新宿西教会主日礼拝説教「流れのほとりに植えられた木」詩篇一篇 深谷春男牧師

9月11日「流れのほとりに植えられた木」

聖書:詩篇一篇  

説教者:深谷春男牧師

 2018年4月1日のイースターの日を思い起こします。それは、わたしどもにとって吉川教会から当教会の牧師として招かれた伝道牧会の初めの日でした。朝の礼拝の後に、歓迎会をしていただきました。交わりの部屋に、赤い実をつけた大きな木のデザインの飾りがとても印象的でした。今考えてみると、あの一本の木のデザインは新宿西教会の象徴ですね。神の命の水、恵みの川の流れから養分を頂き、成長し、豊かな実を結ぶ一本の木。それが新宿西教会の姿だと思います。ちょうど、詩篇の第1篇の象徴も同じですね。それは一本の木。流れのほとりにあり、神の御言葉、その命に流れに潤う一本の木。これは、詩篇全体の表紙の用に描かれた神様のデザインなのだと思います。 

【 詩篇第1篇 その概略と区分 】 

 この詩篇には表題がありません。多分この詩は詩篇全体の序文のように添えられたのであろうと言われます。いわば、詩篇の表紙は「流れのほとりに植えられた一本の木」ですね。この詩の構造は以下のようです。神に従う者の祝福と神に従わない者の滅びが明瞭に語られます。こういう明瞭な対象は、「知恵の詩篇」の特徴でもあります。

1節  正しい者の消極的行為  神に従う者は罪と不信仰の世界を離れる

2節  正しい者の積極的行為 神に従う者は御言葉を愛し、口ずさむ

3節  正しい者の実例的描写 神に従う者は流れのほとりの実を結ぶ木

4節  悪しき者の実例的描写 神に逆らう者は風に吹き飛ばされる籾殻

5節  悪しき者の積極的行為 神に逆らう者は神の裁き集会に立てない6節  悪しき者の消極的行為  神に逆らう者の道は滅びに至る

【メッセージのポイント】

1)、1 いかに幸いなことか、        (1節)

⇒ 幸いなるかな!で始り、ハレルヤ!で終わる人生。

  「幸いなるかな(アシュレー)!」は、詩篇の最初にある言葉です。この語は「直く歩む(アーシャール)」から来ていると言われます。「アシュレー!」幸いなるかな!この一語がいいですね。詩篇全体の基調をなす一語です。詩篇32:1や41:1、また詩篇で一番長い119:1、2や、詩篇128:1等もアシュレーから始まります。

モーセの「最後の言葉」も(申33:29)、また、新約聖書の主イエスの「山上の説教」も(マタイ5:3)この「幸いなるかな!」ではじまります。

詩篇はこの「アシュレー」の一語ではじまり、ハレルヤ歌集で終わります。クリスチャン人生も「幸いなるかな!」で始まり、「ハレルヤ」!で終わりたいものです。

でも実際は、わたしたちは、罪と死の支配している世界に生きていますので、多くの試練や感謝できない現実に直面します。ですから詩篇の中には多くの嘆きや神様への切なる訴えがあります。もしもそうだったとしても、「幸いなるかな!」という神の祝福と、「ハレルヤ」と言う神への感謝、わたしどもの生涯の初めであり、終わりですね。ハレルヤ

 

2)、1 悪しき者のはかりごとに歩まず、

罪びとの道に立たず、

あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。(1節)

⇒ 幸いなるかな!  罪の道に歩まず、立たず、座らぬ人!

  ここには神様から遠く離れて行く人の罪の深まりが記されます。

「歩まず」は、生活の姿であり、実践の姿であると言われます。神様に逆らって行動して行く人の世界を表現しています。

「罪びとの道に立たず」は神に逆らう行為の継続を意味し、的外れの人生の繰り返し、その繰り返しが習慣となり、そしてその人の人生の性格を表わす「立場」を意味することになります。

「あざける者の座にすわらぬ人」の「座にすわる」は、更に悪の世界のリーダーとして座り、神様に従う正直な生活をあざけり、信仰の世界をあざけり、揶揄する反信仰的な立場の論客となり、その立場のリーダー、不信仰の世界の座主となることを意味しています。       

 

3)、2 このような人は主のおきてをよろこび、

昼も夜もそのおきてを思う。    (2節)

⇒ 幸いな人  御言葉を喜び、それを口ずさむ人!

