新宿西教会主日礼拝説教「怒りの器から憐れみの器へ」ローマ9:19~26 関戸直子神学生

ikarinoutuwakara

2021年10月17日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ9:19~26                        
説教者:関戸直子神学生

 本日、神様からの言葉として、選ばせていただいた箇所は、ローマ人への手紙9章19節~26節です。ここは私がうつ病で10年間病んだ時、与えられた御言葉で、そのうつ病が癒されるきっかけとなった言葉でした。

 ローマ人への手紙は「歴史を変えた手紙」といっていいほど、重要な意味を持った書簡です。宗教改革者ルターも、この手紙から大きな悟りを得て、宗教改革を起こしました。まさにこれは偉大な書簡と言えるでしょう。

 しかしまた別の意味で、私はこの手紙は素晴らしいと思いました。それは、そんな世界を変えるほど偉大な書簡であるにもかかわらず、世界の片隅の日本の、小さな田舎の町で、やっと洗礼を受けて1年たったか経たないかくらいの、しかもうつ病にかかってほとんど 聖書が読めるような状態でない私が、意味がよくわからないままで読んでも、病んだ魂の奥底にまで届いて、癒しの御業を起こしてくれた言葉であるからです。これはすごいとおもいました。

 

 さて、このローマ人への手紙は大きく3つに分けることができます。

1~8章は、人間の救いについて、特に8章では神の愛と聖霊による圧倒的な勝利についてパウロは力強く語っています。

9~11章は、ユダヤ民族ひいては全人類の救いが重要なテーマとなっています。

12~16章は、キリスト者の生活倫理を示し、挨拶で締めくくっています。

 

 8章までで、人間が救われることについて、真剣に熱中して、熱く語っていたパウロでしたが、この9章に入ってから、彼の話しぶりは全く一変しました。

パウロはキリストの救いを受け入れようとしないイスラエルの民に対して深い悲しみを持ちました。9:4~5でユダヤ民族の特権を挙げています。この約束と栄光はすべてイスラエルの民のものでありました。しかし、このような特権を神から授かった民族が、大きな救いの計画から遠ざけられているのです。これはパウロにとって大きな問題でした。 いったい、なぜでしょうか?
 結論から言いますと、ユダヤ人は真の神であるキリストを拒絶したからであります。

 

 パウロ自身もユダヤ人でした。まだキリストに出会っていない時には、クリスチャンたちを迫害していました。そのパウロが、復活したキリストと出会って、自分の生き方を完全に方向転換しました。彼は、このイエス・キリストこそ、本当の救い主であることがわかったのです。

 それなのに、自分の生まれ故郷のユダヤ人たちが、いまだにキリストを憎んでいること、救い主キリストを受け入れないでいることに対して、本当に嘆き悲しみました。3節で彼は、同胞が救われるためなら、自分が呪われて、キリストから離されてもいとわないとまで言っています。

 皆さん、たとえばご自身のお子さんが小さいころ教会学校に喜んできていたのに、大人になるにつれて一切教会に来なくなった、今ではむしろ拒否している、というようなことがあったらどんな気持ちになりますか?そういう状態にある夫や妻、兄弟や友人がいたとしたら、もう一度教会に行ってほしい、御言葉を受け取ってほしい。救われてほしい。そんな気持ちにならないでしょうか。

 

 今日お話しをさせていただくのは、「怒りの器」と「憐みの器」の話です。9章21節では、パウロは私たち人間を「器」という言葉で表しています。なぜかというと旧約聖書の預言者が「神と人間との関係」を「陶器師と粘土で作った器」に例えて書いているからです。陶器師とは神様の事です。造られた器は人間のことです。

 いったい「怒りの器」とは何でしょうか。それは神が怒りをもって裁く器の事です。かつてユダヤ人たちは神に選ばれた民でした。しかし、神の怒りを受け、滅ぼされる器となりました。そのわけは、「主キリストを信じないという「不信仰」という罪があったからです。

 では、「憐みの器」とはなんでしょうか。それは、神の憐みを受ける器の事です。自分の罪を認め、へりくだって主キリストを受け入れるならば、ユダヤ人、異邦人の区別なく救ってくださり、憐みの器としてご自身の栄光の富を与えて下さると23節に書かれてあります。

 神は怒りの器としたものを、そのまま滅ぼすのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。神は怒りの器が救われる道をキリストにおいて備え、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、世界中の人々が主イエスを信じて、救われ、憐みの器になるようにと、耐え忍ばれているのです。そのことがこの9章には書いてあるのです。

 私自身も、この時はすでに信じて憐みの器になっておりました。しかし、それにもかかわらず、私は未熟な新米クリスチャンでありました。私の中には古い自己中心な考え方や、まだ解決していない心の問題を多く抱えていたのです。そして、わたしは、30歳の時にうつ病を発症して、倒れてしまいました。

 半年近く布団から出れなくて、それはまるで私という器が、壊されてもう一度土の中に戻され、真っ暗闇の中に閉じ込められているような感じでした。布団からは出れるようになっても、家の外へは出れないという状態は3年間もつづきました。寝たきりの時は、夫が私の口におかゆを運んで食べさせてくれていたような状態で、神の手によって壊された器、それはまさにうつ病の時の私自身でありました。

 9:19~20には、我々は神に向かって「あなたはなぜ、私をこのような者にしたのですか」という事はできるのだろうか、と書いてあります。私は、この時、神様に心から嘆いて訴えていました。「神様、あなたはなぜ、私をこんなひどい目にあわせるのですか?」と。「あんなに一生懸命、あなたのため、人のために尽くしてきた私が倒れている。そして、何もしないでいるあの人たちが元気で楽しんでいる。ゆるせません!」これがわたしの正直な気持ちでした。一体どうすれば治るのだろうと、毎日毎日そのことばかり考えていました。

 

 ユダヤ人は神に対する熱心さがありましたが、それは正しい熱心さではありませんでした。ユダヤ人は律法を守ること、立派な行いをすることによって、神に選ばれている、我々は救われていると勘違いをしていたのです。

うつ病になる前の私も、ものすごく熱心に頑張る人でした。でもそれは、正しい熱心さではなかったのです。いつも自分は正しく、立派な人にならなければと思っていました。スケジュール表が全部埋まっていないと、恐怖に近い感情が襲ってきます。何もしない日、何もしていない時間は「自分には価値がない」というような罪責感が込みあげてきます。クリスチャンになったら、それが余計にパワーアップしてしまいました。

 クリスチャンになったのだから、恥じない行いをしなければならない、クリスチャンなのだからちゃんときまりを守らなければならない。私は、どんどん律法的な人間になっていきました。救われたよろこびと感謝はやがて消えていき、あとは、もっとがんばっていいキリスト者になるために、一生懸命頑張る道を走る、そのような感覚になっていきました。

 わたしの心の中にあった問題は何か?それは今考えると、「怒り」でした。

 生育歴のなかで、長年たまってきた怒りが常に心の中で、他の人に対して、社会に対して、家族に対して、ついには自分に対して燃えていたのです。その怒りはいつも自分の正しさを証明し、自分には能力があるように見せかけようとする気持ちが、自分をいつも追い立てていたのだと思います。

 

 あるとき、牧師夫人が、友人と一緒に、寝ている私を訪ねてきて下さいました。私は当時、誰とも会いたくなかったのですが、その時だけは不思議と戸をあけて、彼女たちを家に迎え入れました。神様が働いてくださったのだと思います。彼女たちは寝ている私の枕もとで賛美を歌ってくれました。その賛美の歌に心が明るくなり、目の前に光が射したのを覚えています。それからの私は、だんだんと聖書が読めるようになってゆきました。その時に、このローマ人への手紙9章19節~26節の聖句と出会ったのです。

 今は、こんなに辛い、苦しい。でも神様は23節に「ご自身の栄光の富を知らせようとされている」というのです。ここに希望が生まれました。

 しかし欠けの多い私が、憐みの器として整えられるためには、いったいどうすればいいのでしょうか?それは何よりも「まず自分自身が神の憐みを十分味わう」ことではないかと思います。もし憐れみ深い人になろうとして、自分の力で頑張って修行したとしても、やさしい人になるでしょうか。逆に人に厳しくなってしまう。わたしはあんなに自分に厳しく頑張った結果、憐れみ深い人になるどころか、倒れてしまいました。やさしい人になるどころか、怒りでいっぱいになり、最後は、神様を呪いたい思いにまで落ちてしまったのです。

 しかしそのとき、教会の方々は私のためにお祈りしてくださっていました。ある人は訪問して、玄関先で祈ってくれました。ある人は、玄関にそっと差し入れを置いておいてくれました。牧師は癒しのみ言葉の書かれた色紙を届けて祈ってくれました。夫は子どもたちを連れて教会に行ってくれました。まだクリスチャンではなかったのに・・です。

 そのように、自己中心であった私も、ようやく周りの人たちの愛と憐みに気づいていきました。神様は今までたくさんの憐みを、私に注いでくださっていたのが分ってきたのです。

 10年たったある日、夫が救われ、洗礼をうけました!そして私は癒され、献身の思いが与えられ、牧師になるために神学校に入学することができたのです!何という神様の恵み、神様の憐れみ!

 

 考えてみれば、教会にも弱さや欠けが多くあります。でも、それだからこそ、足りない者がそのままで受け入れられる場所なのだと思います。それがイエス様の憐みの満ちている教会だと思います。弱さをかかえたまま、礼拝できる共同体、それが教会です。

 弱さを持った、一人一人をつないでくださっているのは主イエス様です。ここにおられる一人一人のために、十字架で命を捨ててくださった御方のおられる場所、それが教会です。

 

 もし今、「わたしは神の怒りの器」ではないかと苦しんでいる方はいらっしゃいますでしょうか?あなたは神の愛の中に今、招かれています。神の憐みの器として受け入れられているのです。私も罪が多く、破れの多い者でしたが、主イエス・キリストが、私の罪の身代わりとなってくださり、罪が赦され、神様の愛の中で、憐みの器とされています。神様は私を献身者として召し出し、夫も家族も救われ、素晴らしい生涯を備えてくださいました。皆様の上にも同じように、神は素晴らしい生涯を備えておられます。感謝します!

 

祈りをささげます。