成長感謝主日礼拝説教「わたしにつながっていなさい」ヨハネ15:1~11 深谷春男牧師

2021年11月14日(日)成長感謝主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:1~11                        
説教者:深谷春男牧師

 おはようございます!今日は、成長感謝礼拝という礼拝です。

 教会に与えられた赤ちゃんが、お父さんやお母さんの祈りと尊い御働きで、健やかに成長しているのを見るのは大変、うれしいことですね。わたしも子供が3人与えられ、孫も二人おりますが、おじいちゃんやおばあちゃんの気持ちがよくわかります。運動会で走る孫娘の姿や、縄跳びで70回ぐらい跳んだのを見ると「がんばれ~!」などと、声を出している時があります。今日は皆さんと共に、神の家族の中に与えられている若い魂のために共にお祈りしましょう。

 さて、先ほど、司会者によって読んでいただいた聖書個所は大変有名な箇所です。多くの教会の週報や月報に記される御言葉です。岡山聖心教会では礼拝の時の聖書朗読は毎週、この聖書箇所だったと聞いたことがあります。この聖書箇所は、そのような不思議な力を持っているのだと思います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」からはじまるこの聖書箇所は、とても優しくわたしたちの信仰生涯を教えていますね。

 わたしどもは毎週、礼拝のたびに、主にしっかりと結びつき、神様から豊かな信仰と愛の滋養分を頂き、豊かな実を結ぶ枝となりたいですね。

この間、早天祈祷会でこの聖書の箇所をお読みしましたら、同じ言葉がたくさん続くので、数えてみたら、(1~17節のまとまりの中で)、9回づつ用いられている言葉が3っつありました。

それは、「つながっていなさい」「豊かな実を結びます」「愛のうちを歩むのですよ」

と言う三つでした。

今日は、この三つの言葉を中心に、見てみたいと思います。 

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「主イエスはぶどうの木、わたしたちはその枝」という内容の主イエスのメッセージです。この箇所は以下のように、1-4節と、5-8節がほとんど同じ主題を繰り返しています。

1~4節 主がぶどうの木、実を結ばないものは剪定される、幹につながれ。

5~8節 主がぶどうの木、実を結ぶ枝と結ばない枝、幹につながれ。

9~11節 愛(父→イエス→弟子)

服従(弟子→イエス→父)

喜び(イエス=弟子)

12~15節 愛(教会員相互の愛。友のために命を捨てるほどの愛。)

16~17節 あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。

【メッセージのポイント】

1)、「わたしはまことのぶどうの木、

わたしの父は農夫である。」     (1節)

 ⇒ 主イエスこそ、まことのぶどうの木。

 まず、今朝、わたしどもに語られるメッセージは、「主イエスこそ、まことのぶどうの木」という内容です。神の豊かな滋養分と命の象徴であるぶどう。神の愛と命の源が、主イエスご自身なのである、と今日の聖書はわたしどもに語りかけています。

ヨハネ福音書には、「わたしは・・・である」と言う宣言が7回なされています。これは「エゴー・エイミ・・・」という形式で、イエスキリストこそが終末的な神から遣わされた救い主であることを示しています。その中での最後の、第7番目の主張がなされています。

「わたしは命のパンである」(6章)、

「わたしは世の光である」(8章)、

「わたしは羊の門である」(10章)

「わたしはよい羊飼いである」(10章)

「わたしは甦りであり、命である」(11章)、

「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章)

「わたしはまことのぶどうの木である」(15章)。

 上の表の中には10章と15章には、「良い」と「まことの」という言葉が加えられ、「排他的かつ挑戦的な主張がなされている」(シュルツ)と言われています。つまり、今朝、語られる「わたしはまことのぶどうの木」と言う言葉は、多くの「まことではないぶどうの木」があったことを予想させます。

 旧約聖書を読みますと、神の植えたぶどうの木は、わたしたちだという言葉がたくさん記されます。パレスチナはぶどうの産地であり、人々に親しみを持たれた植物でした。ですから旧約聖書にはイスラエルの民がぶどうの木であることを語る描写がたくさん出てきます(詩編80:8-15、イザヤ5:1-7、27:2-6、エレミヤ2:21、エゼキエル15:1-6、17:1-6,19:10-14、ホセア10:1など)。マカベヤ王朝の貨幣紋章はぶどうの木であり、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のぶどうの木であったと言われます。ぶどうの木はユダヤ民族の象徴だったのです。旧約の詩人は「 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。」(詩編80:9)と歌っています。しかし、ご存知のように、イスラエルは神に反抗し、悪い実を結ぶ「野ぶどう」となってしまいました。イスラエルは自分たちが神の選びの民であると言いつつ「偽りのぶどうの木」となってしまいました。

 現在、「まことのぶどうの木」、すなわち神の約束を真実に受け継ぐ者は、主イエスご自身であると聖書は宣言しているのです。そして、それは主イエスを幹とし、わたしたちが枝としてつながる教会の交わりをも指しています。

2)、5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。             (5節)

⇒ 主につながっておれば、実を豊かに結ぶようになる!        