   「主の教え(トーラー)」とは神の御言葉のことです。トーラーは律法をも意味していますが、もともと「射る」や「投げる」という言葉で、弓で射た矢(あるいは石)の軌跡を目で追う線を意味し、そこから、方向、教訓、基準の意味となりました。み言葉を「思う」は「口ずさむ」とか、「うなる」の意味もあります。獅子が「うなる」とも訳されます。ある方は、ライオンが獲物を捕食して「ウメ~」とつぶやくように、われらも御言葉を食べて、「ウメ~!」とつぶやきたいと言います。

 わたしは、毎朝早天で御言葉を頂き、皆さんの黙想を聞いたり、祈り合うときに深い感動を覚えます。早天、木曜祈祷会、礼拝の祝福。「ウメ~」というライオンのつぶやきという言葉が心に残ります。

 また、「イスラエルは蚕(かいこ)である。いつも口を動かしている。」蚕は桑の葉を食べるため、イスラエルは神の言葉を食べるため。

 

4)、3 このような人は流れのほとりに植えられた木の

時が来ると実を結び、

その葉もしぼまないように、

そのなすところは皆栄える。  (3節)

⇒ 幸いな人  流れのほとりの実を結ぶ木!

ユダヤの地域は砂漠地帯です。樹木が生えて行くのは大変なことです。枯れてしまう危険は至るところにあるのです。しかし、この木が栄えてゆくのは「流れのほとり」に植えられた木であると語られています。日照りの中にあっても永遠の大河である聖書の御言葉に「昼も夜も」根を張って、養分を頂いて、立派に成長するのです。

ここには、「流れのほとりに移植された木」と表現されています。「植えられた」は「移植させられた」と言う言葉です。わたしたちクリスチャンは、それぞれいろんな地域で育ったものですが、流れのほとりへと移されてきました。流れは神の言葉、神の福音です。「わたしたちはいのちの水の川から養分を頂き」、成長する「一本の木」です。

 原登先生が、昔、喬木教会に行かれた時に、湯沢実先生と七重先生が5人御子供を抱えて、農村伝道に苦闘しておられた。色紙に「時が巡り来れば実を結ぶ」と書いてこられたと証しを伺ったことがあります。「あの子供たちが時を経て、3人が伝道者となり、皆、恵まれてクリスチャンとなって証しを立てておられる」と語られました。

 大和カルバリーチャペルの大川従道先生が中学生の時、「どうしてうちは、こんなに貧乏なんだ、牧師の家庭なんて嫌だ!」と反抗した時に、「なあに、あなた方も主イエス様の愛に触れて、全世界に出て行く伝道者になるのよ!」とお母様は語り、事実、その通りになりました。

5、4 悪しき者はそうでない、

風の吹き去るもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。

罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

6 主は正しい者の道を知られる。

しかし、悪しき者の道は滅びる。   (4~6節)

⇒ 幸いな人、モーツ(もみがら)でなく、エーツ(木)!

4節からは「悪しき者(ラーシャー)」が出てきます。「神に逆らう者」(新共同訳)の意味です。この語は特にエレミヤ書では40回使用され、神への不服従、不真実を表す語です。神への反逆を続けている人は、人生の実質を失い、もみがらのように、風に吹かれて飛んでいってしまうような空虚なものとなります。実を結ぶ木とは対照的な喩えです。

ヘブル語で木はエーツ、もみがらはモーツで、ここには語呂合わせがあると言われます。聖書は2つのうちの一つを選択することを迫ります。

豊かな実を結ぶ人生の木(エーツ)を選びますか?

空虚な実のならない籾殻(モーツ)のような人生を選びますか?

もっとも、新約聖書から見れば、人間は皆、裁きに耐え得ない、弱い愚かな、罪深い存在です。主イエスの十字架の恵みと聖霊様の助けなくして、わたしたちは豊かな実を結ぶことはできません。

最後に、わたしはキングス・ガーデンの施設で益田泉先生のことを伺いました。彼女はこの施設に入ったときに一人の求道者と話をして、「信仰が分らない」と言う姉妹に、「わたしの最後を見ていてね」と話したと言います。彼女は神様にすべてを委ねて天国に凱旋。その姿を見て、この女性は洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。

信仰にしっかり立って主の証し人としてともに歩みましょう

 

【 祈り 】  天の父よ。今日は敬老礼拝の日を感謝します。今日は詩篇の第一篇を感謝します。どうぞ、この詩篇で語られているとおり、不信仰と罪から遠ざかり、幸いなる生涯を歩むことができますように。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ生涯に導いて下さい。わたしどもは「流れのほとりに移植された一本の木」です。いのちの水なる御言葉から必要な養分を与えられ、風に吹き去られるもみがらではなく、豊かな実を結ぶ一本の木として証しがなしえますように。御高齢の兄弟姉妹の健康、霊性を守り、御言葉と聖霊の満たしの中で、勝利の日々をお与えください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。