新宿西教会主日礼拝説教「ステパノ、モーセを語る」 使徒7:17~37 深谷美歌子牧師

1月30日(日)主日礼拝説教
聖書箇所:使徒行伝7:17~37                        
説教者:深谷美歌子牧師

 弟子達の第2世代のステパノが執事として選ばれた後、目覚ましい働きが

展開されました。律法に固着し、エルサレムこそ神の選ばれた臨在の場と、エルサレムに帰還してまでそこで生きていた、ヘレ二ストユダヤ人たちは、ステパノの語る「イエスキリストこそ、神が遣わしたメシヤで、今や信じる者は誰でもどこでも救われる」との福音は受け入れがたいものでした。

それで、ステパノを捕え、訴えたのでした。

 7章はステパノの弁明です。訴えられていることは「この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。あのナザレのイエスはこの場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。」と言っている。というものでした。その指摘は誤解であることをステファノは諄々と語っていきます。 

ここを矢内原忠雄師も「増長な文と思っていたことを告白する。」と言っています。私も、いつもここを読むたびに、「みんな知っていることを、いちいち言わずとも」と飛ばして読んでいました。でもここを詳しく学べば、学ぶほど、一つ一つに意味があり、しっかり聞き取れば、イエス様こそ神様の遣わしたメシヤ(救い主)だったことを納得できる、深い意味あるものだと教えられました。それを見てまいりましょう。

【聖書箇所の概説】

7章を分けると下記の内容になります。

2-8節 アブラハムの召命

9‐16節 エジブトに下ったヨセフの時代

17‐37節 モーセの召命とイスラエルの救い

38‐43節 イスラエルの不従順

44-50節 幕屋と神殿の意味

51-53節 ユダヤ人への糾弾

54-60節 ステパノの殉教、サウロの登場

今日の学ぶ箇所はアブラハムに神様の約束したことが実現する日が近づいた時のことで、モーセが登場します。モーセを二回に分けで学びます。

【メッセージのポイント】

1)神様の約束の実現の時がくる。

  神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。                17

 ステパノはまず、サンヒドリンの議会の議員にとっても、ステパノにも共通の父であるアブラハムのことから話し始めたとこれまで見てきました。

 神様の顕現は、異郷の地で、神殿ではなかったこと、約束の地に住んだが、まだ一歩の幅の土地も与えられなかったこと。が、奴隷として400年経た後、この地に連れ帰り、礼拝を捧げるようになるとの約束が与えられたことでした。

 それがモーセの時に現実となったとステパノは語っています。

 今ステパノはモーセの時を語りながら、アブラハムへの最終的な祝福の約束は、あなたの子孫は敵の門を打ち取り、18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。(創22:17,18の、この約束の時が、イエスキリストの到来によって成就したと言いたいのです。イスラエル人たちに、『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』37節とモーセが語ったこの預言者こそ、イエス様だったと、ステパノも、ペテロも同じモーセの言葉を引用しています。

イエス様の到来こそ、神様の約束の、もろもろの国民を祝福する子孫でした。

マタイによる福音書の最初に、アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの系図と出ています。実にアブラハムへの約束から約2000年後でした。

2000年前、確かにイエス様はこの世界に来られました。神様の歴史介入は、一人の人間の人生では見る事ができないスパンで、しかし確かに成就しました。

ここでちょっと寄り道します。イエス様は「再びこの世界に来る。」と語られました。マタイを学んでいると。天国のメッセージがたくさんです。イエス様は、新しい国をもたらすために来られました。今はそれを受ける事の出来る恵みの時です。しかし、締め切りがあります。その日が近づくと自然界に異変が起こり、戦争や、疫病、人の愛が冷えるなど、語られています。この頃のニュースで、人類の残された時間は人類の歴史を時計で現すと、あと、100秒です。とNHKで報道されてびっくりしました。聖書ならぬ一般の世界で、終わりが近いと報道しています。目を覚ましていましょう。

 

2)モーセはイエス様の雛型。やがて来るメシヤを指し示す者。

モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。(3:22)

3:22はペテロが語ったのですが、ステパノもペテロも、モーセが、神が立てると言った預言者こそイエス様だということを、モーセとイエス様の姿を重ね合わせながら伝えています。

