新宿西教会主日礼拝説教「砕かれた、悔いた心」詩篇51篇 深谷春男牧師

3月6日(日)主日礼拝説教「砕かれた、悔いた心」

          ーまことの礼拝をもとめてー

聖書箇所:詩篇51篇 

説教者:深谷春男牧師

  以前、この詩篇51篇を学んだ時、1つ前の詩篇50篇の結論は「告白をいけにえとしてささげる人は、わたしを栄光に輝かす。」(23節 新共同訳)というものに驚きました。まことの礼拝は動物犠牲を献げるのではなく、「告白をいけにえとして捧げること」であると学びました。「信仰告白」とは、神様を仰ぎ、自分が罪人と認めて、罪の赦しと潔めを得、聖霊による刷新を受けて、神の前に、「砕かれた、悔いた魂で、真の礼拝すること」と学び、そしてその代表として詩篇51篇が語られることとなるのです。 

【詩篇第51篇の概略と区分 】

 今日は、教会暦では「受難節(レント)」と呼ばれる40日間の、第一主日礼拝です。主イエスの十字架とそのご苦難をおぼえ、復活とその勝利の御業を深く覚えるこの40日の最初の主日に、詩篇51篇を読むことができるのは、すばらしいことです。

 本詩は「7つの悔い改めの詩篇(6、32、38、51、102、130、143篇)」の第4番目の詩で、詩篇の中でも最も有名な詩篇です。特に3―4節は「罪と赦しに関わるヘブライ語彙の宝庫」(シュツールミュラー)とも言われ、ロマ書等と深い関係のある詩篇です。全体の区分は以下のようです。

表題:ダビデがバテ・セバと通じ、預言者ナタンが来た時に。

1― 2節  導入:神の憐れみと罪の清めを求める。

3― 6節  罪の告白:わたしの罪は常にわが前に。母の胎内から罪に染む。    

7― 9節 罪の赦しときよめを求める: 雪よりも白くなし給え。 

10―12節 霊的刷新への祈り:新しく確かな霊、聖なる霊、自由の霊を。

13―17節 感謝の誓い:証しと賛美の誓い、いけにえは砕けた悔いた心。

18―19節 典礼的付加:エルサレムの城壁の再建への祈り。

 

【メッセージのポイント】

1)3 わたしは自分のとがを知っています。

わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、

あなたの前に悪い事を行いました。

それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、

あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。(3、4節)

  ⇒  自分の罪の認識。自分の罪を知ること。

   創世記の3章で、人間は罪を犯して神様から断絶してしまっていると聖書のはじめから、人間の本質が宣言されています。誰でも、自分の生涯を振り返ると「あのこと!」と思い起こすような「罪の思い出」があるのではないでしょうか?旧約のイスラエルの王、救国の英雄であったダビデも、その生涯に一つの汚点がありました。即ち、バテ・セバとの姦淫事件です。彼はこの事件を起して、その罪を隠そうとしてバテ・セバの夫、忠実な自分の部下であったウリヤを謀殺しました。彼は姦淫、殺人、偽証の罪を重ねたことになります。しかし、ここで注目したいのは「あなたにむかい、ただあなたに罪を犯し」と告白していることです。罪とは本質的に神との関係のことです。この深い罪意識が福音の発見には不可欠のものです。小林和夫先生の説教を読みましたら、「わたし」が26回、「あなた」が47回使用されているとありました。信仰は神様との深い人格的な出来事なのだと思います。

 

2)1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、

あなたの豊かなあわれみによって、

わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

2 わたしの不義をことごとく洗い去り、

わたしの罪からわたしを清めてください。(1、2節)

  ⇒  主のいつくしみへの信頼。罪の赦しの体験。

  「福音は、罪の赦しの体験です」。キリスト教信仰は十字架の主イエスを見上げ、自分のためになされた身代わりの業、贖罪の御業を信じることです。神の子羊、主イエスの十字架の血潮によって人は、罪赦され、神との和解を受けるのです。この恵みによる以外に救いはありません。神ご自身との和解の道。これが、2コリント5:17でパウロが語った「和解の福音」です。バテ・セバ事件を経験したダビデの新生の体験です。パウロの体験も、アウグスチヌスの体験も、ルッターの体験も、罪の赦しという体験でした。日本基督教団の信仰告白も、この深い罪の赦しという福音が根幹を成しています。

 

3)、7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、

わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、

わたしは雪よりも白くなるでしょう。(7節)

  ⇒  罪のきよめこそ、福音の原点。主の十字架の血潮。

  詩人は預言者ナタンに「それはあなたです!」と指摘されて、ダビデは自分の罪を直視した時、神の御前に罪を告白し、「雪よりも白くしてください」と祈りました。「雪よりも白く」とは何という大胆な信仰でしょう。しかし、これは信仰者の偽らざる祈りです。「御子イエスの血、すべての罪よりわれらを清む」(Ⅰヨハネ1:7)。昔は汚れをヒソプという植物で清める儀式を行ないました。しかし、今は主イエスの十字架で流された血潮によって我等は罪許され、潔められていくのです。「たといあなたがたの罪が緋のように赤くあっても雪のように白くなるのだ」(イザヤ1:18)との告白のとおりです。

 

