新宿西教会主日礼拝説教「この川の行く所もの皆生きる」エゼキエル47:1~12 深谷春男牧師

6月12日(日)主日礼拝説教「この川の行く所もの皆生きる」

聖書箇所:エゼキエル47:1~12 

説教者:深谷春男牧師

 先週は、ペンテコステ礼拝のめぐみにあずかりました。礼拝の前に、「ぶどうの実礼拝」がありまして、可愛い子供さんたちと、グループラインで共に礼拝を持ちました。使徒行伝2章の学びでした。美歌子先生が「ペンテコステの時に、ペテロさんが聖霊に満ちて説教をしました。そしたら、集まっていた人が、感動して、主イエス様を信じて、洗礼を受けました。すばらしいですね。何人受けたって書いてありましたか?え?3人?もっと多かったよ。100人?もっと多かったよ。5万人?え~それは多過ぎ。『三千人』あたりです!三千人も洗礼受けて教会が誕生しました。」3000人!それが心に残り、夜、休むときに、その時のことを考えておりました。 

【聖書箇所の概略】

 さて、今日はエゼキエル書を学びます。エゼキエルと言う名前は、「神は強い」という名前だそうです。彼は祭司の子で紀元前598年に始まる第一回バビロン捕囚のときに、上層部に属するものとしてバビロンへつれて行かれた預言者です。彼の預言全体は以下のようです。

1-24章 イスラエルとユダへの預言 (24章、妻の死)

25―32章 諸外国への預言

33-48章 回復預言  33-39章 一般的回復預言

             40―48章 宗教的回復預言

 47章はエゼキエル書の中心的なメッセージとなっています。それは罪の中に陥ってしまったイスラエルが、捕囚を経験して後、神の憐れみのゆえに回復し、神の臨在の祝福が、命の水の流れとしてあふれ流れて、全世界が祝福されてゆく様が描かれているからです。ある方は40章以下の神殿の回復預言の結論部としてここが描かれているが、それはちょうど、イエス・キリストの長い生涯が、十字架と復活を焦点として啓示されるのに似ていると言っています。この箇所はエゼキエル書全体のまとめとなっています。

内容は1)1― 2節 命の水の水源

   2)3- 6節 命の水とその量の増大

   2)7-12節 命の水の祝福、結実と癒し   です。

 

【メッセージのポイント】

1)、1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。(1節)

⇒ 命の水の水源=神殿の敷居の下から

 この有名なエゼキエルの幻は、神様の救いと恵みの世界を、命の水にたとえています。「神の臨在と救いの恵み」は、再建された神殿に満ちています。この神の神殿から命の水は「湧き上がっていた」といいます。「神殿の敷居の下から」湧き上がって、東の方へ流れていたのです。神殿の敷居の下から、です。

 このひとつのまとまりを持った箇所は最初の1節と、最後の12節に、同じような言葉、すなわち、「水」「流れ出る」「神殿」「聖所」という同一語あるいは同意語の反復によって囲い込まれる構造になっています。

 さて、この箇所の幻は、命の水が、神殿の敷居の下から、滾々(こんこん)と湧き上がっているイメージです。泉が滾々と湧き出る姿はとても不思議なものです。大地の深いところから泉が、地下水がとどまることなく湧き出ているのです。

昔、赤羽教会の信徒時代、高山慶喜先生から「井戸道」という話を聞いたことがあります。地下を深く掘ってゆくと「井戸道」という地下水の湧き上がるところにあたることがある。そうすると、そこから地下水がものすごい勢いで湧き出てくるのだと語られました。宮城県の鬼首(おにこうべ)温泉郷と呼ばれるところは有名で、間欠泉である多くの人に多くの人に知られています

。神の臨在される神殿から、命の水は懇々と湧き上がっています。そしてそのあふれ出る水は、東の方に向かって流れ出ています。

黙示録22章1節では「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」について描かれています。ここは天国の描写ですが、都の中央にはこの「水晶のように輝く命の水の川」があると記しています。

また、「流れる命の水」の内容は、ヨハネ4:13,14やヨハネ7:31などを読むと神の神殿とされたわたし達の魂の奥から、活ける命の水が湧き上がることをも読むことができます。

 

2)、3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。(3-5節)

⇒ 命の水の量の深まり。

 ここには命の水の量の豊かさが強調されています。エゼキエルがみ使いについてゆくと、彼は、手に計り縄を持っていたと言います。1キュビトは約45センチと聖書の付録に記されています。ですから千キュビトは約450メートルにはなります。(ただし、ケンブリッジバイブルでは518メートルと説明されています。)ここでいう「はかり縄」は通常、13,5メートルの長さのものだそうです。ここでは4回測定がなされています。

最初の450メートル目の川の深さは、「くるぶし」まででした。

4節には、「更に一キュビトを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した」と記されています。

更に、一千キュビトを測って、わたしに水を渡らせると、「水は腰に達し」ました。腰まで水が達するとなかなかもう、自由が利かなくなります。

5節では「更に彼が一千キュビトを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった」と記されます。

 「くるぶし」「ひざ」「腰」「渡ることのできない、泳がなければ渡ることのできない川」となったのです。これは神の川の恵みがいよいよ深まってゆく様を示しています。吉川教会もこの地域の中ではまだまだ出発の程度、くるぶしまでの程度でしょうか。神の恵みのうちに、次第に深さと豊かさを増して行かねばなりません。多くの人々が救いに導かれ、主の愛のこの世界に満ち溢れるまで仕えて行きましょう。米田豊師の解説は「(この箇所は)37章が骨の谷の異象が未来におけるイスラエル復興の預言であると共に、現代のリバイバルの表象である如くである」。主のみ業を待ち望むわたしどもは、「くるぶしではなく、ひざまででもない、泳げるほどの豊かな流れ」と讃美しながらリバイバルを期待しましょう。

3)、7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。(7~12節)

 命の水は繁栄と清めと癒しを与える。

 この命の水は、まわりを清めて行きます。「この川の行くところ全てのものが生き返る」と記されてゆきます。そして、最後には、汚れた海、すなわち「死海」に注ぎ、と預言されています。「すると、その水はきれいになる」のです。死海は、命の海となりすべてが変化してゆくと記されます。命の水は繁栄と癒しをもたらすのです。

「多くなる」が、3回、使用されて、豊かな繁栄の様が歌われています。

  • 多くの木(7節)、②多くの魚(9節)、③魚の種類(10節)とに用いられます。

また、「清くなる」が、①アラバの海(8節)、②水(9節)、③沢と沼は清くならず(11節)と用いられます。更に、癒しや結実が強調されます。葉は薬用となって人々を癒してゆきます。

 

【祈り】 天の御父。今朝はエゼキエルの幻を学びました。命の水が神殿の敷居の下から懇々と湧き上がり流れ始めました。それはわたしどもの生涯の霊的な誕生を示されたことでした。そして、その水が、くるぶしに、ひざに、腰に、わたりえない川になったことを聞きました。わたしどもの生涯を、深く整えて満たしてください。御霊の流れが人間の罪と死をきよめ、繁栄と癒しを与えることを示されました。主よ。新宿西教会にリバイバルの業を、個人に、家庭に、日本に現してください。主イエスの御名によって。アーメン。