*この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。 19節

モーセが生まれた時、エジブト王パロの命令で、幼子を殺させました。モーセはナイル川に捨てられた時、エジブト王の娘に拾われて生き延びました。

イエス様が幼い時、ヘロデ王によって、2歳以下の子供が殺されました。夢でヨセフに知らされて、幼いイエス様はエジブトに逃れ殺されませんでした。 

* 四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。23節

 モーセは、神様のご計画で、この時代に生まれた、ということを自覚していました。たぶん、拾われた時、姉のミリアムの気転で、実の母に育てられたモーセは、自分の出生の秘密を聞かされていたでしょう。40歳になった時、王子の位を捨てて、立ち上がったモーセでした。

このことは、イエス様が神の座を離れて、人となり、この世界を救うために立ち上がってくださった姿と重なります。

*さあ、今あなたをエジプトにつかわそう』。35 こうして、『だれが、君を支配者や裁判人にしたのか』と言って排斥されたこのモーセを、神は、柴の中で彼に現れた御使の手によって、支配者、解放者として、おつかわしになったのである。   34-35節

すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。マルコ9:7

モーセを信任して、イスラエル民を救い出したように、イエス様も父なる神様から信任されたメシヤ(救い主)でした。しかも、モーセが排斥されたように、イエス様もユダヤ人から排斥され、十字架にかけられました。しかし、神様の方法はその上をいくもので、それによって全人類の罪を贖い、天国の命を到来させ、信ずる者を天国に入れてくださる導き手として立てられました。

*この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである。37節

モーセの奇跡は、神様が導かれたものでした。エジブトにおける10の禍も、紅海徒渉も、マナも、ウズラも、岩からの水もでした。モーセは神から遣わされた者としてのしるしとしてこのことをし、約束の地に導きました。

 イエス様は、公生涯に立たれた時、あらゆる病をいやし、風も波も静めました。5つのパンと二匹の魚で、5千人も満腹にさせました。死んだラザロをも生き返らせました。バプテスマのヨハネが牢獄から弟子を遣わして。来るべき方はあなたですか?と聞かせた時、この様子を話してあげなさいと言いました。神からのメシヤのしるしでした。

 以上のようにステパノの話を素直に聞いたら、確かにモーセにまさる神様

からの信任された救い主と納得できたはずでした。

3)聖なる地はどこ?

29 モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけた。30 四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。31 彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、32 『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』。モーセは恐れおののいて、もうそれを見る勇気もなくなった。33 すると、主が彼に言われた、『あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である。                29―33節

モーセはエジブトで同胞から排斥された時、荒野に逃げて行きました。そこは約束の地では無く、ミデアンの地でした。そこで、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブの神と、先祖の神であると名乗ってモーセに語りかけられました。

 このことは、聖なる神殿こそ、神の臨在の場である。と主張したリベルテンの人々が訴えたことに対しての答えでした。

モーセが神様に出会ったのは、約束の地でもなく、神殿などもない、荒野でした。しかし、そこは神様が臨在を現してくださった場所で、「聖なる地である。」と語りかけられたのでした。モーセの慣例を変えるというが、そのモーセこそ、約束の地でもなく、神殿もないところで、神に出会い、召命を受け、立ち上がったのです、と訴えています。

先週は北支区の教師会がリモートで行われました。講演内容は、コロナ禍で、教会のありようが問われている。リモート礼拝者は、礼拝人数に入れてよいのか?(当教会は入れています)本来礼拝とは、捧げるもので、献金などもアイロンをかけて準備したという時代があったと語られました。(ちなみに私は今でもアイロンをかけています)そして聖餐式のありよう、讃美の仕方など投げかけられました。

次の日に電話で話した牧師が、(講演とは関係ない牧師でしたが)「聖日礼拝というのは、朝から備えるものですよね。朝起きた時から、心を礼拝に向けて静め、そこに向かうものですよね」と語られました。ははーと言う思いでした。リモートにせよ、会堂礼拝にせよ、御臨在くださる、聖なる神様の前に出て、足から靴を脱ぐ礼拝を捧げましょう。

祈り

神様、モーセは神様に出会い、自分を捧げました。そして、やがて来る完全な救い主を指し示しました。ステパノはそのモーセを語りながら、型にとらわれて、イエス様がもたらした、新しい天国の命を受け入れることができない人々に、一生懸命伝えました。私達も旧約が指し示して来られたイエス様を知り、イエス様から頂いた新しい命を、必要な時語ってあげられる者としてください。