4)、10 神よ、わたしのために清い心をつくり、

わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

11 わたしをみ前から捨てないでください。

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

12 あなたの救の喜びをわたしに返し、

自由の霊をもって、わたしをささえてください。(10~12節)

    ⇒  神の霊によって内側から刷新される。

  ここには神の霊(ルーアッハ)によって新しくされるという信仰が表明されています。「新しく正しい霊」、「あなたの聖なる霊」、「自由の霊」の満たしによる新しい人生、聖霊による人生の変革を求めています。「清い心をつくり」の「つくり=創造」は「バーラー」という創世記1章1節の天地創造の際に使われた言葉が使用されます。この語は神のみが主語となります。即ち、「神よ、わたしの罪を赦し、わたしの内に清い心を創造し、神の霊によって、まったく新しい人生を作ってください」という祈りがここにはあります。

 

5)、17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(17節)

  ⇒  砕けた、悔いた心こそ、真の捧げ物!

  この詩の最後は「真のいけにえは動物犠牲でなく、砕けた魂、悔いた心」なのだと宣言して締めくくっています。わたしどもに大切なのは自分の義に頼らず、砕かれた心で主の御前に立つこと。硬い自我が砕かれ、主権を主に明け渡すことを意味します。

 

       《わたしの砕かれた体験》

 求道中の時、教会の敷居が高く感じ、礼拝に行く気がなくなった事がありました。川崎の教会に行って洗礼を受けた友人が、牧師になるために教会に住み込んで、特別の訓練を受けていました。彼が、教会に出席するようにと、しきりに薦める。わたしはあまり気が進まなかった。しかし、彼に会うのと、礼拝後に教会の印刷機を借りて、「同級生新聞」を印刷したいということのために、努力して部屋を出ました。でも、教会に行くのがとても気が重かった。川崎駅で下車したが、教会に行く気がしない。ぶらぶらと駅のビルの書店に行き、当時でた、アルタイザー、ハミルトン共著『神の死の神学』などが並んでいました。「うちの牧師もこのぐらい、格調の高い、神学的な話しでもするなら聞いてもいいけど、もう、聞く前から分かっているんだよな。十字架、罪の悔い改め、…・」と生意気なことをつぶやきながら、ぱらぱらと、本をめくっていました。11時半ごろ、とぼとぼと教会に向かって歩き出した。教会の印刷機を借りるのに、礼拝に顔も出さないわけに行くまいと思って、教会に11時40分頃に着くように歩き出した。教会に着くと玄関で、同年の神学生になった女の子が「まあ、深谷さん、久しぶり・・」と声をかけてくれました。でも、わたしは不機嫌で、彼女の言葉を無視。そして、礼拝堂の一番後ろに座ると、腕を組み、足を組み、会堂の中を冷たい視線で見回した。牧師は何となく、わたしの態度に気が付いたようでした。説教ももう終わりに近かったが、語調が変わった。「今日は聖日で、皆、神様の前にひれ伏し、主を礼拝して1週間を始めようとしている。しかし、そうでない者もいる。・・」そして、牧師はわたしの方を見た。わたしはカチンときて、「この牧師は僕にけんかを売っている!」と感じた。19歳の生意気なわたしは、「売られたけんかは買おうじゃないか!」と意気込んで、牧師をジーっとにらんでいた。説教はサムエル記下6章だった。「ダビデは王様なのに、神の箱の前では、子供のように踊った。しかし、ミカルというダビデの奥様は冷たい視線で、彼を見た!」そう言って、この牧師は、わたしの方を見る。わたしと牧師の視線がチカチカとぶつかり、一瞬の間ではあったが、火花が散るような緊張を感じた。説教が終わると、皆で一斉に応答の祈り。わたしも祈りの姿勢を取った。しばらくするとわたしの脳裏には実に、最近の自分の惨めな罪の姿が、ぐるぐると回りはじめた。そして、更に19年間の罪と汚れの姿が、走馬灯のように浮かんだ。「主よ、・・このわたしが、一番の罪人です。ほかでもない、このわたしが一番の罪人です。・・」気が付くとわたしは泣いていた。涙がぽろぽろと頬を伝って落ちてくる。涙と共に鼻水も出てきた。それらは床に滴り落ちた。30分位、泣き続けた。その間に皆、帰って行った。わたしはズーっと泣き続けた。わたしにとってはこの出来事がとても大きな意味を持った。今まで、あいつが悪い、こいつが悪いと言っていたのに、決定的な批判の刃が、自分の方に向いたのだ。この時から、わたしの中にあった岩のような硬い自我が、内側でがらがらと音を立てて崩れて行った。19歳の夏のことだった。この年のクリスマスわたしは洗礼を受けた。

「砕けた悔いた心」で、主の十字架の苦しみはわがためなり!との告白をすること。これが神に受け入れていただける「わたしたちの献げもの」なのです。

 

【 祈 り 】 主よ、今日は詩篇51篇を通して、救いの原点を学びました。自分の罪を認め、罪の赦しと潔めを経験し、聖霊なる神様によって新しい心を創造して頂き、砕けた、悔いた心で主を信じる者にしてください。十字架の贖いと聖霊の満たしを原点として、この受難節の時を過ごさせて下さい。わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン!