたのと同じです。使徒行伝の御用の時も言いましたが、もしも地上での生活が、神様の命が味わえなかったように見えた生活でも、信仰告白し、父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けられた人は、義と認められ、天国の国籍を頂いている者で天国に入れられます。ご安心ください。

でも、神様の命に満たされた生活を地上でも送ることができます。それは、注がれている聖霊様を心に迎えて歩み、み言葉に聞き、祈る生活です。

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。ヨハ16:7イエス様が十字架につく前に語られた言葉です。

弟子達もイエス様に命を懸けて従って行こうと決意していましたが、自分の力ではできませんでした。危険が迫った時、イエス様を裏切ってしまいました。でも、昇天される前に「約束の聖霊を送る。祈って待っていなさい」とのお言葉を握って祈っていた時、聖霊が注がれ、大胆に主を証しする器にされました。

6日に赤羽で、本間時子さん95歳のお葬儀がありました。深谷は50年、わたしは40年ほど共に歩んだ方の突然の死で、子供たちも、生まれる前から一緒だったので、とても寂しがっています。が、希望のある死でした。小学校高学年のとき、佐藤勇先生に導かれて、信仰を持ち、80年以上の信仰生涯でした。「祈ることができるのは打ち出の小槌を持っているようなもの」と、いつもお祈りしていました。ご長男は赤羽教会の役員で、しっかり繋がっていますが、上の2人のお姉さんたちは未だ信仰告白ができていません。昨年の母の日のカードの返事がたまたま見つかりましたが、戦争の時の出来事の細かい思い出とか、み言葉に励まされて生きて来たこと。2人の娘もきっとイエス様に繋がる日が来ると信じていることなど、つづられていました。

祈り 旧約時代から、指し示されていた究極の義が、イエス様の尊い血潮によって行いによらず、ただ信ずる信仰によって誰にでも与えられる時代に生まれさせてくださって感謝します。この世界でも神の国の勝利の生活を聖霊様によってお与え下さい。主の御名によって。アーメン