新宿西教会主日礼拝説教「荒野で神の言葉で生きる」使徒行伝7:38~43 深谷美歌子牧師

2月27日(日)主日礼拝説教「荒野で神の言葉で生きる」

聖書箇所:使徒行伝7:38~43 

説教者:深谷美歌子牧師

毎日のニュースを聞くと、荒野のように感じますね。戦争、コロナ、異常気象、飢餓、搾取、この中で、生かされますように。

今日の聖書個所は、ステパノの弁明の続きです。今回もモーセとイエス様の対象と、先祖が荒野でどのようにふるまったかを語りながら、今、サンヒドリンの皆さんも同じ轍(てつ)を踏んでいますよ、偶像と思っていないけれど、神殿が神のいます所、神様が立てた、神の言葉を伝えたモーセに逆らったように、究極のメシヤ(救い主)を拒んだと語っていきます。

38‐43節 イスラエルの不従順

44-50節 幕屋と神殿の意味

51-53節 ユダヤ人への糾弾

54-60節 ステパノの殉教、

サウロの登場

【聖書箇所の概説】

7章を分けると下記の内容になります。

2-8節 アブラハムの召命

9‐16節 エジブトに下ったヨセフの時代

17‐37節 モーセの召命とイスラエルの救い

本日の区分け

38節  モーセは、生ける神の言葉を授かり、民に伝えた。

39-41節 民はモーセに背き、子牛を造らせ、うち興じた。

42-43節 その後の時代も偶像に仕え、神は顔を背けバビロン捕囚となった。 

 

【メッセージのポイント】

  • 神が立てた、み言葉の伝達者モーセとイエス様。

この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にい

て、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。           38

ステパノは、モーセが、『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』37節と語ったこの預言者こそイエス様だったと、前回の所で語りました。

イエス様こそ、モーセが指し示していた究極のメシヤでした、モーセが神の言葉を授かり、民に伝えたように、イエス様こそ究極の神の言葉を伝えた方でしたとステパノは語っています。

マタイによる福音書にイエス様が神様から信任を授けられた時のことが書かれています。マタイ 3:13 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。14 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。15 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。この出来事は多くの人々の目の前でおこったできごとでした。もちろん律法学者、パリサイ人も群衆の中にいたのです。その聖句は7節にあります。

マタイ 3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、・・大勢集まっていたと書いてあります。この天からの声を彼らも聞いていたのです。

 モーセが神様に立てられ、神からのしるしを行いながら、神の言葉を伝える者であったように、イエス様こそ、神様が遣わし、神の言葉を伝える方と認め、聞き従うのが本当でしたよ、とステパノは語ったのでした。

 この福音は、それまでの世界では思い及ばない、永遠の救いの言葉でした。この福音は、現代にも語られ続けている命の言葉です。2000年間の、多くの証人の証言と共に、あなたはこの方をメシヤと信じますか?と問われています。

 

2) 彼を退け、心の中でエジプトにあこがれ

39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。                    39-41節

イスラエルの民は、モーセがシナイ山から、神の言葉、特に「十戒」をいただいて降りてくるまで待てなくて、アロンに「導いてくれる神を造るように要求」して子牛を作りました。 この子牛は、偶像のつもりはなかったと、ここを説明している多くの方が書いています。今まで導いてきたモーセがどうなったかわからない。見えない神の、見えるしるしが欲しかったというのです。

 それともう一つの、理由は、心の中でエジブトにあこがれ、(直訳「こころの中で振り向き」)とあります。あれほど奴隷で苦しかったエジブトなのに。なぜあこがれたのでしょう?この時のできごとが出エジブト記にあります。

出 16:3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。 出エジプトの先は、即、約束の乳と蜜の滴る地ではなかったのでした。奴隷は自由がなく、ムチ打たれ、死ぬまで働かされたことを忘れ、飽きるほどパンを食べていたと、肉欲の世界のエジブトを振り向いた結果でした。肉の欲に惹かれて奴隷に舞い戻ろうとしたのでした。

