新宿西教会イースター礼拝説教「復活の人生ーエマオ途上ー」ルカ24:13~35 深谷春男牧師

4月17日(日)イースター礼拝説教「復活の人生」

聖書箇所:ルカ24:13~35 

説教者:深谷春男牧師

ハッピー・イースター!  「ハレルヤ!主はよみがえられた!」

 今日は全世界で、この叫び、「主はよみがえられた!」がこだましています。ロシアの侵攻によって、国の独立と尊厳を傷つけられているウクライナの国でも、自由が制限されているお隣の中国でも、軍事政権のクーデターによって悲惨な状況のただ中にあるミャンマーの地でも、お隣の韓国でも、最近、多くのクリスチャンが生まれていると言われるインドでも、あるいはアフガンでも、アメリカでも、南アメリカでも、ヨーロッパ諸国でも、アフリカの国はリバイバルと聞いていますが、全世界で、加害者になってしまったと言われるロシアでも、地球上のすべての地で、「ハレルヤ、主はよみがえられた!」との喜びの声が響いています。

この主イエスの復活の記念の日に、わたしどもも信仰を込めて「ハレルヤ、主はよみがえられた!」と讃美し、告白したいと思います。今日初めて教会においでになった方もおられるかもしれません。でも、どうぞ、覚えてください。人間の一番深い問題は、罪と死なのです。そして、主イエスの十字架と復活はこの人生最大の問題、罪と死に対する神様の解答なのです。

【今日の聖書の概説】  さて、ルカ24章は復活した主イエスの「不朽の名篇」(W.バークレー)と呼ばれるにふさわしい箇所です。 

  1ー12節 主イエスの復活 朝・週の初めの日、天使が婦人たちに告知。

13-35節 エマオの途上 午後・復活の主イエスが弟子の二人に現われる。

36-49節 弟子たちへの顕現 夜・主イエスは焼いた魚を食べてみせた。

  ここには、復活の日の、朝、午後、夜と、描写されます。医者であり、文筆家であり、画家であったといわれる福音書記者のルカは、生き生きとこの復活の日の出来事を描いています。ここに、聖書で最も美しい記事のひとつ『エマオ途上での顕現』が記されます。主イエスが復活したイ-スタ-の日の午後、クレオパという弟子ともう一人の弟子がエマオ(温泉の意)という村に帰った時のできごとです。二人が主のイエスの死を悲しみながら帰って行きました。その途中、いつの間にか復活の主イエスが近寄って彼らと共に歩いて行かれました。そして主イエスご自身が聖書を解き明かして、「聖書の示す救い主は十字架にかかって人々の罪を負い、必ず復活する」ことを教えられました。夕焼けに染まるエルサレム近郊のいなか道を、創世記からマラキ書に至るまで聖書の救いの御業を説き起しつつ、共に歩まれた主イエスと2人の弟子の姿。これはもう一幅の美しい絵画のようです。「エマオ途上」は復活の人生を語ります。

 【メッセージのポイント】

1)15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。(15節)

  ⇒ 主ご自身が、そっと近づかれた!  

 ここには、復活の主イエスご自身の方から、弟子たちに、そっと近づいて来られたことが書いてあります。そして、一緒に歩き始められたのです。「エマオの道行き」は、わたしどもの復活の人生の縮図なのです。エマオは現在のカロニエ(エルサレムの西約6km) という町が有力だと見られています。日没に向かって歩む弟子たちに、主イエスが近づかれました。弟子たちは日没に向って歩むことになります。その弟子たちに、永遠の夜明けを告げるお方として、ご自分の方から、そっと近づかれたのでした。ルカ24章には『一緒』という言葉が3回記されます。

「一緒に歩いて行かれた」(15節)、

「一緒にお泊り下さい」(29節)、

「一緒に食卓につかれた」(30節)。

 主イエスはわたしたちと共にこの人生を歩んで下さるのです。日常の行動、食卓、寝室でも、喜びの時も、悲しみの時にも、そっと近寄ってくださるのです。真実な、慰め深い人生の同伴者なのです。

 わたしの場合は中学一年生のときにクリスチャンの先生に出会って人生はまったく変わってしまいました。その前に小学校5年生のときにシュバイツァー博士の話に感動して、図書室で聖書物語などを読んでおりました。皆様はいかがですか?主イエス様はそっと、静かにわたしどもの人生に入ってきてくださるのです。ある方はキリスト教の幼稚園に入ったかもしれません。あるいは中学校や大学がキリスト教主義だったかもしれません。ある人はそれこそ、お腹にいるときから神様の恵みの中にいらしたかもしれません。主御自身がそっと近づかれることをルカはまず記しています。

2)17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。(17節 )

  ⇒ 暗い顔から輝きに満ちた喜びの顔へ!

 さて、主イエスに出会ったとき、弟子たちはどんな状況にあったのでしょうか。ルカは、弟子たちの姿を17節で「暗い顔をして立ち止まった」(新共同訳)と描写しています。この時、弟子たちは主イエスに向けた顔が逆光で暗く見えたのかもしれないとある方は書いています。絵画の魅力的な一シーンかもしれません。しかし、その弟子たちの顔の暗さは単に沈み行く太陽の光の加減だけではなかったと思います。彼らは愛する先生であった主イエスの死、しかも十字架の上に磔(はりつけ)られるというショッキングなできごとに出会って、深い挫折感を味わっていました。また彼らは現実の悲しみに心が奪われて、「物分かりが悪く心が鈍く」(25節)、不信仰になっていました。ですから、これは弟子たちの内面を表現する言葉でもあったのでしょう。主イエスはわたしどもの「暗さ」のただ中に来たり給うのです。この世のさまざまな問題、健康のことで、家族のことで、仕事のことで、さまざまに思い煩い、心が重くなれば、それは暗い顔で歩む旅路となってしまいます。しかし、聖書は言います。1ペテロ1:8に「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。 」そして「それは、信仰の結果なる魂の救を得ているからである。」(9節)と続きます。わたしどもは暗い顔で歩んでいた者ですが、復活信仰を持つことによって、喜びに輝く顔に変わるのです。

3)23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。(23節)

  ⇒ 「主イエスは生きておられる」との確認の日々!

「イエスは生きておられる!」との天使の宣言。ここには永遠のテーマ「罪と死に対する決定的な勝利!」が記されます。聖書の福音は十字架と復活による罪と死に対する勝利なのです。「エマオ途上」の物語では、構成上この宣言が、中心の句となっています。キアスムスというこの方法では、「イエスは生きておられる」との宣言を中心に全体が構成され、次のようになっています。

A エルサレム→エマオ(日没へ向かって)

  B 主イエスの近づき・弟子不悟

     C 暗い顔の弟子たち

         D 情況の描写(仲間から)

            X イエスは生きおられる (23節)

         D 情況の解説(聖書から)

      C 心燃えた弟子たち

   B 主イエスの消滅・弟子得悟

A エマオ→エルサレム(日の出に向かって)

 

イースターの音信は、罪と死に捕らえられ、暗い顔をしているわたしどもへ の輝けるメッセージです。「主イエスは生きておられる!」ハレルヤ!

 

4)32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(32節)。

     ⇒ 主の臨在と御言葉に、心燃やされて生きる日々!                          

 弟子達は語り合いました。「主御自身によって聖書が解き明かされた時、お互いの心がうちに燃えたではないか」と。この「エマオ途上の物語」という美しいメッセージの内容は、主イエスが臨在され、聖書を解き明かすと言うところにその中心的な内容を持っています。復活信仰は、いつも聖書の言葉によって、熱い信仰の炎が、愛の炎が燃え続ける生涯なのです。 

 《先週は、受難週祈祷会で、役員の兄弟姉妹が奨励!》すばらしかった。

4月10日(日)K姉:主イエスのエルサレム入城。イエス様はロバの子に乗って来られた。わたしたちも、主イエス様をお乗せするロバの子ですね。

11日(月)N姉:主イエスの宮きよめ。わたしたちの心に真実な礼拝を求めて、自己中心や打算から潔めてくださる。教会は真実な礼拝の場です。

12日(火)F兄:主イエスを裏切るユダ。しかし、主イエスはこの裏切り者のユダをも最後の最後まで愛され、赦された。窮みの愛を生きる主イエス。

13日(水)T姉:ゲッセマネの祈り。主イエスは血の汗を流して祈られた。極度のストレスで汗に血が混じる血栓症。この主の愛と祈りに贖われのだ。

14日(木)F兄:主イエスの捕縛。ユダに導かれてくる兵隊と僕たちを前にして「わたしがイエスだ」毅然とし、「父の下さる杯は飲むべき」と語る。

14日(木)M姉:ピラトの質問と主の答え。「あなたは王か?」「わたしの国はこの世のものでなく、真理について証しするもの」「真理とは何か?」

15日(金)M兄:ゴルゴダの丘に立つ3本の十字架。聖書の中心。十字架から母マリヤと弟子ヨハネに。「これはあなたの子」「これはあなたの母」。

16日(土)十字架での言葉。「わたしはかわく」と「すべてが終わった」。まさに主イエスの十字架で贖いは完成された。主の渇きを癒やす生涯を。

*「主イエスが、わたしの贖いとなって十字架にかかってくださり、主がわたしのために死を砕いて復活されたと信じる時、復活の人生が始まるのです。」

 

【祈り】 恵みの神よ。イースター礼拝を感謝します。今、わたしども前には、ウクライナ戦争があり、コロナ感染の現実があります。しかし、今日、エマオの途上を暗い顔で歩む二人の弟子に、そっと近づき、あなたの臨在と御言葉を通して、復活の命に生き返らせてくださった恵みを示してくださいました。どうぞ、わたしたちの霊の目をも開き、復活の主イエス様を示してください。信仰の喜び、愛の炎、希望の輝きを示してください。復活の人生へとわたしどもを導いてください。勝利の主、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。