新宿西修養会主日礼拝説教「歴史と教会の主イエスキリスト」ヨハネ黙示録4:1~5,8b   深谷美歌子牧師

7月31日(日)主日礼拝説教「歴史と教会の主イエスキリスト」

聖書箇所:ヨハネ黙示録4:1~5、8b

説教者:深谷美歌子牧師

 今日は教会修養会礼拝です。午後は深谷牧師が宗教改革から現代に至る教会の歴史について、語ってくれることになっています。

 入門コースで、教会の歴史はどこから始まりましたか?という質問をしますが、使徒行伝2章で、聖霊が来られた時から。というのはまず正解でしょう。 教会という言葉が聖書に出で来るのは、新約聖書からです。

 今日の聖書のテキストのヨハネ黙示録は、聖書の最後の書で、聖書は創世記から、黙示録で一冊の本として完結しています。

 そして内容は、世界の創造から、メシヤ(救い主)が送られるまでの、契約の時代。メシヤが送られた契約の成就の時代。最後はメシヤが新天新地をもたらして完成する。という筋の通った書物です。

 その中で教会が出てくるのは、イエス様が来られてからです。

 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上に「わたしの教会」を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。マタイ16:15 

 この岩というのは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。という信仰告白のことで、その信仰を言い表した人達の上に「わたしの教会をこの上に建てる。あなたに天国のかぎを授けよう。」マタ16:19と約束し、イエスを主と告白する者は、天国、つまり教会の民ですと語られました。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。ヨハネ14:6この言葉を守部さんが横断幕で見た時、こんなことを言う人は、よっぽど頭がおかしい人か、本当に言える方であったら神様だと思って信じました。その時天国の門を開けて入れていただいたのでした。教会はイエス様が開かれた神の国で、今も主として、導いていくださっている国です。

 今日の聖書の個所で声をかけられた人々もこの教会に入れていただいた人々でした。この書は、一世紀末、臨もうとしている、迫害の嵐の予感される時代の中で、当時の教会に、クリスチャンに、送られたメッセージでした。こんなことを許しておかれる神は真実なのか?との疑問、怖れがあったことでしょう。そんな兄弟姉妹に、この日、ヨハネから送られた手紙の朗読を聞いて、確かに判ったのは、1-3章の七つの教会に宛てたメッセージと、その中でも特に、死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を与えよう。という約束。今後起こる迫害の理由は、サタンの攻撃である。しかしその中でも、勝利もあり、最終的に悪魔が滅ぼされ、主が再臨され、新しい天と新しい地が訪れる。しかも再臨のイエス様がすぐに来る。と何度も語られて、彼らはどんなに励ましを受けたことでしょう!

 

【本日の個所の区分】

1節  教会への勧めの後、今後起こることを見せようと招かれた。

2-3節 御霊によって、天の御座とそこにいます方を見た。

4節  御座の周りに24人の長老が冠をかぶって座っていた。

5節  御座からは声が発せられ、七つの霊が燃えていた。

8b節  御座の周りの生き物が「昔も今もいまし、やがて来る方」と叫ぶ。

 

【メッセージのポイント】

1)見よ、開いた門が天にあった。

その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。             黙 4:1

見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。と、3章8節にイエス様の言葉が記されています。ヨハネが見た開いた門はこのイエス様が開いて下さった門でした。

「ここに上ってきなさい」という言葉は、ヨハネに語られたことばですが、共に聞いている兄弟姉妹にも語りかけられたことばでした。

 イエス様の血潮によって天の門が開かれていました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。この信仰を言い表した人のみが入ることのできる開かれた門でした。そしてそこに上ると、これから後起るべきことが知らされるのでした。地上にあっては、迫害の嵐が来ようとしていましたが、目を転じるとそこに天の門が開かれていました。

 ステパノも殉教の前に、この天の門が開いてイエス様が迎えようとして立ち上がっているのを見ました。そして輝いて眠りにつきました。

 この門は、今日、礼拝に集って、何が語られるのかと待ち望んでいる私達にも開かれていて、この門を通ると私達が入れられた世界が開かれます。

 2022年に生かされている私達も、こんなことがなぜ起きるのか?神様はなぜこんなことを見過ごしておられるのかと思うことが起こっています。そんな私達に「ここに上ってきなさい」と声がかけられています。

 目前の出来事に捕らわれるのではなく、天の門に心を向けましょう!

 

2)わたしは御霊に感じた。

 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。 3 その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。  5 御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。           2・3・5節

 たちまち、わたしは御霊に感じた。と記されています。天の世界に目が開かれるのは、聖霊によってです。復活のイエス様が、昇天される前「聖霊を送るから待っていなさい」と語られて、祈り待っていた弟子達に聖霊が送られました。聖霊を受けた時、弟子達は大胆にイエス様こそ、メシヤでしたと神の国の到来を伝える者になりました。

 黙示録3章までの、教会についての託宣の時、どの教会への終わりにも『 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。と語られています。代々の信仰者は聖霊に満たされて、生かされてきました。

 森山諭先生は、私の母教会で20年近く、毎年新年聖会の御用に来てくださいました。先生の著書2冊とも1933年3月28日聖霊に満たされ、聖書が創世記から黙示録まで大経綸が開かれたと記されています。私も先生のこの経験を、説教の中でお聞きしましたが、「光が入った」と表現されていました。先生の信仰の原点で、聖霊に導かれて聖書全体が解りました。

 この時は御霊によって天の世界(教会)が開かれました。その時見ることができたのは、天の御座でしたした。この玉座の姿は旧約のエゼキエルの見た天の世界とよく似ています。(前6世紀、エゼキエル1章)世は変わるとも変わらぬ方がこの世界の主で、玉座に座しておられるのを見ました。

 聖霊様と共に歩む生涯こそ、神様の世界が開かれて歩む生涯です。早天でよく言われる言葉は「聖霊は偉大なカウンセラー」です。世界を導き、78億分の1の存在の者にも導きと助けを送ってくださる方です。まだはっきり聖霊様を知らなかったら今聖霊様を心の王座に迎えましょう。2022年7月31日です。後は毎日「聖霊様心の王座にいて下さい」と祈りましょう。

 

3)やがて来たるべき者

 全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者 8b節

 全能者にして「主なる神」と四つの生き物が叫んでいますが、この御座にいます方こそが、こう呼ばれるべきお方でした。

 「主なる神」この言葉は、皇帝ドミティアヌスが自分に対して言わせた言葉でした。しかし、この言葉は、地上の、過ぎ行く人間が受けるべき言葉ではありません。昔も今もこれからも変わることのない、全能者なる神イエス様だけに奉げるべき言葉でした。

 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」黙示録21:3,4と、主が勝利者としてやがて来られる事を知って喜びにあふれたことでしょう。しかも、「すぐに来る」と何度も語られて、当時の信仰者がどんなに励まされたことでしょう。テサロニケ人への第一の手紙4:15には、  わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。とあります。初代教会の人々は、御再臨が自分たちの生きている間に来ると思っていたことがこの言葉から解ります。

 イエス様が昇天された時、聖霊を送る約束の成就は、10日後に起こりました。ですから、御再臨の約束もすぐに来ると思ったことでしょう。

 ところが、ペテロの手紙第二3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。とありますから、当時から遅いと思っていた人々があったことが解ります。そして今日までが教会の時代です。

 そして、黙示録が書かれた後の時代の人々は、皆、終わりの時代に生きていると思ってきました。確かにこの2000年間、戦争や、地震、火山の噴火、疫病などが起ってきました。ことに第一次世界大戦、第二次世界大戦などの時は、確かに世の終わりが近いと思ったのではないでしょうか?でも御再臨は起こりませんでした。御再臨などはないのでしょうか?

 聖書は筋が通ったストーリーと言うだけでなく、実際の歴史に起こったことを証言している書物です。歴史上の確かな人物として、アブラハムは前2000年頃の人でした。彼は唯一の全能の神様を信じてこの方を認め、見えない方を見ているようにして、歩んだ人でした。彼の子孫から、全地が祝福される者が出ると約束されていました。

 イエス様の誕生時の記録はルカに詳しく記されています。ユダヤがローマの属国となっていたそのころでした。世界の歴史の中へ、メシヤとして誕生されました。実にアブラハムへの約束から2000年後でした。ぺテロの手紙に、主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。と書かれていますが、まさにその通りでした。そして今、私たちの生きている世界も、黙示録が書かれた時代のように、混沌としています。戦争などは昔の野蛮な時代の行為と思っていましたが、現実です。疫病や地震や、飢餓、気候変動が起こっています。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。マタ24:42御再臨の近づいた時のしるしが今起こています。

 心を「開かれた門」に向け、その門を通って得た命を見続けましょう!それは礼拝で神様にお会いする世界です。毎日の早天や、デボーションで見る世界です。目を覚まして御再臨を待っていましょう。→13日のアパルームの証し。

 

祈り 歴史と教会の主イエス様、永遠の命に入れられたことを感謝いたします。教会が続く限り聖霊様、常にお導き下さい。そして切に御再臨を待ち望みます。しかし今、最も恐ろしいのは、み言葉を聞く飢饉です。この命を得ていない同胞の為に、救われた兄弟姉妹がこの命を生き続けるためにも、み言葉を取り次ぐ器が必要です。主が選ばれた器が自分を捧げ用いられますように、主の御名によって。アーメン