新宿西教会礼拝説教「イザヤの見た幻」イザヤ6:1~8 深谷春男牧師

1月16日(日)主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ6:1~8                        
説教者:深谷春男牧師

今日の聖書箇所は、旧約最大の預言者といわれるイザヤの救いの体験と召命の記事です。ここには神の僕として召された人の最も典型的な例として多くの人々の読み継がれてまいりました。

【メッセージのポイント】

1)1 ウジヤ王の死んだ年、(1節)

⇒ 激動の時代

 まず、冒頭に「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(1節)と、記されます。 イザヤが預言者として主に召しだされた時代は紀元前740年前後のことでありました。それは激動の時代でした。ウジヤ王は名君でした。イスラエルの歴史の中では、政治的な安定と経済的な繁栄をもたらした信仰深い王です。しかし、その賢いウジヤ王が、その生涯の最後には高ぶって、祭司以外はしてはならない香を炊いて神に撃たれ、額に重い皮膚病が生じたと言われております。北にはアッスリア帝国が虎視眈々と狙っており、時代の黒雲が垂れ込め始める時代でありました。

 コロナの災禍や世界の温暖化、急速な情報化時代。現代は、ウジヤの時代以上に、激動の時代です。世界は烈しく移り変わり、今まで社会を支えてきた倫理や常識は力を失い、すべてのものが足元から崩壊してゆくような時代です。立っている根元を深く掘り、問題の所在を確かめて、神の前に立つ、しっかりした土台を持たねば、なぎ倒されてしまいます。

 

2)1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、3 互に呼びかわして言った。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。                       (1-4節)

 ⇒ 聖臨在に触れよ!               

 世界の真相は、表面的な政治や経済や文化活動の世界だけではありません。いやむしろ、歴史を越えた、歴史の主である神の御前に出ること、その聖なるお方の前で深く祈る、その祈りの世界から神のみ業は始まります。イザヤは貴族の家系に生まれたと言われます。彼は王のそば近くで、国の政治や経済や霊的状態の、時代の暗雲を覚えつつ、神の御前に深く祈った人物として描かれています。今日の聖書の描写は聖所の描写です。イザヤは聖所の奥深くで祈っていたのです。歴史を導く力は神の臨在の前に聖所で奥深く祈りにあります

 教会の牧師は神殿の奥深くでイザヤのように祈らねばなりません。教会のリーダーたちも同じです。青年会や壮年会や婦人会のリーダーたちも祈らねばなりません。初代教会のペンテコステ前の弟子たちのように、祈りのアッパルーム(二階座敷)に上がって神の御前に祈り、主の臨在に触れる霊的な深い経験が本当の確信と、平安へと人々を導くのです。

 わたしどもの教会も、多くの方々の祈りに支えられて、東京新宿歌舞伎町と言う、大変、有名な土地に建てられた教会です。教会の歴史を辿れば、1910年、明治43年、日本基督同胞教会の任命により大内文平牧師が、当時、大久保と呼ばれたこの地で開拓伝道を始めることになりまして探し当てたのが、現在の教会の職安通りの向かい側の家であったというのです。ゼロからの始まりでしたが、伝道も祝され、教会の方々の祈りと捧げ物の中で、柳田文吾牧師のもとで、1923年(大正12年)に新会堂が立ち上がりました。そのためには、多くの兄弟姉妹が、近くの戸山で徹夜祈祷会をした、などという記録も「創立50周年記念誌」にも載っています。そして、太平洋戦争ですべてが消失。そして、1955年3月13日の午後、教会設立式と岡田實牧師の就任式を持って現在の地に教会が設立され、紆余曲折を経て現在に至っております。

 そもそも教会という存在は、神様の救いと愛と経綸の深い恵みの世界を伝えるものとして、主が特別に選ばれた民なのです。それは神の聖臨在に触れ、神の救いの計画を知るところからしか始まりません。新宿西教会は、木曜日の祈り会や早天祈祷会で心を一つにして祈っている教会です。人は祈りの中で主の聖臨在に触れ、信仰を整えることになります。

 

3)5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。    (5節)

   ⇒ 認罪

 神の聖なる臨在に触れるときに起こる業はまず、認罪の感覚でした。イザヤは自分は滅びると思ったのです。自分の罪、自分の民の罪の大きさに圧倒されて、穢れた自分が、聖なる神の姿を見たがゆえに、滅びる以外にないと思ったのでした。

 この認罪の意識がとても大事なものだと思います。聖なる神によって創造されたにもかかわらず、そして、神の聖なるがゆえにあなた方も聖なる者であれと言われつつも、なんと自己中心で神の恵みの満ち溢れる喜びの世界とは程遠い自分自身の現実。また神の民の愚かな霊的状態。預言者は自分が滅ぶべき存在であると感じたのです。

 ペテロも、ルカ5章にあるように、主イエスの聖なる方であると分り、まず言ったことは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」という言葉でした。

 聖なるものに触れた時に、自分の罪と愚かさを感じるのです。それは新約聖書では実に十字架の前に立つ罪びとの姿となって自分自身を見つめることになるのです。決定的な破れの認識が聖書の示す新生の備えなのです。

以前、友人の家での救いの体験を話したときに、わたしが罪の悔い改めをして涙と鼻水で床がびしょびしょになった時に、わたしの友人がその床を拭いてくれたというのです。「深谷、お前の鼻と涙を俺が拭いたんだぞ!」と彼が笑いながら言いました。聞いていた中学時代の恩師が「それはすばらしい友情の証しだ!」と感想を漏らしました。本当にそうだ!と思いました。

 

4)6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。   (6-7節)

  ⇒ 罪の赦しと潔め                 

 ここには罪の赦しと潔めの業があります。セラフィムは神に仕える天的な存

在です。彼が燃える炭火を祭壇の御許から取ってきて預言者の唇に触れました。この火が触れたがゆえに「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言がなされました。これは十字架の贖罪と聖霊の火のバプテスマを象徴するような出来事でした。イザヤの罪は赦され、きよめられます。

 わたしどもの生涯にもさまざまな霊的な体験がありますが、その中で最も大切なのが罪の赦しと潔めという体験です。

 

5)8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。  (8節)

   ⇒ 献身と派遣 

 預言者はまず、自らが神の御前にて、罪の赦しと潔めを経験し、内側に深い感謝と喜びがありました。そして彼は「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という神ご自身の声を聞きます。イザヤは言います。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

 派遣は神の栄光を帯びた、救済の託宣です。 今日も御声が響いています。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と。イザヤのように「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と主の招きに応じたいと思います。

 

6)13 その中に十分の一の残る者があっても、

これもまた焼き滅ぼされる。

テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、

その切り株が残るように」。

聖なる種族はその切り株である。        (13節)

  ⇒ 残りの者

 13節に、「残る者」という言葉が記されます。この「残りの者」との思想には、深い教えが隠されています。イザヤの時代に、イザヤは、自分の民、ユダヤの人々に語ります。しかし、民はその御声に従いません。預言者の言葉は受け入れられず、捨てられます。そして、反逆の民は破局に直面します。伐採されたテレビンの木のように切り倒されます。しかし、神は特別に、神に忠実な「残りの民」を導き、神のみ旨を実現します。神の民の破局を越えて、切り倒された後に残された切り株のように、そこから萌え出る新しい「ひこばえ」のように、イザヤと共に神に従う人々の姿がここにあります。それはイザヤの弟子グループですが、やがて「教会」と言う信仰共同体を指すことになります。

 

 預言者「イザヤの見た幻」を、学んでまいりました。イザヤのように破れと罪と穢れに染んだわたしどもですが 、十字架の罪の贖いと聖霊の火のバプテスマを受けて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えてゆきたく思います。主よ、わたしをあなたの証し人として用いて下さい。ある者は伝道者に、ある者は牧師に、宣教師に献身します。しかし、直接の献身者でなくとも、すべての人が、主の証し人として召されています。ハレルヤ。 

 

【祈祷】  天の父なる神様。今日ははや、2022年の1月第3の主日礼拝となりました。この新しい年、わたしどもは、「主にとって不可能なことがありましょうか」との神様の全能を信じて、出発しました。わたしたちの生涯に、人生の一番基本となるあなたとの出会いを経験させてください。そして、イザヤのように、アブラハムのように、またパウロのようにあなたと出会って、自分自身の破れと愚かさを知り、十字架を見上げて、明確な罪の贖いと永遠の命の恵みに与る者へと導いてください。そしてその救いの体験が、多くの人々の救いのために用いられるために己を捧げる恵みの時としてくださいますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン