新宿西教会主日礼拝説教「主イエスを見つめて」使徒7:51~60 深谷美歌子牧師

5月29日(日)主日礼拝説教「主イエスを見つめて」

聖書箇所:使徒行伝7:51~60 

説教者:深谷美歌子牧師

 2月24日からロシアによるウクライナへの侵略戦争が始まりました。度肝を抜かれるような衝撃的な出来事でした。あのとき、ウクライナの人々が「現代に戦争が起こるなんて!」と語っていましたが、私も同じ思いでした。かたずをのんでニュースにかじりつきました。3ヶ月が過ぎようとして、今、戦争のニュースは二の次三の次になってきました。この戦争の行方は、世界の重大事ですが、目前のニュースの方が第一に取り上げられるようになっています。何に一番目を向けるのか、問われるこのごろです。

 今日の聖書の個所は、ステパノが最後を迎えるところで、彼が見つめていたものから学びます。

ステパノは、これまで、信仰の父アブラハムから始まった、神の民の歴史。モーセを通して与えられた律法が、イエス様によって完成したこと。神殿こそ神の臨在の場で、ここでこそ礼拝すべきであるのに、イエス様から始って、弟子達もこれを否定したと訴えられたことに対し、諄々と語ってきました。

しかし今日の聖書個所は、ユダヤ人指導者達に、ステパノが弾劾する所です。

 【聖書箇所の概説】

7章は先祖以来の信仰をステパノが語ります。

2-8節 アブラハムの召命の時

9‐16節 エジブトに下ったヨセフの時代

17‐37節 モーセの召命とイスラエルの救い

38‐43節 神の民の不従順の歴史

44-50節 幕屋と神殿について

51-53節 ユダヤ人への糾弾

54-60節 ステパノの殉教、 サウロの登場

本日の聖書箇所

51-53節 先祖は預言者を殺し、預言者が指し示した正しい方を殺した。

54、57,58節 聞いた人々の怒り。ステパノを石で撃ち殺した。

59-60節  ステパノは天を見つめ、執り成して、眠りについた。

 

 【メッセージのポイント】

1)心にも耳にも割礼のない人たち

 51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。                 

                             51-54節

 ステファノは、とうとう攻撃に転じました。その第一の理由は、心にも耳にも割礼のない人たちだからと言っています。彼らは神様が遣わした預言者の言葉に聞かずに殺した。しかも預言者が正しい方がやがて来ることを予告した、その方が来られたのに、この方を殺した。神様の導きの声に聞こうとしなかった、と責めています。

 それは、耳が閉ざされて、聞いても悟らない。身体には割礼を受けているが、心に聖霊を迎えず、神様の送られたイエス様を認めることができなかったからだと指摘しました。この指摘に、人々は激しく怒り、歯ぎしりして怒りました。 

「強情で」と訳されている言葉を、文語訳聖書は、「項(うなじ)強(こわ)くして」と訳しています。「項(うなじ)強(こわ)くする」と言う言葉は、農夫が手綱を引いて、向きを変えようとしても主人のいうことを聞かず、向きを変えようとしない様子のことです。 

今ステパノが諄々と説いてきたことにも耳を傾けようとしない姿でした。

2)「人の子が立っているのが見える」

 55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。   55-58節

 人々の怒りはステパノが「人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言ったときに頂点に達しました。「人の子」この言葉は、マルコ14章で大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。62 イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。63 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう、と。イエス様は人間であるのに、ダニエル書7:13で語られているやがて来る「人の子」つまり神からのメシヤであると言ったので、神を冒涜したと死刑を宣告されたのでした。自分を神だと言って神を冒瀆し、死刑になった男の弟子が、同じ言葉で、しかもイエス様が言った通り「人の子が神の右にいる」といったのですから、それが本当なら、自分たちがあやまちだったと宣言されることになるのでした。ステファノに怒りが集中しました。彼らはステパノの言葉通り「耳をおおい」ステパノを石打ちの刑で殺しました。

 

3)ステファノは天を見つめ、神の栄光と右に立っているイエスを見て 55節

  人々はステファノに目を集中していますが、ステファノは、天に目を向けています。自分に敵意を向けるものに目を留めるなら、理不尽なとの思いが沸いてくるでしょう。しかし目を天に向けています。そこにはイエス様が神の右に立っておられるのが見えました。ステファノが殉教しようとしている様を、座っていられずに立ち上がって見守る姿とも、父なる神様の前に執り成し手として立っておられるのだとも解釈されています。ステファノはどんなに喜びを感じたことでしょう。

 聖霊に満たされて、とあります。怒り狂っている人々が聖霊に逆らっているのと真逆ですね。聖霊に心の主権を開けわたし、満たされた平安の姿でした。

 

 人のせいにしない ― 人のせいにする

 多くの問題の原因は人間関係のもつれにある。もつれた結果を相手のせいにすると、その人を恨み続けてしまう。全てのものごとが否定的に思われ、家族や、他人は人との関係もうまくいかなくなり、自分の心も体も病んでいく。

 Aさんは、病気を治療するためにある手術を受けたが、軽い後遺症が残ってしまった。彼は毎週その病院に通い、担当医を責め立てた。法外な慰謝料を求めたうえ「お前のせいでこんなひどい目に遭っているんだ。手術してほん元に戻せ!」と、周りに聞こえるほどの大声で叫ぶ。とうとう医師は営業妨害で警察を呼び、逮捕された。しかしAさんは激高し「あのヤブ医者が悪いのに、被害者であるオレをなぜ捕まえるんだ」と抵抗して警察官に暴力をふるう。

 

4)主よこの罪を彼らに負わせないでください。

59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。    59-60節

 ステファノはこの時に臨んで、祈り続けています。一つは「主イエスよ、私の霊をお受けください」です。イエス様も息を引き取られるときこの祈りをされました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でしたが。

 いまひとつは「主よこの罪を彼らに負わせないでください。」と大声で叫んだ祈りです。これもイエス様が祈られた祈りです。

 先に、主が立って殉教しようとしているステファノを見守っていたことを見ました。「殉教」という言葉は、「証し人」の基になったことばだそうです。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。(黙2:10)とあります。ステファノとは「冠」の意味だそうです。

 そして、この祈りは聞き届けられました。刑の執行場所に、ステパノの死刑に賛成していたサウロという青年がいました。クリスチャンの迫害の先頭に立っていた人でしたが、ダマスコに行く途上でイエス様に出会いました。彼は変えられて命がけで伝道する器になりました。このステパノの殉教の様子は、パウロからこの使徒行伝を書いたルカが聞いたと思われます。ルカはパウロの伝道旅行に途中から参加したからです。

 

 最後は「眠りに着いた」で終わっています。怒りの渦の中で、なんという対照的で静かな姿でしょう。

 

「殉教者たちの祈り」  アーノルド著

おお主よ、善意の男女のみでなく、悪意ある男女も忘れないでください。

しかし、彼らが私たちに与えた苦痛は覚えていないでください。

その代わりに、この苦しみによりわたしたちが結んだ実を忘れないでください。

それは、この苦痛から生まれた私たちの交わり、

互いに対する忠実、謙遜、寛容、そして、心の寛大さです。

私たちを迫害する者があなたによって裁かれる時

私たちの結んだこれらの実が彼らの赦しとなりますように

ナチス・ラベンスブルッグの収容所で殺された子供の着物にあった祈りの言葉。

 

 藤井圭子先生のご主人が召されるとき、「静かに眠るようにして行きたい」とおっしゃっていたそうですが、そのように召されたそうです。もしこの世の中での生涯だけ見れば理不尽なと言いたくなるような、病気との戦いだったそうです。しかし彼が圭子先生を通してイエス様を知り、赦され、圭子先生と心から愛し合う日々とされた時「アイラブユー」「圭子は素敵だよ」と言い残し、最後は天国への希望で旅立ちました。この勝利は、全ての人に可能です。 

 贖って下さったイエス様を見つめ続け、聖霊様に満たされ続けましょう!

〈 祈り 〉

神様、この世の中は、力ある者が勝者のように見られています。しかし聖書は、聖霊の導きに素直に心を開き、赦された恵みに生きる時、力によらない勝利を得られることを語っています。心の目、耳を、常に聖霊様に開いていただき、イエス様を見上げ続けさせてください。主の御名によって。アーメン