 主イエスがぶどう木であり、主イエスにつながっていればその人は実を結ぶようになります。真実に主を礼拝し、魂のうちに聖霊をお迎えして神の民をして歩むことは豊かな祝福の実を結びます。御霊の実を結び、周りにも救われる方が起こり始めます。

 しかし、2節や5節では厳しい響きがありますね。「わたしはまことのぶどうの木」と語られた後に、このような厳しい警告があるのは、どうしたことなのでしょう。ある注解書には、ぶどうの木を栽培する時に、特に注意すべきことは剪定であり、念入りな整備であるとありました。ぶどうの剪定は結実時の終わりごろになされ、冬は幹とごく少数の枝のみになってしまうそうです。また、ぶどうの若木は植えられてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって命を蓄え、よき実を結ぶように準備されるのだそうです。

 この、ぶどうの木の話は主イエスの十字架にかかる寸前、最後の晩餐の時でした。主イエスは、イスカリオテのユダの裏切りと運命を嘆き、警告していると言う人もいます。せっかく主イエスに結びつき新しい命と祝福の中を歩み始めたのに、主を裏切り、命から脱落する者を主は嘆かれたのです。

 榊原康夫師の解説でも、ヨハネの福音書が書かれた歴史的状況についての説明があり、ヨハネ福音書は一世紀の末ごろに書かれた一番遅い福音書で、この頃には、教会は50年、あるいは60年の歴史があり、教会の中にも堕落した信徒が多く出てきたというのです。そして、神の民としての実質を保つためには厳しい警告を必要としたのだと言います。それから、榊原師は神学生時代のご自分の体験を書いておられます。母教会の長老宅に呼ばれ、ご馳走してくれるのかと思っていたら、「榊原さん、今のままではあなたは聖餐停止となりそうだ」と言われ、身を正したという証しです。彼は、この御自分の体験を反省しつつ「出来損ないのクリスチャンであってはいけない」と勧めています。主の剪定は時には厳しいこともありますが、豊かに実を結ぶためと心得て、主の僕として、へりくだり、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の実を結ぶように、祈りましょう。

3)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。        (9節)

⇒ わたしの愛のうちにいなさい。              

 ここでは、「わたしにつながっていなさい」と言う言葉が、繰り返し出てきます。この「つながって」と言う言葉は「メンノウ」というギリシャ語で「わたしの愛にとどまりなさい」の「とどまる」も同じ言葉です。主イエスにつながっていなさいと言われます。幹につながって、樹液を受け、その命と養分に与ることがないといつの間にか、枝は枯れてしまうのです。わたしどもはぶどうの枝といわれています。枝が幹から離れてしまえば、養分も行き渡りません。乾ききってついに枯れてしまうのです。もしもつながっていなければ自分で実を結ぶことができなくなってしまうのです。

 板橋で伝道牧会をされていた小沢一牧師は、開拓伝道の時に、教会学校の夏期学校で、一人の子供さんが水死するという事故にあいました。若い伝道者にとってそれは大きなショックとなりました。彼はある時にその時のことを証してくださいましたが、試練のただなかで祈っていると「わが愛におれ!」という主イエスの声が心に響いてきたと言うのです。小沢先生はこの言葉にすがるようにして、苦境を乗り越え、恵みの生涯を歩み続けました。

 

 皆さん。今日は、礼拝で、主は

「わたしにつながっていなさい」

「豊かな実を結ぶのですよ」

「豊かな実は、愛(アガペー)ですよ」

と語って下さいます。主はまことのぶどうの木です。主イエスとの霊的な交わりをしっかりと保ち、豊かに実を実らす生涯を歩んでゆきましょうね。今日、祝福を受けるお友達、いいですか。むのです。ハレルヤ!

【祈り】 天の父よ。今朝は、「成長感謝礼拝」を、心から感謝申し上げます。この礼拝で、「まことのぶどうの木」は、わたしたちの主イエス様であることを学ばせていただきました。どうぞ、真のぶどう木の幹である、主イエス様にしっかりつながって、その枝となり、実を豊かに結ぶものとしてください。時には厳しい訓練もありますが、主にあって成長し、あなたの愛のうちに留まる訓練を得ながら、立派に成長することができるように、主よ、導いてください。わたしたちの救い主、そしてわたしたちがつながるべき唯一の方、命と恵みの源である、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!