新宿西教会主日礼拝説教「主は心を見る」ロマ2:17~29 講解⑯ 深谷春男牧師

7月10日(日)主日礼拝説教「主は心を見る」

聖書箇所:ロマ2:17~29 講解⑯

説教者:深谷春男牧師

 

【今日の聖書箇所の位置と概略】   

ローマ人への手紙の2章前後の部分の構造は次の通りです。

1:18~32  異邦人の罪  ①偶像礼拝 ②性的倒錯 ③具体的悪徳

2: 1~16  ユダヤ人の罪  ①裁きの心 ② 罪を認めない ③福音拒絶

2:17~29    ユダヤ人の罪 ①律法の有効性 ②割礼の有効性

3: 1~ 8  ユダヤ人のすぐれた点  神の言葉を委ねられた点

3: 9~20 全人類の罪 義人無し一人だに無し 律法は罪の自覚を生ず 

3:21~26  神の義(救い)の出現  救い(信仰義認)の提示

「ローマ信徒への手紙」は福音の本質を鋭く提示しています。パウロの問題意識は、「罪」という問題です。これはジョン・バンヤンが人間の心を「底なし沼」として描いているように、どんなにここの沼を埋めようとして、土砂が運ばれ、石が投げ入れられても埋まらない「底なし沼」なのです。この底なし沼のようなところに家を建てても、やがて傾いて沈んでしまう。ロマ書は、この底なし沼に備えられた唯一の土台について語ります。

それは、神の子主イエスの十字架と復活による、決定的な出来事であると。この福音以外に、救いはないと語るのです。

 【メッセージのポイント】

1)17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、19、20 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、     (17-20節)

⇒ すばらしい神の民として恵みと特権!

ここで、パウロは、「ところであなたは・・・」と二人称単数で、語りかけています。これはNTD訳では「ところできみよ、もしきみがユダヤ人と名乗って、律法を持っていることに安心し・・・・」と訳し、「あなた」という言葉を「きみ」と使っています。そうすると、パウロの非常に厳しいユダヤ人に対する議論を見ることが出来ます。(9回、「きみ」が使用されています。)

竹森満佐一はこのことに触れて、パウロは遠巻きに、異邦人の罪やユダヤ人の罪について話しながら、じわりじわりと、わたしども個人の罪へと迫ってくる、と言っています。実際パウロはガラテヤ書にあるように、キリストを信じる前にユダヤ人の伝道者のようにして働いてきた自分自身の体験をもとにし、自分自身が使っていた言葉をそのまま用いたのではないかといわれています。すなわち、

自らユダヤ人と称し、     ユダはほめたたえられる=誉が語源

律法に安んじ、 神を誇とし、

18 御旨を知り、 律法に教えられて、  (律法に導かれた4項目)

なすべきことをわきまえており・・・・・

これは当時の、ユダヤ教(アルトハウスによればパリサイ派的な)の、神への忠実な信仰者の姿を見ることが出来ると言われます。

19、20 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、

自ら盲人の手引き、 やみにおる者の光、  

愚かな者の導き手、 幼な子の教師  (神の選民としての4項目)

をもって任じているのなら、と、自他共に認めていたのを見ることが出来ます。ユダヤ教の中のファリサイ派はここに書かれているように、神に選ばれて証し人として生きてゆく自分たちをそのように理解したのでしょう。当時のパリサイ派は、厳格な倫理観に生きて、①唯一神への熱い信仰、②性倫理等の潔癖さ、③イザヤ書等の朗読と解説による倫理性により、ユダヤ人以外のインテリ層に信頼があった。

 

2)21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。(21-24節)

⇒ 自分自身に教えよ! = 人間の隠れた罪を、限界性をもつ。

しかし、パウロは更に、厳しく、ユダヤ人を責めます。これは彼がかつて、主イエスを受け入れる前の自分自身の姿だったので、このように執拗に語れたのだろうと言われます。これはディアトリベーという論法。

21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。

盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。

22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。

偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。

23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。 締めくくりは厳しいですね。

 

3)28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(28-29節)

 聖霊による心の割礼を!主は心を見られる。

 25節以降は問題を「割礼」に持ってゆきます。ユダヤ人にとっては、「律法と割礼は、神の選びの契約、そしてその教え」と言う非常に重要な意味合いを持っておりました。2章のはじめから、律法を論じてきたパウロは、ここで更に割礼の問題を取り上げる必要を感じました。彼の論法は、割礼は律法を守ってのみ意味があると語りました。

それゆえに本当に重要なのは「聖霊による心の割礼」であると語り締めくくっています。これらの言葉は、わたしたちクリスチャンにとっても重要な問題の提示のように感じます。わたしどもも、形の洗礼だけではなく、聖霊による、魂の奥底から、神に取り扱われたまことの洗礼を受けるように、この箇所は主張しているように思われます。

 

  今日の説教題は「主は心を見る」。これはパウロの主題でもあります。

「心の割礼」は旧約聖書に多く出てきます。

「あなたがたは心に割礼を行いもはや強情であってはならない。」申命10:16 「自分の心の前の皮を取り去れ」。エレミヤ4:4

その日には割礼を受けても、心に割礼を受けていないすべての人をわたしは罰する。」エレミヤ9:25。    その他、エゼキエル44:9。参照。

パウロは、聖霊による「心の割礼こそ真の割礼」なのだと語ります。

 旧約聖書のサムエル記16章にダビデが、イスラエルの王として選ばれる記事が記してあります。ベツレヘム人エッサイのもとに、サムエルは遣わされます。サムエルの前を、7人の息子たちが面接をします。

 6節には、サムエルは、長男のエリアブを見て、「この青年こそ人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思いました。 しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。・・・わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」

この聖句はすばらしいものですね。重要な暗唱聖句です。「人は外の顔、かたちを見る。しかし、主は心を見る」。神様にとって、美男子であるか、美人であるか、鼻が高いか、低いか、大きいかなどは二の次三の次。 かつて前任教会の長老さんがいらしゃいましたが、何回か、証しのときに「わたしの結婚の時の聖句です」と語って下さった。奥様はとても美人であったのですけれども。わたしも、結婚式でこの聖句を語って見たい、と思っていますが、まだ、、、箴言31:30は良く語ります。 わたしたちは外見だけではなく、いつもキリストの花嫁にふさわしく、心を十字架の血潮で洗われ、聖霊様の賜物である愛と恵をいただいて、内なる輝きを持ちたいものですね。 ハレルヤ

 7人の息子たちは皆サムエルの前を通ったが、神様が「この人だ!」という息子がいなかった。聞けば8人目の息子がいる。これはまだ子供で、羊の番をさせている。サムエルが彼を前にと言うので、ダビデが連れてこられた、「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、『立ってこれに油をそそげ。これがその人である』。13 サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日からのち、主の霊ははげしくダビデの上に臨んだ。(12~13節)

「この日から後、主の霊がダビデを貫いた!」

  さて、このようにしてサムエルによって油注がれたダビデはまったくその霊性において、変化(メタモルフォーセー)を経験した。聖書は「この日から後、主の霊はダビデの上に激しく臨んだ」と語っています。この「臨んだ」という言葉は「zalach(ツァーラーフ)」という言葉で「つらぬく」と言う意味もあるそうです。神の霊がダビデの心を貫いた。この出来事が、彼の人生を全く変えたのでした。あの、何の変哲のない一介の羊飼いの少年ダビデが神の民のリーダーとなり、巨人ゴリアテを倒し、サウル王からの迫害、殺意の危険から逃れ、しかもそのサウルを憎まず、恨まず、幾多の危険から守られて、ついに、王となり、外敵からの勝利と、国内の繁栄とを勝ち取り、当時の大帝国エジプトに匹敵するような国を造り得たのはまさに「この日から後、主の霊が、ダビデの魂を貫いた」との聖句にその秘密があることをわたしたちは見ることになります。聖霊のつらぬきを二つ語って説教を閉じたい。

  • 主の十字架の贖いという貫き!
  • 聖霊の潔めの恵みという貫き!

 ダビデ、イザヤ、パウロ、アウグスチヌス、ルター、ウェスレーも主イエスの十字架の贖いによって、自分の罪が赦され神の子とされた!これは、雷に打たれるような体験でした。第二は、神御自身の聖霊の付与。「ただ、聖霊があなた方に下るとき、あなたがたは力を受け、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、及び、地のはてまでわが証人となる」(使徒1:8)との約束があります。私ども、「聖霊による心の割礼」を受け、真実な神の民として歩を全うしましょう!

【祈祷】 

 父なる御神。今日は、ロマ書 第二章の学びを感謝します。ユダヤ教の熱心なグループ・パリサイ派に所属していたパウロが、主イエスに出会って、ユダヤ教の限界を体験し、人間の罪と死の問題、一番深い問題に解決を見い書いた書いたロマ書を学びました。旧約時代のユダヤ教の中で重要な働きであった「律法」と神の民の受けてきた「割礼」の意義と問題点を理解しつつ、主イエスの十字架の贖いや洗礼における神の民として歩みに深い理解を与え、何よりも聖霊の深い導きの中で、恵まれた勝利の日々が送れますように導いて下さい。一昨日前に起こった、安倍晋三元総理の銃撃事件、また、今日の参議院選挙も、落ち着いた心で導いて下さり、わたしどもの日本も、また全世界も混乱の世界から守り導いて下さい。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン