収穫感謝礼拝説教「ヨセフとイエス様」使徒行伝7:9~6深谷美歌子牧師

2021年11月21(日)収穫感謝礼拝
聖書箇所:使徒行伝7:9~6                       
説教者:深谷美歌子牧師

 まず収穫感謝礼拝について・・・。1620年メイフラワー号で米国に渡った。それは米国合衆国のインディアンに助けられた感謝の記念日でした。わたしたちも人生のすべてにおいて、感謝する心を忘れないようにしましょう。

 前回、わたしたちは、使徒行伝から学んだ時は、アブラハムが何もないところ、つまり神殿などまだない時代に、神様から呼びかけられて、その呼びかけの御言葉に従い、新しい人生へと立ち上がったことを、ステパノの説教から学びました。それは平坦な歩みではなく、多くの試練がありました。子孫を星のように増やすという約束は、100歳まで直系の子供が与えられなかったし、一時はその子さえ捧げよと言われたこと。土地の約束も、アブラハムの時代には与えられなかった。しかし、アブラハムは神様の約束を信じて生きた。これがわたしたちの信仰の父の生涯でした、とステパノは語ったのでした。

 前回から、ユダヤ人たちから、訴えられたステパノは、当時のユダヤの国会に当たる、サンヒドリンの議会に呼び出せれて、ユダヤの代表的な人々の前で、キリスト教会の代表として、主イエスから与えられた福音について弁明し、それがいかに、聖書的な内容であるかを、そこに臨んでいる人々に、歴史を追って堂々と語ったのでした。前回はアブラハム、今回はヨセフについてステパノが語った内容を共に読んでみたいと思います。

第一に弁明する内容は、神様はどのように臨んでこられたかについて。

第二に、モーセの律法に背いたと訴えられたことへの弁明。

第三に、聖所を冒涜したとされた訴えへの弁明です。

 【聖書箇所の概説】

  7章の内容を分けると下記の内容になります。

2-8節 先祖アブラハムが召命を受けた時代のこと。

9‐16節 エジブトに下った時代、ヨセフを神がどう生かし用いられたか。

17‐38節 モーセの召命とイスラエルへの神の言葉による導き。

39‐43節 イスラエルの不従順

44-50節 幕屋時代と神殿の建設

51-53節 ユダヤ人への攻撃

54―60節 ユダヤ人の石打ちによるステパノの殉教

今回の聖書箇所はヨセフの記事です。信仰者としてのヨセフに、神様がどう働か 

 れたかが記されています。イエス様の姿がダブって見える箇所です。  

【本日の個所の区分け】

9-10節 族長たちがヨセフを売ったが、ヨセフは神が共にいて、エジブトの宰相の任につけられたこと。

11-14節 飢饉が来て、一族がエジブトに招かれ、下ったこと。

15-16節 エジブトで一族は死んだが、約束の地シケムに遺体は葬られた。

 

【メッセージのポイント】

1)族長たちはヨセフねたみ。

9 族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。(9節a)

 今日の個所は、族長時代に入ります。ここでも神殿も律法もまだ出てきません。ヨセフは兄たち(つまり族長達)のねたみによって、エジブトに売られ、苦難を受けました。カルバンは、この行為は弟殺しだった。これにかかわった族長たちは、律法学者、パリサイ人達が先祖と誇る者たちであったと記しています。このヨセフの物語は、イエス様の生涯のひな型でした。イエス様は、神の力ある業、つまり、嵐を𠮟って静まらせたり、あらゆる病気を癒したり、何千人もの食事を与えたりしました。権威ある言葉 ―イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。(マタイ7:28、29)― をもってこの世界に臨まれました。が、律法学者パリサイ人たちは、メシヤと認めるどころか、ねたみに燃えて、死に追いやりました。

 ステパノもヨセフの物語を語りながら、私達の先祖は、このようなことをした者たちで、神の民と胸を張れるようなお互いではないし、あなた方も先祖と同じようにねたみによってイエス様を殺したと言いたかったのでしょう。

 現代に生きる私達も、この世の名誉や価値に捕われ、ねたみの思いに捕われると、ヨセフや、イエス様を死に追いやった、この世の勢力に巻き込まれます。選挙とか、大切なポジションを任された方が、汚職に手を染めるのは、この誘惑に負けたからでしょう。

 

2)信仰者、不信仰者の苦難の意味。

しかし、神は彼と共にいまして、10 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。11 時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。12 ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、13 二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。14 ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。                          

(9-14節)

 ヨセフの苦難の具体的な内容は、使徒行伝の個所では、省かれています。ヨセフが兄弟から売られてからのことは、創世記に記されています。奴隷として売られた身でありながら、彼のすることは全て祝されるので、主人は彼に家のことすべてを任せるほどに信頼されました。

 神様が共におられる恵みも経験しながらも、ポテパルの妻の姦淫の誘いに乗らなかったとき、これを逆手に取って、彼が乱暴しようとしたと訴えて濡れ衣を着せられ、投獄されました。

 獄の中でも他の囚人の世話をして、獄屋番の信頼を得ました。獄に入れられて来た王の給仕役の長の夢の解き明かしをヨセフがしてあげて、実現しました。給仕役に、その事がなった時は王に無実で投獄されていることを伝えて欲しいと頼んだのに給仕役は2年間も忘れてしまいました。理不尽と思われる苦難の時を送りました。

 しかし、何と主は、この忘却を、グットタイミングな時に思い出させました。王が不可解な夢を見、この夢を解く者を求めた時でした。思い出した給仕役によって召し出されたヨセフが、神様からの知恵によって解き明かした時、パロは、ヨセフをエジブトの宰相に任じました。兄たちに売られてから、これまでの期間は13年間です。誰が17歳の少年が、たった13年間で、当時の大国エジブトの宰相になると想像し得たでしょうか?これはエジブト王パロの前に、ヨセフを神様が恵みを与え、知恵を現させた結果でした。

 信仰者にも苦難があります。しばらくはその意味は解りません。歴史の主なる神様に従い続ける時、やがて意味が明かになるときが来ます。

 イエス様も地上を歩まれた時、罪は犯されませんでしたが、人間の受ける苦難、悲しみを全て経験しました。最後はねたみによる十字架の死でした。ゲッセマネの祈りで「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカ22:42)と祈り、十字架の死をお受けくださったとき、父なる神様は死者の中から引き揚げ、死を滅ぼして、天と地のすべての権能をイエス様に授けられました。

 もう一つ、人生には別の苦難があります。身から出た錆の苦難です。ヨセフの兄たちでした。飢饉はすべての人に臨みましたが、エジブトに穀物があることを聞いて、族長たちは出掛け、ヨセフに会いました。が、その時はヨセフと解りませんでした。ですが、末っ子のベニヤミンを連れてこなければ、シメオンは返さない。と難題をかけられた時、「この災いは自分たちの罪の結果だ」創世記42:21 と恐れました。自分達の罪の攻めは兄たちを苦しめました。が、その後兄たちが変えられていることを確かめたヨセフは、自分がこれまで受けた苦難は、神様が家族を救うための計画であったと悟りました。

 人生の苦難でそれが身から出たさびであったら、悔い改めて、イエス様に立ち帰る時、赦されます。

 ペンテコステの日、弟子たちに、聖霊様が来てくださったとき、弟子たちは大胆に あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。」と伝え、37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。と勧めました。

 その日悔い改めて信じた者は3000人にものぼりました。しかし、今ステパノを訴えている律法学者、パリサイ人達は、ねたみに燃えて真実を認めようとはしませんでした。

 ステパノは当時の神殿礼拝の形が整う前に、様々な有りようがあったことを語り、今まさに、イエス様が来られて新しい時代に入ったことを伝えています。

 

3)死んで約束の地に葬られた。

15 こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、16 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。(15,16節)

 ヨセフによって、ヤコブ一族は飢饉を免れて、エジブトに移住しました。生活するにはその時は十分な土地や、食料も与えられましたが、今日の個所では、死んだ族長たちは、エジブトではなく、約束の地に葬られたとあります。族長たちがシケムに葬られたという記録は、ヨセフが明記されているほかはありません。しかし、言い伝えではそうなっていたようです。ここで、ステパノはアブラハムが買った墓に葬られたと言っていますが、シケムを買ったのは、ヤコブでした。創世記33:19 ステパノの記憶違いでしょう。

 ここで言いたいことは、ヨセフが治めていたころは、ヤコブ達も裕福な生活が保障されていたにもかかわらず、身体は、その地に葬らないで、約束の地に葬ったということです。彼らも、やがて神様がアブラハム以来の約束された地が自分たちの地になることを、信じてそこに葬られることを願ったのでしょう。

 イエス様がもたらしてくださったのは、永遠の神の国です。パウロは、わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。・・そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。(Ⅱコリ 5:7)と言っています。神様の最終の約束の地は、永遠の神の国でした。ユダヤ人たちは地上の約束の地に固執していましたが、神様の御計画は、永遠の世界に導きいれるものでした。天国は、気休めにあると思っているところではありません。

  誰も想像もしなかった約束の地をイエス様はもたらしてくださったのです。今から始まる国でもあります。この嗣業を受け取ってそこに存在をかけて生きましょう。

 

祈り 父なる神様、ねたみは真理を見えなくします。ヨセフは信仰を持ちつつも、多くの苦難を経験しました。しかし、あなたの世界に生き続けて、家族を救うために通った道であったことを悟りました。今や永遠の神の国を頂いたものです。そこに生き続けさせてください。主の御名によってアーメン