  • 神は顔をそむけ、任せられた。

42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。

43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。  42-43節

 42節以下はその後のイスラエルの歴史を、ひとまとめにしてステパノは言っています。アモスの5章25節 以下「イスラエルの家よ、あなたがたは四十年の間、荒野でわたしに犠牲と供え物をささげたか。 26 かえってあなたがたの王シクテをにない、あなたがたが自分で作ったあなたがたの偶像、星の神、キウンをになった。 27 それゆえわたしはあなたがたをダマスコのかなたに捕え移す」と、その名を万軍の神ととなえられる主は言われる。の言葉が引用されています。少し表現が違うのは、ステパノが当時訳されたギリシャ語訳を使っているからですが、特に違っているのは、ダマスコのかなたとあるのを、バビロンのかなたと言っているところです。これは北イスラエルがまず捕囚になった後136年後にバビロン捕囚になってユダも滅びたことを、まとめて言ってしまったと思われます。

 2週間前に深谷牧師が「まかせられた」というメッセージを取り次いでくださいました。その時は、偶像礼拝は一番の罪で、いくらそこに行くな、滅びだぞと、伝えても、伝えても立ち帰らない民に対して、行くに「まかせられた」それが裁きになっていたのですと語られました。

 それと同じことがここでも語られています。唯一の生ける神に導かれたにもかかわらず、見える像をつくり、それに打ち興じていた民に、ついに神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。のでした。その結果がバビロン捕囚でした。彼らが作り担いだ神は彼らを助けませんでした。

 罪の結果は自分たちが刈り取ったのでした。

☆荒野で神の言葉で生きる

モーセは、荒野で神様から召命の言葉をかけられました。しり込みするモーセに、「私自身が一緒に行く」と告げる神の言葉で立ち上がりました。

神様は、モーセを通して数々の奇跡を行いました。イスラエル民は、そのしるしを見てモーセを信じました。神の言葉に信頼した結果でした。

エジブトの奴隷から、なかなか解放しないパロに対しても、神様の導きで、数々の奇跡を行いました。その結果、意気揚々とエジブトの地を出ることができたイスラエルの民でした。民は、モーセを通して語られる神の言葉に信頼して、生き続けるはずでした。

ところが意気揚々と出てきたそこは荒野でした。―しかし、約束の地は、最初に斥候が探りに行った時は、それほど経ってはいなかったのです。その時ヨシュアとカレブは、神様が与えてくださると言われたのだから、きっと与えられると言ったのですが、2人以外の斥候達は「あの地はアマレク(巨人)の子孫が住んでいて我々はイナゴのように見えたに違いない」と報告し、それを聞いた民は、モーセ以外の指導者を立てて、エジブトに帰ろうとしたのでした。―神様はこの民を、40年間の荒野の旅に導きました。それでも、モーセにつぶやきつつも、マナを毎日頂き、水を湧き出して頂き、うずらを降らせていただいて、40年間生かされました。見えない神様の言葉を伝えるモーセに導かれたのでした。にもかかわらず、約束の地に入ってからも、自分達で作った偶像に頼って生き、とうとうバビロン捕囚となりました。見えない神様に信頼し続けられなかった結果でした。

モーセ以上の神の救いの言葉を持つ方として、イエス様は来られました。先ずは、「 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」マタイ11:28この言葉を信じましょう。その後は、毎日の命も、神様の言葉に信頼して、「信じます。そこに居らせてください」と求め、「神の現実」藤井圭子著、を味わう生活をいただきましょう。

 先週は、ケズイック・コンベンションで、ジョナサン・ラム師から、この不安の時代に、信仰者は神のみ言葉に信頼し、祈るのが、変わらぬ平安の生き方ですと語られました。つい見えるところに頼り安い私達ではないでしょうか?神様の言葉に信頼しましょう。世界の出来事についても全能の神様に祈りましょう。「思い煩うな」との御言葉に全幅の信頼を寄せ、祈るとき平安がきます。先生は日常の小さい事も全てと語られました。わたしも心配性で、その上思い出せなかったり、置き忘れたりの日常です。その度に、「そうだ私の名によって求めなさいでした。神様すみませんが・・・」とお祈りしては助けられる毎日なので、「そうですね!」と同感でした。み言葉にこそ信頼しましょう。

(祈り)イスラエル民は、奴隷から解放された後もモーセを通して、神の言葉に生かされました。現代はイエス様の救いの言葉にまず生かされ、その後もずっと御言葉をこそ信頼し、生きる者としてください。御名によって。