新宿西教会主日礼拝説教「宦官は喜びを得た」使徒行伝8:26~41 深谷美歌子牧師

9月25日「宦官は喜びを得た」

聖書:使徒行伝8:26~41 

説教者:深谷美歌子牧師 

 前回は、お金で聖霊が授けられるようにと願った魔術師シモンに対して聖霊は、お金で得られる力ではなかったことを学びました。

 そして、本当に人を生かすものは、お金で得られないものが多いことも学びました。本日の聖書箇所は、真に生かされる命を頂いた人のことが書かれています。見てまいりましょう。

【聖書箇所の概説】

 今日の聖書箇所は、「エチオピアの宦官の救い」と言われるところで、使徒行伝の中でも、特に印象的な部分です。特に、このエチオピアの宦官の読んでいた聖書が、旧約聖書のイザヤ書53章であったと言うことは重要な内容を示しています。ご一緒に、このすばらしい聖書箇所を読んでゆきましょう。

1)、26,27a,29,30,31,40節 伝道者ピリポに神は命じられた。「ガ 

           ザに行け」。命じられた通りに従うピリポの姿。

   27b,28,32,33節  エチオピアの宦官、イザヤ書53章を読む。

   36,38,39節     ピリポに導かれて、救いに至る宦官の姿。

 

【メッセージのポイント】

1)手引きする人に召された。

 26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。27 そこで、彼は立って出かけた。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。

40 その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。

               (26,27a,29,30,31,40節) 

 ピリポの伝道によって、多くのサマリヤの人々がイエス様を信じました。サマリヤに大リバイバルが起ったのでした。現代に置き換えたら、遣わされた教会で大リバイバルが起きた時、と考えたらいいかもしれません。その時、神様が「ガザに行きなさい」と命じられました。(このガザは、今は荒れはてている)のです。Bc324年にアアレクサンドロス王によって滅ぼされた町でした。Bc57年にアレクサンドロスヤナイオスが新ガザを海岸沿いに建設したので、昔のガザは荒れ果てていたのです。そんな人もいないところに行けと言われました。その時、ピリポは即出かけたと書かれています。すると馬車が来ました。「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。30 そこでピリポが駆けて行ったとあります。まだ何をするのか解らないままに、ピリポは聖霊の命じられるままに従ったのでした。すると、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。のでした。

彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。何をするのか知らされないままに従ったピリポでしたが、そこに導きを必要としている人がいたのでした。

 ピリポは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、と6:5節にありますように、福音が良く解っていた人でした。その人を神様が真に福音を求め、必要としていた人に遣わされたのでした。

 信仰者は、先週も語られたように、救われたら、伝える者に召されています。田原米子さんも、絶望で死のうと思っていましたが、イエス様を受け入れた時、新しく生かされて、「引っ込んでいたい性格なんです」と言いながら、全国の高校生や教会、いろんなところに招かれて、生かされたお証をし続けました。どんなに多くの人が生かされたでしょう。映画もできましたから、出会っていない人でも、イエス様に出会うために用いられたかもしれません。それぞれも置かれた所が召された、宣教の場です。聖霊様に助けられて、手引きするために用いられましょう!

 しかも、ピリポは宦官が救われると39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行った。40 その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。 と、すぐさまそこから移動させられたのでした。それを不服と思っている様子もありません。「おかれた所で咲きましょう」の本のようにそれぞれ期待された所があります。その場所で感謝して伝えましょう。

2)エチオピアの宦官

27bすると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、

 「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、

  また、黙々として、

  毛を刈る者の前に立つ小羊のように、

  口を開かない。

  33 彼は、いやしめられて、

  そのさばきも行われなかった。

  だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、

  彼の命が地上から取り去られているからには」。

                    (27b,28,32,33節)

 エチオピアの宦官がピリポの前に現れました。エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人でした。 

 身分的には女王の財産全部を管理していた高官ですから、普通でしたら、ピリポが声をかけるチャンスなどない人でした。

 この高官はエルサレムに礼拝に上り、帰るところでした。わざわざエルサレムまで礼拝に上るほどですから、真実に神様を信じていたのがわかります。しかし、彼は女王に仕えるので、去勢された人でした。すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。申命記23:1と旧約で決められていましたから、彼はエルサレムに上り神殿に上っても主の会衆として加わることはできないのでした。しかし彼は熱心にみ言葉を読んでいました。彼が読んでいた聖書はイザヤ書の53:7,8節でした。彼が読んでいたのは、当時訳されたギリシャ語訳ですから、今わたしたちが持っている訳とは少し違っていますが、だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、/彼の命が地上から取り去られているからには」。ここを読んだとき、彼は自分も子孫を得る可能性のないものであったので、この人は誰なのかとの質問になったかと思います。 彼は身分的には誰でもなれる身分ではありませんでしたが、神の会衆にも加われず、子孫も得る事の出来ないという、権力でも、お金でも解決できない、悲しみを持った人でした。

3)宦官はよろこびながら旅をつづけた。

 34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕38 そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。  (34~39節)

  この宦官は、読んだ聖句の意味が解りませんでした。そこへピリポが送られてきたのでした。30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。ピリポの語りかけ方は、尊敬のこもった語りかけで、心を開かせるものでした。

 ピリポ自身も、イエス様が来られ、十字架で死に、復活し、昇天し、聖霊を送られるまでは、このイザヤの言葉の真意は解らなかったと思います。しかし今やすべてがイエス様を指し示していたということを、信じ経験して悟っていました。それで、35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。のでした。

 手引きする人に召された、と第一ポイントで伝えましたが、手引きする人は、まず自分がイエス様に出会い、聖霊様と共に歩んでいなければなりません。その人に導くべき人が送られます。そしてイエスのことを宣べ伝えます。「イエスが応え人生の、イエスのほかに道はない、悩み苦しみ歩むなら歩んでみようイエスの道」という讃美の通りです。

 エリザベス女王のお葬儀でヨハネ14章がイギリスの首相によって朗読されました。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 

 世界中の人がこの言葉を聞きました。「このわたしとはだれのことですか?」と真剣に聞く人が起こされたらと願います。エチオピアの宦官は聞いて信じました。そして、水のある所に来ると「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」と言いました。ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。のでした。イエス様の罪の赦しによって神の子とされる、永遠の命は、宦官であろうと、異邦人であろうと差別なく与えられました。 

 ピリポは取り去られましたが、宦官は喜びながら旅を続けました。見た目は変わらなかったかもしれませんが、命の所在は変わっていました。 

 異邦人が救われる初穂となり、この命を伝えるものとなって、やがてエチオピアがキリスト教国になっていく、祝福の基とされました。

 祈り 

父なる神様、ピリポは遣わされた所どこへでも従って行き、伝えました。希望のなかった宦官がイエス様による真の命を得、喜びあふれて伝える者とされました。この命を得る者が起こされました。

私達も、生かされている場所で、手引きする者としてつづかせて下さい。

   主の御名によって。  アーメン