新宿西教会主日礼拝説教「新しく造られた者」Ⅱコリント5:17~21 深谷春男牧師

9月18日「新しく造られた者」

聖書:Ⅱコリント5:17~21 

説教者:深谷春男牧師             

 10月からわたしどもの教会では、オープンチャーチの月を迎えます。これは、まだ、教会に入ったことのない方や、聖書のことを知らない方々に、聖書の語る福音を知らせる伝道の時を持つと言うことです。つまり、聖書の語る、「神の福音」の中心的な内容をお知らせするということです。福音をできるだけ簡潔に、分りやすく伝達することです。その中心主題はもう、ここにおられる方に語らなくても良いほどに、皆さんご理解していることです。即ち、それは主イエスキリストを信じる信仰によって人は救われること。その中心にあるのは、主イエス様の十字架の出来事であること。その福音を信じて、罪と死の支配する世界から解放され神の子として生きること、このことを「救われた」と表現するのです。それは驚くべき神の恵みとして経験することになるわけです。この救いの体験が第一です。それが今日の17節です。主イエスの十字架の贖いと復活の出来事を信じて、新しい人生に生きる。すべてが新しくなったと言う体験。これが「新生の体験」です。  

そして、それから、もう一つは、主イエスの十字架が自分のためであったことを知って、救われて、新しい人生に導かれた。自分は、天国の世界に生きている。しかし、まだ、神様の恵みの事を知らない全世界の人々に伝える使命がある。自分の兄弟達や、親しい友人たちに、この恵みを伝え、神との和解を勧めて、共に福音の恵みに与ろう!わたしの場合も19歳の時の救いの体験があまりに強烈だったので、絵描きになるよりも、更に大切な主イエスの福音を伝えるために、伝道者になろう!と決意ヘと導かれました。

この17~21節で、パウロは、わたしたちの人生は、新しく造られる人生であるが、二つの新しい人生が始まる。一つは福音に出会って、主イエスを信じて救いを経験すること。もう一つは、この神の福音を多くの方々に伝えるための証し人、主の救いの伝道者として生きることです。

 

【メッセージのポイント】

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(17節)

  ⇒  キリストにある「新生」を生きよ!

  この聖句は徹底的に重要な事をわたしどもに示しています。すなわち、人間は、「新しい命に生きることができる」というのです。

「新生の体験」とは、まず、「罪の認識」に始まります。それは「神の前でのまったき無力の自覚」であり「霊的な破産の認識」です。それは自分に絶望して神を見上げることであり、十字架においてなされた神の完全な救いをただ受け入れることだからです。人間は深く、罪と死の支配の中に沈んでいると言う自覚です。たとえば、ダビデの詠んだと言われる詩篇51篇には、彼の深い自己認識があります。罪の中に沈んでいる自分自身への認識と、神様のあがないの業への感謝がそこにあります。パウロのロ-マ人への手紙7章には彼の内面からにじみ出た深い罪の自己認識があります。自分で自分を救おうとするのでなく自分を神の手に委ねるところから新生の業は始まります。十字架を見上げるのです。

  大先輩の横山義孝先生のお爺ちゃんは、西南の役に軍人として出征し、西郷隆盛の兵隊を三人切り殺しました。そして政府から金鵄勲章をいただきました。しかし、戦争とはいえ、人を殺したこと、やがて、たいへんに罪責感となって、自分自身を責めることとなりました。彼は、よくお経をあげたりして、罪の意識からの解放を求めていたそうです。しかし、本当の平安はなく、ある時、教会で婦人宣教師の特別集会があるのでお義理で出ました。初めはよう解らない日本語で飽き飽きしていたそうですが、罪意識の解決の話に入った時に彼の目は輝き、婦人伝道師の紙芝居を使いながらの十字架のあがないの話に感動し、その集会で、主イエス様の十字架を信じて、彼はその時、救われたといいます。

  善行を積んでも、お経を読んでも、解決しない深い罪責感は、十字架の血潮、神の子が流してくださった尊いご宝血でしか解決が与えられませんでした。教会は、罪の赦しと永遠のいのちの世界を今日も語ります。みことばを聞いて罪を悔い改め、十字架のあがないを信じるものは永遠に罪から解かれるのです。また、主イエスに結ばれた生涯は、神の永遠の命につながる人生なのです。天国に行っても、つながれているのです。主イエスは復活ののち、「天においても地においても、一切の権威を与えられた」と「大宣教命令」を宣言されました。今日のメッセージはあなたの永遠を決める神からのメッセージです。今日、救いを受け、永遠の生命につながってください。

 

心を開いてこう祈りましょう。「主よ、わたしは弱き、醜い罪人です。わたしはあなたのなされた十字架の身代わりを信じます。今、わたしは誰にも開けたことのない、暗い心の部屋の扉をあけますから、神様、わたしの内に入って、わたしの心を支配し、あなたの赦しと愛と命に満たしてください」。そう祈り、主イエスに信仰の告白をする者は新しい命、永遠の命を自分のものにすることができるのです。イエスキリストにある生き方を始めた人々は、「古いもの」は過ぎ去り、「新しくなった」と宣言されます。新しい命に生かしてください。

 

2)18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。                      (18、19節)  

  神との「和解」を受けよ!

  ここでパウロは言います。「神はキリストにより人と和解された!」と。新生の体験は自分の無力から始まりますが、自分の無力さの認識で終わるのではありません。それは、神と和解し、神の子供となる人生を意味しています。それは、神の愛に信頼して生きる人生であり、勝利に満ちた人生であることを示しています。罪意識に悩み、心の奥底に潜む絶対的な不安や恐れから解放された人生は、神の愛と喜びで満ちるものだからです。それは神の子として生きる勝利の人生であると言います。そこには絶対的な和解があるのです。

田原米子さんのことを知っている方も少なくなりました。

田原さんは、16歳の時にお母さんを脳溢血で失いました。田原さんは末っ子で、本当に溺愛されて育ったものですから、心に受けた痛手は非常に大きかったのです。お母さんの死をきっかけに、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまいました。それを埋めるために、人生の意味を深く追い求めるようになるのですが、ある時、図書館で読んでいた哲学の本に「人生にはじめから意味などはない。人類にとって最高の幸福とは生まれてこなかったこと、次の善とは一刻も早く死んでしまうこと」だと書かれているのを読みました。ドイツのショーぺンハーウェルの哲学書でした。それを読んで、若かった16歳の田原さんは自殺を決意し、新宿の小田急線で飛び込み自殺を図ったのです。その結果、彼女は一命を取り留めたものの両足を失い、左腕を失い、残ったのは右腕と指三本だけになってしまいます。彼女は、ますます人生に絶望し、入院中から睡眠薬をため込んだりして、自殺を図ろうと考えておりました。そんな絶望のどん底にある田原さんのところに、キリスト教宣教師と青年が訪問しました。簡単に救われたのではありません。初めはとても反発しました。何回かお話をする中で、ある時、「自殺するのはいつでもできるのだから、キリストが神かどうかわからないけれど、この人たちの言うことが嘘か本当か賭けてみよう」と思って、生まれて初めて神様に祈りました。お祈りをして眠った翌朝、窓から差し込む朝日も、すべての情景が輝いて見えたことに驚きました。それまでは指が3本しかないと思って絶望していたのに、指が3本も残っていることに気が付きました。その指で字が書けた時、幼児のように嬉しくなりました。その日、病院内で会う人ごとに「おはようございます」と自分の方から無意識に挨拶していました。彼女は神様と和解し、新しい人生を歩みました。

 

3)、20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

⇒  「キリストの大使」として生きよ!          (20、21節)

キリスト教信仰は「神との和解」の福音です。そして、和解した者は更に「キリストの大使」(20節)として、キリストの証し人として生きるのだと聖書は語っています。「キリストの使者」として生きよ、と。ここで「使者」と訳されている言葉は、一国の「大使」を意味する言葉です。口語訳は「大使」という言葉でそのまま翻訳されておりました。日本にも米国、英国はじめあらゆる国の大使館等があり、「大使」がその国の代表として住んでいます。われらクリスチャンは神の国の大使として立てられています。

  昔、うちの娘が高校生の頃に、夏のバイブルキャンプに参加して、帰ってきたときに、何かの話の途中で「クリスチャンはキリストの救いの証しの伝道者なんだって。本業はイエス様の証し人。この世の仕事は副業だって、横山義孝先生の早天祈祷会で話してくださったよ」とぽつりと言いました。クリスチャンの人生は、たしかに「和解のために奉仕する任務」を授けられた生涯なのですね。それは伝道者であろうと信徒であろうといちばん基本は同じことなのだと思います。

今日のメッセージは「キリストにある新生」、「十字架のあがないによる神との和解」、「キリストの大使として生きる」のです。

 

【祈祷】神様!「和解の福音」を示してくださり感謝します。十字架に罪赦された者として、「和解の福音の証し人」として生きる者としてください。この10月のオープンチャーチに、わたしの兄弟や、友人を誘う勇気と愛を与えて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン