新宿西教会礼拝説教「人間の罪」その1偶像礼拝 ロマ1:19~23 深谷春男牧師

1月23日(日)主日礼拝説教
聖書箇所:ロマ1:19~23                        
説教者:深谷春男牧師

赤羽教会の牧師をしておられた高山慶喜先生が説教の時に「この偶像国日本にー、ただ一人の神があがめられるためにー!」といつも語って、説教を締めくくったことを思い起こします。高山先生には、独特なことばの抑揚があり、印象深いものでした。 

【 聖書箇所の概略と構造】 さて、久しぶりにローマ人への手紙の講解に,戻ってきました。第一章は、以下のような構造になっています。 

 1‐ 7節  手紙の序文1……・自己紹介と福音紹介

 8‐17節  手紙の序文2……・ローマ訪問計画・16,17主題への導入

18‐32節  本題に入る…………神の怒りの啓示・罪の指摘。

  今回は、19-23節を通して、「偶像礼拝の罪」ということを学びます。18節から、いよいよ、パウロは本題に入りました。内村鑑三はロマ書を大伽藍に喩えましたが、ここから、大聖堂3棟のはじめに入ったことになります。更に詳細に分類すると以下のよう。(内村鑑三による)

第1段(19-23節)   悟性の乱れ(偶像崇拝・霊的な混乱)

第2段(24-27節)  情性の乱れ(汚れ・特に性の問題)

第3段(28-32節)  意思の乱れ(不義・ゆがんだ心と悪徳)

 

【メッセージのポイント】

1)19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。        (19,20節)

⇒ 全宇宙は神の御手のわざである!

 パウロは更にここでは、被造物には神の世界創造の御手の業を見ることが出来るのだと記しています。被造物は「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、明らかに認められる」と語られ、わたしたちは、自然界において神の栄光を見うるのだといいます。そして、そこから偶像礼拝の罪についての糾弾を始めてゆきます。ここはなかなか、問題の多いところです。すなわち「一般啓示」と「特殊啓示」という内容や、「自然神学」と「恩寵神学」というような問題がそこにあり、バルトとブルンナーの神学論争などは、とても興味のあるものです。

しかし、旧約聖書の詩篇8篇や、19篇、また29篇や104篇などに代表されるように、聖書はわたしどもが主の助けを受けて、大自然を見る時に、この世界は神の永遠の力と神性とは、明らかなのだと語ります。

また、詩篇65篇などは、三部分に分かれており、魂の救い、人間歴史の救済、被造物全体の救済と言う、壮大な神の創造と救済への啓示の姿が描かれています

2)21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。        (21節)

  ⇒ 神を礼拝せよ!心を空虚なもの、鈍く暗くするな。

パウロは、人間は、本質的には神を知っていると語っています。20節でも「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」と語られ、わたしたちは、自然界に神の栄光を見うるのだといいます。

そして、問題はむしろ、「神としてあがめることも感謝することをせず」という言葉にあります。「あがめる(エドークササン=栄光を輝かす、栄光を帰す)」ということは、本来、神に栄光を帰すこと、「感謝する(エウカリステーサン)」ということは、神に対する賛美と感謝、その御前に心を低くして、礼拝をささげることを意味しています。わたしたちは神様を知ることは、神様を礼拝すべきお方として知るのです。世界の創造者であるお方を知り、救い主としてわたしどものために、独り子を給う愛のお方として知り、神様に感謝を献げることは大切なのです。礼拝を忘れて、自己中心に陥るとき、人間は傲慢になり、「むなしい思いにふけり」、その「心は暗くなり」、「鈍く」なってゆく、とパウロは語っています。

3)、22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、 (22節)

⇒ 自分は賢いと吹聴し、愚かになるな!

「自らは知者(ソフォイ=賢い)と称する」人のことをパウロは語ります。「知恵(ソフィア)」は、異邦人の代表といわれるギリシャ人の求めた最高の徳の一つでした。「ギリシャ人はその知恵のゆえに、自分たちは小さな神々であると考える者もいた」(松木治三郎)とも言われます。

確かに人間の知恵はすばらしいと感じることも多くあります。コンピューターや人工衛星を作り、宇宙のかなたまで、わたしたちは行くことができます。また、極微の世界の驚くべき世界をわたしたちは知ることができるようになりました。これは人間の科学力、知恵の結果です。

しかし、パウロは言います。「自分では知恵があると自称しながら、愚かになった」と。自分が賢いと言って高ぶり、自分が地上で一番偉いかのように錯覚し、自分が弱い愚かな被造物であることを忘れてしまうとき、実は、もっとも愚かになると言うのです。

ある伝道会の証しで、立派な大学教授のおうちで、お嬢さんが救われました。そして奥様が救われました。「うちで礼拝に行かず、ご飯の前にお祈りしないのは、ポチとお父様だけですね」と冗談で言われ、このご主人も教会につながるようになったと言います。相対的な優秀さで高ぶり、愚か者にならないようにとこの聖句は戒めています。相対的な価値に心奪われ、惨めな人生を送った者の代表に、アヒトペル(サムエル記下17:23)やアブサロム(サムエル記下18:9)がいます。

 

4)23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。             (23節)

⇒ 不滅の神の栄光を、滅びる被造物と取り替えるな!

 パウロは更にここで決定的な事を語ります。

人間の愚かさは、神の栄光を「取り替えてしまったこと」にあると言うのです。この「取り替える(エーラクサン=変える、取り替える」は、創造者の栄光と被造物の像とを取り替えてしまったことを意味しています。つまり、偶像礼拝の愚かさを語っているのです。パウロはここで詩篇106:19、20を引用しています。

 19 彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。

 20 彼らは神の栄光を/草を食う牛の像と取り替えた。

「自分たちの栄光(なるお方)を牛の像」と「取り替えた」のでした。これは出エジプト32:1-6の「金の子牛」礼拝を語っています。彼らはそこで、金の子牛を礼拝し、「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(6節)。偶像礼拝には、やがて混乱と淫蕩とがあります。

これらの描写の中にパウロが生きた時代の異邦社会の霊的な状態をよく言い表しております。「人々は神を知りつつ、神を知らない、偶像社会であった」(松木)。そこでは神が人間を創るのではなくて、人間が神を造る。そして、十戒の第1、2戒に言われている、「偶像礼拝の罪」があらわにされたのでした。ここに人間の根本的な罪があります。

聖書は、偶像礼拝は「霊的な姦淫」であると告げて、その罪の大きさを警告しています。改めて聖書を開いて見ると、聖書の偶像礼拝への戒めは、聖書全体に及びますね。

創世記1章1節「はじめに神は天と地とを創造された。」

出エジプト記 20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

 20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である・・・

申命記6:4 イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。  

列王記上12:29~31。ベテルとダンに「金の子牛を造った」

エレミヤ2:13 「それは、わたしの民が/二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。

イザヤ46:9 いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。

わたしは神である、わたしのほかに神はない。

わたしは神である、わたしと等しい者はない。

使徒行伝17:16 パウロはギリシャのアテネに偶像が多く、憤慨した。

「仮に今日、彼(パウロ)をして日本にあらしめんか、必ず現代社会の底知れぬ腐敗と不義との原因を、わが民族の偶像尊信に置くであろう。そしていかなる抗議に対しても耳を借さぬであろう。」(内村ロマ書)

 

 わたしどもは主イエスの救いの福音を受けるに当たり、まず、人間の罪を深く認識しなければなりません。パウロ先生によれば、わたしどもは人間の罪の第一は「偶像礼拝」です。偶像礼拝を捨てて、まことの神に立ち返り、神に栄光を帰し、へりくだって主の救いの証し人とならねばなりません。日々、主を礼拝しつつ歩みましょう。ハレルヤ!

【祈祷】 天の父なる御神よ。今日はロマ書1:19~23から人間の罪を学ばせていただきました。罪の第1は「偶像礼拝」である事を改めて示されました。わたしどもは,「偶像を捨てて」、「まことの神」に立ち返り、主イエスの十字架の贖いを信じて「義とせられ」「永遠の命」の中を歩みます。全能の主よ、日本も世界もオミクロン株や多くの災害から守り助け給え。主の御名によって祈ります。アーメン