新宿西教会木曜聖書研究祈り会「自分勝手にあしらった」マタイ17:9~13   深谷美歌子牧師

9月8日「自分勝手にあしらった」

聖書:マタイ17:9~13  

説教者美歌子美歌子牧師

 先週は、「山上の変貌」と呼び慣らされている、イエス様が本来の神の姿に変貌された記事を学びました。弟子達に、本来の姿を見せ、イエス様こそがメシヤであることを確証させるものでした。しかし、この栄光のままで、この世界の王になるのではなく、人々から苦しめられて死に、復活するということが、人類のエクゾドス(救出)の方法であることを、旧約の代表であるモーセ、エリヤと語り合い、最後には、父なる神様からの「これは私の愛する子、これに聞け」との認証の言葉がダメ押しでした。しかし、弟子たちは栄光の主のままでいて欲しかったようでした。本日はその続きです。 

【本日の聖書個所の区分】

9節 降山の時、主は復活まで、今見た事を話してはならないと命じる。

10節メシヤの前にエリヤが来ると律法学者がいうのはなぜかと質問する。

11-13節 エリヤはすでに来た。人々は自分勝手にあしらった。

 

【メッセージのポイント】

  • 死人の中からよみがえるまでは話してはならない

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。       9節

 先週の聖研で見ましたが、変貌山の出来事は、6日前に「あなたこそ、生ける神の子キリストです」16節。この告白のすぐ後に十字架につくことをイエス様が語られた時、すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。⒗:22,23としかられました。彼が信仰告白できた背景には、弟子として召されて、共に過ごしてきた3年間の中で、イエス様の教え、奇跡、愛の姿、全てを見て来た結果でした。6日後の今、イエス様は本来の栄光の姿を見せてくださったのでした。これまで見てきたすべてにまさる確証でした。前回も見ましたが、この光景にペテロは圧倒され、この栄光の主とモーセとエリヤとここに留まりたいと思ったのか、「小屋を三つ建てましょう」と口走りました。が、ペテロが話し終えないうちに「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」。との声がかけられたのでした。メシヤとの確証を父なる神様が与えられました。が、それに続く内容は、イエス様が語った、十字架への道こそが、エクソドス、人類の救出の道である。これを聞けと伝えるものでした。

 それにもかかわらず、まだ栄光の主の強烈な残像と、神さまの計画が見えていない様子がこの後の弟子達の次の質問に見られます。

 なぜ、イエス様が「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と語られたのでしょうか?

ヨハネ 6:14で、 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。と人々が給食の奇跡を経験した時も、王にしようとしました。が、そこからも逃れました。

この時も弟子達でさえイエス様の人類救出の方法が納得できていない。ましてや今見た事を弟子たちが語ったならば、民衆はユダヤ人の王(メシヤ)として打ち立てようとするであろう。そうしたら、神様が御計画くださった人類の罪と死からの救出は果たされなくなる。まだ解っていない弟子達にその救出の時が完成するまでは、「誰にも話してはならない」と命じられたのでしょう。さすがに、弟子達は「これに聞け」との父なる神様のご命令を聞いていましたから、このお言葉に従いました。

 

2) エリヤが来ると律法学者が言うのは?

弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。 10節

イエス様の言葉に従いつつも、弟子達はまだいろいろ腑に落ちなかったのではないでしょうか?メシヤについての律法学者達の言っていることと、イエス様の救いの方法が、解っていなかったと思われます。

 今エリヤに出会ったが、律法学者が言っている「エリヤが先に来るはずだ」というのと違うのか?彼らが言うエリヤが先に来ると言うのは、どういうことなのか?律法学者たちはマラキ書4:5の 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。この言葉に根拠を置いています。が、イザヤ書の「主の僕」を誇張して、すべて在りし日の完全なる状態を回復してメシヤ来臨の備えをすると律法学者たちは考えていたと言うのです。

  • イスラエルの家庭を回復する。
  • イスラエルに単一無雑なる教理を回復する。
  • イスラエルの平和を回復する。
  • 民を悔い改めに導いて、イスラエルに正しき心を回復する。
  • 紛失した神殿の器具を回復する。
  • ディアスポラの人々を集合して、全イスラエル民族を回復する。

塚本虎二より。と信じていたと言うのです。弟子達はこのような律

法学者の主張を聞いていたのではないでしょうか?もしそうだとすれば今の状況は違うのではないですか?そんな疑問がこの質問になったのでしょう。

 

3)自分勝手にあしらった

11 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。

12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。

13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。    11-13節

弟子達の質問にイエス様は、真実に応答されています。イエス様もマラキの預言を肯定しておられます。そしてエリヤは来たと答えられました。しかし、律法学者が期待したような、エリヤが来て忽然と家庭が清まり、社会が改まり、散らされた人々(ディアスポラ)が帰ってきて、天国が出現するとは言われませんでした。

バプテスマのヨハネは罪の悔い改めを説き、ヘロデ王の権力も恐れず、兄弟ピリポの妻をめとるのはよろしくない、と責めました。その為、彼は首をはねられて死にました。

 彼は律法学者が望んだような、自分たちが関わらず、理想的な社会をもたらすエリヤではありませんでした。 マタイの3章で確かにバプテスマのヨハネからパリサイ人やサドカイ人がバプテスマを受けようとしてきたことが書かれています。しかし、彼らに対するヨハネの言葉は辛辣です。迫ってきている神の怒りから逃れられると誰が教えたのか、自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思っても見るな。9節

このことは、ルカ7:30ではパリサイ人たちがバプテスマを受けなかったとあります。総合して見ますと、彼らの中に、表面は皆と同じようにバプテスマを受けに来たが、心は自分たちは正しいと真の悔い改めが見られなかったのでしょう。それを責めたヨハネを、人々は勝手にあしらったとイエス様は、語られました。イエス様も「白く塗った墓」とパリサイ人達を責めました。そしてイエス様もバプテスマのヨハネのように苦しみを受けることになる。と語られたのでした。

 このことが語られた時、さすがに弟子達もイエス様の言われるエリヤはバプテスマのヨハネのことだったと悟りました。

 今わたしたちは、イエス様こそ、ご臨在の神様がこの世界に来てくださったこと、神様がご自分の命を持って、人間の思いも及ばなかった、十字架という死を受け、罪の結果であった死を打ち破り、復活し、 ご聖霊を送り、すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。マタイ11:28と救いの道、エクソドスを勝ち取ってくださったことを知っています。 律法学者のように、「自分勝手にあしらう」のでなく、まず自分がへりくだり、罪のものである事を認め、主の赦しをいただき、約束の聖霊様を心の王座に迎えて、この命を伝えるものとされますように!

【祈り】 

父なる神様、弟子達が見えなかった救いの道が見えている時代に生かされていること、感謝いたします。主の贖の命を、聖霊様によって常に満たし、喜び伝えさせてください。主の御名によって。