新宿西教会主日礼拝説教「慈愛と忍耐と寛容の富」ロマ2:1~11 講解⑯ 深谷春男牧師

7月3日(日)主日礼拝説教「慈愛と忍耐と寛容の富」

聖書箇所:ロマ2:1~11 講解⑮

説教者:深谷春男牧師

【今日の聖書箇所の概略と構造】

ロマ書第1章18節からパウロは、異邦人の罪を3つ指摘しました。

①霊的堕落、偶像礼拝が霊的混乱の原点である事

②道徳的堕落、人間は霊的な混乱から、情感に問題を持ち、倒錯した性的混乱にも言及する。

③理性的堕落、ゆがんだ心と具体的悪徳を生んできたと語りました。

内村鑑三はそれはちょうど、パウロが世界中の人を相手に論争している状況の如しと語っています。つまり、パウロは、まず異邦人の罪、真の神を知らず、神に仕える律法を知らない罪を厳しく糾弾しました。異邦人はシュンとなって顔を伏せたままです。

そのとなりにはひとかたまりのユダヤ人がいます。パウロの異邦人の罪の指摘に、やんやの歓声を上げて、「そうだ、そうだ!」と言っていた人々です。

パウロは異邦人の罪の指摘を終えるや、今度は、グルリと向きを変え、ユダヤ人へと向かいました。「ユダヤ人の罪」の指摘です。神の民として自認してきたユダヤ人への罪の指摘は、2:1-3:8まで続きます。

そして、3:9-3:20までは全人類が罪のもとにあることを語りました。そして、3:21-からいよいよ「救いの提示」が始まります。

 【メッセージのポイント】

1)1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。(1節)

⇒ 全て人を裁くものよ。あなたに弁解の余地はない!

ここには人間の深い問題が記されています。パウロは神の民として生きているユダヤ人に語りかけているものと思われます。しかし、ここでは人間全体を指して、「ああ、すべて人を裁く者よ」と言っています。これは、ユダヤ人以外の人をも視野に入れた言い方のようです。これは3節でも「ああ、人を裁くものよ」と言う叱責が最初に出てくる事からも同じです。人は他者を裁く者です。そして、そのさばくこと自体が、その人を罪に定めていると指摘しました。

昔、ギリシャ人は自分達が文化人であって、ギリシャ人以外は未開の人だと思ってばかにしていました。確かにギリシャ文化はソクラテス、プラトン、アリストテレス等の偉人を生み、人類文化の花のような所があります。しかし、多くの弱さも持っておりました。

ユダヤ人もまた自分達は宗教的な民であると自認しておりました。自分たちは真の神を知っている。この天地を造られた方、そしてこの世界を正しく導く方、またこの世界を裁く方を知っている。更に神に仕える道である律法を知っている。神を愛し、人を尊敬する人間の道を知り、それをアブラハム、モーセの時代から忠実に行ってきた。しかし、野蛮人である異邦人、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの人々から恐ろしい迫害を受けた。同胞を殺し、真の神を侮辱した異邦人は、神にさばかれる。さばきの火には、地獄の火の燃え草となるとまで異邦人をさばきました。日本人も同じでありました。お隣の韓国や中国人をばかにし、第二次大戦中には恐ろしい、残虐行為を致しました。そのような意味では中国人も同じです。中華思想をもって、自分たちは世界の中心、他民族は蛮族と呼びました。

 主イエスは「人を裁くな。裁く裁きで、裁かれる」(マタ7:1)と教えています。わたしどもは人を裁くのではなく、愛をもって接し、尊敬を持ってし受け入れる者であるべきなのです。

パウロはまず言います。ユダヤ人を含めて、「ああ、人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。

パウロは、このロマ書14章全体でも、「兄弟をさばいてはならない」(これが新共同訳ではこの箇所の「表題」として書かれています。)と記します。クリスチャンになっても「兄弟をさばく」のは簡単なのです。そして、「食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはならない」(15節)そして4節に「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」と記します。ユダヤ人の罪の指摘は「人をさばく」という罪から始まります。

 

2)さばくあなたも、同じことを行っているからである。2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。(1~3節)

さばくあなたも同じ事を行っている!神のさばきを逃れられない!

  パウロが、ユダヤ人の罪について記すのは、「あなた方も、同じ罪を行っているからだ!」と言うことです。パウロはここでは、人間はすべて神の裁きを受けるのだと教えています。神の裁きの前に立つ時がやってくるのです。わたしどもはいつでも神の御前に立っている事を知らねばなりません。そして、やがて神のみ前に、裁きの座に立つことを忘れてはなりません。すべては明らかになるのです。神の前に立って、神尾のさばきの法廷の場で、自分の人生の罪が、ノーカットフィルムで映し出されるとしたら、皆さん、何と恐ろしいことでしょうか?わたしたちの人生は、実に惨めな、罪の集積でしかありません!自分の人生をすべて明らかになって、わたしは罪がないと言う人はありません。まさに、「義人なし、ひとりでになし!」であります。

 

  わたしは、何度も、大田区の雪谷大塚の地にある、東調布教会で特別伝道礼拝の説教をしてきました。しかし、あの近くの雪谷大塚の駅には思い出があるのです。それは万引きの体験だからです。山手線の五反田から、池上線という東急路線に乗って千鳥町という駅にある兄貴のアパートで住まわせていただいて、池袋の「すいどうばた美術学園」でデッサンや油絵の基礎を学び、美術大学を目指しておりました。まだ、18歳のころです。あるとき、五反田の東急ストアに行くと、美術学校で学びに必要、油絵の具や、絵筆、絵の具を溶くリンシードオイルとかポピーオイル、それに特殊な木炭、キャンバスなど入れて担いでゆく、ナップサックのような物が必要だったのです。680円ぐらいと覚えていますが、ああこれがいいと思って、手に取って、油絵の具のボックスの下に入れてレジを捜したのですが、何と出口に出てしまったのです。そこで、そのまま、そっと外に出てしまったのです。今なら、万引き予防のベルでも鳴ることでしょうが、その頃まだ、なりませんでしたね。電車に乗って「あれ?これは万引きだよね・・・。黙って持ってきちゃった・・・。」とか考えておりましたね。そして、雪谷大塚で、急行を待つ間に、ふと我に返り、「これはまずい、今度の日曜日、教会に行く約束だ。万引きしていて、礼拝には出られないな・・。返してこよう。」ということで、もう一度、五反田に引き返して、そのナップサックの売り場に行って、そっと返してきました。帰りに、外に出たら、救世軍御方が「社会ナベ」をやっていたので、せめてもの罪滅ぼしと思って、500円、献金をしました。あとで、「ああ、最初から、お金払って買えれば、あのナップサック買えた物を・・」と思ったことでした。

主の十字架の贖いなくして神の前に立つことはできません。「われを贖う者は生きておられる。彼はやがて地の上に立つ」(ヨブ19:25)。

 

3)4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。(4、5節)

 神の慈愛と忍耐と寛容の富を軽んじるな!今、悔い改めよ!

  ここでパウロはユダヤ人の最大の罪について指摘します。霊的な高慢のために、神の豊かな「慈愛と寛容と忍耐」を軽んじることです。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くこと」を拒否していることです。  

「神の慈愛と忍耐と寛容の富」とは、これは「主イエスの十字架の贖いのこと」です。主イエスがわたしの罪の身代わりとなり、わたしの恐ろしい罪をすべて贖ってくださった!これが神の最大の富であり、神の慈愛の本質です。神の救いはこの神の慈愛の富、これを拒否しないことです。ユダヤ人の罪は「わたしは律法を行い、真面目に生きているのでキリストの十字架の贖いを必要としません!」これがユダヤ人の第一番の罪です。

高橋三郎師は「ロマ書講義1」の中で、このように書いています。

「・・・・彼が一つ一つの言葉の中にどれほど重い内容をこめて語るか、その言葉使いがいかに簡潔を尊び、無用の重複を避けているか、と言うことを、第一章の冒頭以来見てきたわれわれの眼には、第二章に入ってからのパウロの筆致が急に変わり、ただひとつのことをかくまで、言葉を重ねて追求してやまないことが極めて深い印象を与える。・・・

これは「・・・イスラエルの選民意識と人を裁くということはどれほど重みを持つことがらであるかを示している・・・」と指摘しています。

パウロはユダヤ人の罪を取り上げています。それはなによりも罪を認めなければ、主イエスの十字架の意味を理解できないからです。

わたしどもは死なねばならない罪人! 内村鑑三も「聖書は地獄の火に照らして読め」と言う言葉を引いています。(エレミヤ13:23)

 

【 祈り 】天の主よ!ロマ2章から、ユダヤ人の罪を学びました。①人をさばく高慢な心、②神の真実から見れば、ユダヤ人にも心に底に隠れた罪が沢山あること。③一番の大きな罪は、主イエスの福音、神の慈愛の富を拒絶することです。ここに救い、「神の慈愛と忍耐と寛容の富」があります。それは主イエスの十字架であり復活の恵みです。すべての人が、主イエスの十字架と復活を受け入れ救いの中には入れますように。わたしたちの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン