新宿西教会礼拝説教「平和の王」マタイ福音書21:1~9 深谷春男牧師

3月27日(日)主日礼拝説教「平和の王」

聖書箇所:マタイ福音書21:1~11 

説教者:深谷美歌子牧師

ロシアによるウクライナ侵攻が始まって、1か月になります。世界中がどうなっていくのか、かたずをのんで見守っています。第二次世界大戦が起こされて、なぜ第一次世界大戦の教訓が生かされなかったのかと、疑問に思っていましたが、今回のことで、第三次世界大戦が起こりかねない流れがあることで、少し判った気がします。この世界には限界があります。

 今、イースターを迎える時ですが、「平和の王」として来てくださったイエス様のエルサレム入城から、わたしたちに与えられた「平和の国」をよく教えられ、その国を伝える者とされますように。。 

【本日の個所の区分】

1-3節 主はエルサレム入城のために、ロバの子を備えられた。

4-5節 このことは、預言された王の到来の成就であった。

6―9節 救い主として迎えられた。

10-11節 民衆はイエス様をナザレから出た、預言者であると評価した。

 

【メッセージのポイント】

  • 主がお入り用なのです。

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いた

とき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。    1-3

イエス様が十字架につく最後の週の始まりの日が、本日のテキストの個所です。棕櫚の聖日(パームサンデー)と呼ばれています。この日がどの様に持たれ、どのような意味があったかを見てまいります。

まず始まりは、イエス様が、弟子に「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。と言われたことから始まります。イエス様はご自分から、ろばのことを言い出されました。しかもその時、何か聞かれたら「主がお入り用なのです」と言いなさい、と指示しておられます。そしてその通りのことが起ったのでした。

たぶん、イエス様を全面的に信頼している方がいて、入用の時はいつでもお声をかけてください。と連絡がついていたのだろうと推測できます。そして、その時が来たのでした。

これから始まるイエス様の決意の時の御用に、ろばの子が指名されたのでした。持ち主もいつでも用意できていたのでしょうし、このろばの子は、人を乗せたこともない初体験のできごとでした。しかし、イエス様の指名に素直に従ったのでした。エルサレム入城と言う歴史に用いられました。

このことは神様の御計画が成就するために、私達は生かされていることを現わしています。イエス様の命に入れられたお互いは、神様の期待の場があります。不要の人は一人もいないのです。

 ユダヤ人精神医学者のヴィクトール・フランクルは、「人間はどんなに心が病み、混乱している者であっても、その状況がいかなるものであっても、生きている限り、そこには「意味」が必ずある、その意味を発見する時、どんな症状の中になるクライアントにも、光がさしてくるのだ。」と記しています。

この本当の意味こそ、イエス様に結びついて与えられています。

神様が期待をもって、今、私を生かし、意味を持って導いておられることを受け取って生きるなら、毅然として生きられます。育児でも、介護でも、会社勤めでも、トイレ掃除でも、ベットに寝たきりでも、です。

 

2)預言された王の入城

4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、

 7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。     4―7節

 こうしたのは、旧約から預言されたていたことの成就するためと言われています。ここに引用されている個所は、旧約聖書ゼカリヤ9:9です。続く10節には戦車を断ち、弓も断たれる。国々の民に平和を告げる。と続いています。

ふつう、凱旋将軍が入城する時は、立派な軍馬にまたがり、立派な武具を付け、捕虜などを従えて行進するものです。しかし、イエス様の入城は、初めて人を乗せる子ろばに乗って、でした。「よろよろするな~」という歌がありますが、威風堂々とはいかなかったでしょう。しかし、それは、平和の王の姿でした。柔和という言葉は、最初は「惨めな」という表現だったそうですが、ギリシャ語訳が作られたとき「柔和」となりました。イザヤ書53章には「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」と苦難の僕の姿が語られています。イエス様はみすぼらしい姿であったかもしれません。でも、それは、預言されていた王の到来として、見える形で入城されたのでした。

イエス様のもたらした国は、平和の国でした。誰をも剣をもって制圧するのではなく、柔和をもって入城されました。一週間後には、御自分が十字架につけられ、人間の全ての敵意を一身に受け、死んで、そのあと死を打ち破って復活し、神様との平和の道を勝ち取られました。イエス様は一人も殺さず、戦いではなく、柔和の愛で神の国を樹立されたのでした。

ロシアがウクライナに戦争を仕掛けています。力による制圧を目指し、多くの破壊と死者が出ています。戦争と言うのはそういうものでしょう。でもイエス様の場合は、悲しみとがれきの山が残るのとまったく逆です。

 

3)ホサナ ー 救い給え

8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。  8-9節

ホサナと言うのは、「今、救い給え」と言うのがもともとの意味です。ですがこの時の使われ方は「ばんざーい」といった使われ方でした。道に上着を敷いたり、木の枝を敷くのは、王様を迎える態度でした。

人々は、歓呼の声をあげて、イエス様を迎えました。その意味が「救い給え」だと言うのは、イエス様に向けて叫ぶことばとしてふさわしい叫びでした。確かに救い主でありました。

しかし、民衆の思いと、イエス様がもたらそうとしている国は違っていました。5千人の食事を提供した時、それは確かに愛から出た行為でありましたし、全能の神のしるしでした。でもこれを経験した群衆は、自分たちユダヤ人の見える国の王にしようとしました。それを知って、イエス様はその場から去って行かれました。ヨハネ6:15 歓呼の声を聞いた町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言ったとき、この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と答えています。人間である預言者と言いました。

このように、自分たちの王と期待して迎えた群衆でしたが、彼らの期待に応えないとわかると、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆となりました。

イエス様は神であり、罪を滅ぼし、永遠の命の国をもたらすために来られました。が、ユダヤ人の指導者は、人間が自分のことを神と言ったと理解し、十字架の死に値する罪、と断じたのでした。

このことを「バカなユダヤ人」とばかりは言えません。つい、私たちは今の必要を満たしてくれることを求めやすいのです。現代の国々も、この見える世界の生活を良くすることを追及しているのではないでしょうか?  

聖研で5千人の給食の学びをした時「みんな満腹した」というタイトルでした。この時の「出来事は、肉体の満腹でした。神様は目前の必要にも答えられます。病気を癒したり、盲人の目を開いたりです。しかしイエス様が本当に目指していたのは、罪と死を滅ぼす、永遠の命の神の国でした。

聖研後のお分かちあいで「これからは、新宿西満腹教会と呼びましょう!」と提案された方がいました。何て素晴らしい提案!と思いました。真の救いの満腹、愛し合い赦し合う教会こそ、平和の国の橋頭堡です。

戦争で世界が揺れています。ただ戦争が終わって元の状態に戻れば問題は解決でしょうか?罪赦され、愛し合い、赦し合う世界こそ永遠です。

この戦争中に、ウクライナのある中尉が祈った時、「この場所から出て行きなさい」との御声を聞いて、移動した直後、その場所にミサイルが撃ち込まれ、守られた。この経験を通して、今までは、イエス様のことに耳を傾けなかった兵士達が、イエス様を信じるようになった、という配信を見ました。

プーチン氏が、根本的に変えられることを祈っています。迫害者パウロがイエス様に語りかけられて、伝道者になったように。

世界の片隅でも祈りはできます。最高の業です!祈りましょう!

 

祈り  父なる神様、主がお入り用なのですと、期待されて生かされていること、戦いによらず、柔和をもってこの世界に神の国を樹立してくださったこと、そして、主の救いの命に満腹にされる教会としてください。この命で世界が一つにされますように。御名によって祈ります。アーメン