2021年10月24日(日)主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書7:13,14 説教者:深谷美歌子牧師
皆様が、一番信頼している方はどなたですか?それがどなたでも、信頼できる方があることは幸せです。あの人は裏切らないという方です。今日は、信頼を寄せて永遠に変わらず応えられる方を、ご紹介させていただきたいと思っています。
マタイによる福音書は、イエス様の弟子のマタイが記しました。
神様の祝福の外にあると思われていた取税人マタイが、イエス様が近づいて「わたしについてきなさい」との声をかけてくださり、真に生きる者になりました。それまで、ローマの税金をユダヤ人から集め、みなから盗人のように言われ、律法学者、パリサイ人からは神の祝福から漏れている者、とレッテルを貼られていました。お金はたくさんあったかもしれませんが、心からの喜びに満たされることがなく過ごしていたに違いありません。そのマタイに、イエス様が、愛と信頼の言葉をかけられたのでした。
イエス様と言う方は、わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。5:17と語られ、『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。5:43、44と、それまでの律法を昇華した人の有様を示しました。 だれも合格できない基準でした。でも、そのことを認めた者に「あなたの罪は私がすべて引き受ける。だからこれから私についてきなさい」と丸ごと愛して赦し「この命を伝えるものになりなさい」と、弟子達を召されたのでした。
マタイもその一人でした。彼は、生活を共にして知った事実。イエス様こそ、旧約から待ち望まれた救い主で、預言を成就された方でしたと書き残しました。
今日の個所の前の7章12節までは、主の基準の生き方が語られてきました。
13節からは、山上の説教の結びになっています。
3つのたとえで、決断を迫っています。
13,14節 門と道のたとえ。
15-23節 木が実によって見分けられること。
24―27節 嵐にあっても倒れない生き方のたとえ。
【今日の聖書箇所の概観】
13節a 狭い門から入りなさい。
13節b 滅びに至る門は大きく広い。
14節 命に至る門は狭く、道も細く見出す者が少ない。
1)狭い門から入りなさい。
13 狭い門からはいれ。 14 命にいたる門は狭く、その道は細い。13a,14a
イエス様は「狭い門からはいれ」と命じています。「あなたがたは地の塩、世の光」と語られましたが、この命を輝かせる為に、狭い門から入れと言われます。
隣人を自分のように愛せよ、これが出来ない者と認め、罪の存在である自分を認める。そんな自分を愛しきって十字架につき、「わたしのもとに来なさい」と言ってくださる主の元に行くこと、これが狭き門です。もう少し説明します。
ルカ13:24 に、そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。とあります。良いものだと認めて、狭い門を通ろうとしたら、いろいろなものを捨てなければ入れません。世の富、名誉、快楽、地位、といった、それまで自分を支えてきたものが、本当には自分を生かさなかったことを認める事です。マタイもお金はあったかもしれませんが、本当の意味で満たされず、希望のない日々でした。
自分はイエス様の言われるような命を生きることが出来ないものだと認めて、主の前に出る、それまでの生き方の自己否定、これが狭き門です。
パウロも 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。ピリ3:6、7と、それらをふん土と認めて、捨てました。
2)広い門・広い道はそこから入る者が多い。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 13節b
イエス様は、多くの人々は、多数の人が歩く道を行くと言っています。確かに、世間の人々が歩いている道の方が、普通で正しく感じます。赤信号みんなで渡れば怖くない。ということばもありますが、みんなが行く道こそ安心なのです。
それから、広い道は、誰でも通れる道です。努力しなくても、その道は普通の人の生き方です。 しかし主は、その道は「滅びに至る広い道」だといいます。
先に滝があるのに、船で遊んでいる子供たちの話を聞いたことがあります。
ナイアガラの滝のこと。
ナイアガラの滝の写真を見たことがあるでしょうか?なんと広い河が滝
となっていることでしょう。大きな川が流れていて、突然、滝となってもろともに落っこちることを知らなかったら、大変なことです。世の多くの人々が入って行く門、広い道は、皆が行っているから当然の道、と思って進んでいるかもしれませんが、その道は滅びに向かっている道なのだと主は言います。
滅び、と訳された言葉は「失われた」とか、「行方不明になった」とも訳すことができることばです。これは、将来だけでなく、現在も失われている状態ではないでしょうか?皆どうなるかわからないのです。
災害や、コロナ、家庭や職場の人間関係、健康不安、死、人との比較、国同士の対立など、希望が持てずにいる人々は大勢いるのではないでしょうか?
大きな門、広い道は、安全を保障することはできません。
3)見出すものは少ない
その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。14節b
今回、特に心に止まったのは、命に至る道は、立ち止まって、見出さなければ入れない門と道だということです。
このことを、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。と比べて見てみますと、広い道を行く人々には、見出すという言葉がないと言っている方があり、なるほどと気付かされました。
第2ポイントで「大きい門、広い道」について見ましたが、広い道は、努力して見つけるのではなく、生まれながらの、そのままの生き方で行ける道です。しかしその道は滅びに至る道なのです。
旧約にもエレミヤ21:8で、「あなたはまたこの民に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く』とあります。命の道は選び取るものと言われています。
ヨハネによる福音書では、イエス様はご自分が門であり、道であると語っています。10:9「 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」とか、14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない。」と、イエス様自身が、そこに入る門、道であり、導く者であると語られています.「ご自身が傷を受け、そこを歩もうとする者を打たれた傷によって癒しつつ、共に歩んでくださる」と説明している方があります。
多くの人は、神などいない、神が愛なら、なぜ戦争をやめさせないのかとか、クリスチャンの弱さを指摘して、あれでも神がいるのか等、言います。
それは自分の罪を認めようとしない姿です。神様を認めず、自己主張の罪が戦争を引き起こしていることを認めません。
人は立ち止まって、イエス様の至高の命の門、道を見つめましょう。
全ての人の罪を御自分のものとして、十字架の死を、身代わりとなってお受け
くださった方です。
血を流され、死を打ち破って復活し、多くの証人の前で召天し、聖霊を注いでくださった方をです。
見えない神様が、2000年前この世界に来てくださり、神の御臨在と、その方は愛そのものの方であることを現わして下さいました。
これまで、疑いもなく当たり前だと思って生きてこられた方も立ち止まって、
イエス様の地上での生涯を見つめ、残されたお言葉に耳を傾けてください。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない。」このお言葉は、イエス様が語られたお言葉ですが、当教会のⅯ兄弟が青年の時聞いて、「こんなことを言う人は、少しおかしい人か、神様でなければ言えない言葉だ。そしてキリスト教はこのことを伝えて2000年、多くの人が生かされてきた。」この事実を見つめ、イエス様を信じました。今もご聖霊様に祈りつつ、助けられて、神様を証言しておられます。
今日は河野紘子さんが証してくださいましたが、ご主人の介護を通して、今、共にいて、助けをお与えくださる神様を伝えたいと、シャイだったのに、勇気が与えられて、神様を指し示してくださいました。
先週は関戸神学生が、10年間という闘病の末、神様が待っていてくださったことに気がつき、癒されて、神様を伝える伝道に立ち上がっていることを見せていただきました。
イエス様を信じ、洗礼を受けることは、これまでの命から、生まれ変わることです。自分の罪を認めることは、狭い道です。その後も色々な試練はあります。
サタンは、何とかこの神の国を崩そうと、裁き合いの火の矢を放ったりします。
常に御言葉と祈りと聖霊様の導きと助けをいただき、命の道を歩み続けさせていただきましょう。 ハレルヤ!
祈り
多くの人は肉体の死が終わりだと信じて歩んでいますが、その先は滅びです。行方不明とも言えます。まずイエス様の備えられた狭い門を、立ち止まって、見出し、入ることができますように。この地上にある間は、戦いもありますが、
勝利を取られたイエス様を見あげ、罪の赦しと永遠の命を見上げ、喜び、感謝を捧げつつ証人として歩ませて下さい。 主の御名によって。 アーメン