新宿西教会主日礼拝説教「臨在の人・エノク」ヘブル11:5,6 深谷春男牧師

説教「臨在の人・エノク」

聖書:ヘブル11:5,6

説教者:深谷春男牧師 

 季節も春めいて参りました。昨日は「立春」で暦の上では,もう春になりました。しかし、連日の寒さは、一年の一番の寒さですね。テレビのニュースでは、寒波の到来のニュースで風邪を引かないように。豪雪に注意をして下さいと繰り返されます。

先日、昔の友人の牧師から、読売新聞のコラム欄「編集手帳」の文章が送られてきました。このような記事が書いてありました。

明日から2月。陰暦の異称〈如月(きさらぎ)〉の語源は様々な説がある。まずは〈衣更着〉。寒さに布を重ねるから。でも、立春がめぐり来るのでこの説は分が悪い。◆対照的なのが、陽気が戻るというので〈気更来〉。あるいは正月にきた春が更に春めくから〈来更来〉。当て字を駆使してよく考えられている。◆植物の成長に目をむけたものもある。〈木更生〉は字が示す通りだろう。天気エッセイストの嶋倉厚さんは〈萌揺月〉を推す。きさゆらぎつき、と読む。万物が萌(も)え動き出すことを意味する。・・・・◆大いなる春というもの来たるべし(素十)

とありました。興味深い文章と思いつつ読みました。

そろそろ、コロナ禍も終わり、伝道の時を迎えたいですね。ウクライナへのロシアの侵攻がベラルーシと組んで、攻撃が激しさを増すかもしれない、などというニュースを横目で見ながら、早く平和の春を来たらして欲しいと祈らされますね。いや、それらの人間世界の限界を超えて、永遠の春、主イエスの再臨の恵みの世界を来たらせたまえと祈らされます。

 

【今日の聖書箇所の概説】

 さて、今日は、前回の説教に続き、ヘブル書11章の有名な箇所、「信仰者列伝」であり、「偉大な信仰者の肖像画の掛かったギャラリー(画廊)」(FBマイヤー)と言われるところを続けて読みます。そして、ここに記される信仰者の姿から、「信仰とは何か?」を深く、共に学びたいと思います。

    1節 信仰とは何か。神の約束を握る手、約束の完成を見る目。

2節 昔の人はこの信仰のゆえに賞賛されている。

3節 この世界の現象は、神の言葉で造られたものと認識すべし。

    4節 アベルから優れた礼拝を学ぶ、

神からの愛を受け、神への愛と人への愛に生きる

5節 エノクからは特に神臨在の信仰と臨在から来る聖い生涯

 6~ 7節 ノアからは御言葉への信頼と服従、家族の救い、箱舟の建立。8~ 9節 アブラハムからは、神の召しへの従順、行く先を知らず出発

       ・・・・他は省略・・・・  

 

 【メッセージのポイント】

1) 5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。(5節a)

⇒ 信仰によって、死を体験しないようにされた生涯! 

「死を見ない」とはなんという驚くべきことでありましょうか。

エノクは驚くべき信仰の人ですね。旧約聖書で死を経験しない人はエノクとエリヤだけです。全ての人間は死を経験します。このこともまた、何という驚くべきことでしょうか。死を体験しない人間は基本的にいないのですね。命の本当の所有者は神様なのですね。聖書は、命は神に属するものであると語っているのだと思います。

エノクの生涯は「神と共に歩む」生涯でした。それは「死を経験しない」生涯でもあったと語られています。エノクの生涯は「命のみ」の生涯だったのでしょう。更に新約聖書では、キリスト再臨の世の終わりには、天に携挙(軽挙される)聖徒への言及も出てきます。エノクは、携挙される聖徒の雛型との理解もあるようです。

 

2)、 「神が彼をお移しになったので、彼は見えなくなった。」(5節b)

⇒ 神によって、天に移される生涯!

 またエノクの生涯は「天に移される」生涯であったと言われます。ここには5節の中で3回も繰り返して「移す」という言葉が使用されています。彼の生涯にとって全てのことは「神と共に生きる」ことでした。生の初めも神と共に生の終りも神と共に・・・。目覚めの朝も神様と共に目覚め、休む時も主の平安の眠りを祈る毎日、試練の時にも神様に祈り、喜びの時には主に感謝捧げる生涯。彼の生涯は神と共に歩む生涯であるゆえに地上を終えるとすぐに天に移されたのだといわれます。彼にとって地上を去ることは天への移住(!)、天国への引っ越しだったようです。パウロは、ピリピ1:21~23でこのように語ります。

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

主イエスもヨハネ福音書14:1~3で、 同じようなことを語られました。:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

皆さん、主イエスは天に上り、わたしどもの「住む場所」を用意しに行かれ

ました。2,3節の「住む場所」は、KJV(欽定訳)ではここをマンションと訳しました。ラテン語のブルガダ訳が「マンショーネ」と訳されていたからです。キリストはわたしたちのために、天にマンション(!)を用意しておられるのです。ハレルヤ!

 

3)、「彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」(5節c)

  ⇒ 神に喜ばれた生涯!

 ある方はこの11章全体を「神に喜ばれる生涯」とまとめて表題を付けておられます。ここに記される信仰者は「神に喜ばれた生涯」を送った人物です。「神を喜ぶ生涯」はすばらしいですが、「神に喜ばれる生涯」はもっとすばらしいですね。まことの信仰に立つ時、神ご自身が喜ばれるのです。

 

 

4)6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(6節)

 ⇒ 臨在信仰に生きる生涯!

  6節で信仰生涯の内容を語っていますね。

まず、「6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」と語られます。アブラハムのように、神御自身を信じ、神御自身と深い霊的関係を生き、神御自身を礼拝し、神御自身の聖と義の御性質を知らされ、その愛と恵みの深い御経綸に生かされる生涯。聖書の指し示すそのような信仰に歩むことが、神の喜ばれる生涯であり、人間のあるべき生涯であると語られます。

神に来る者は、二つのことを必ず信じる。

第一は、神のいますことを確信する。神の臨在を感じつつ歩むのです。

もう一つは、神御自身の求める者に報いてくださる事を、必ず信じるはずだからであると語られます。

わたしはエノクの信仰の指し示すところは、「神の臨在信仰の恵みの世界」であると示されました。罪と死の支配するこの地上生涯の試練と涙の世界から贖われ、主イエス様の恵みと喜びに触れつつ、永遠の神の御支配へと熱い期待をよせる信仰にあると学ばせて頂きました。

 

牧師に成り立ての頃に、塩屋の神学校校長、沢村五郎先生の「聖書人物伝」の「エノクの生涯」を読んで感銘を受けたことがありました。その文章をここでご紹介をさせて頂きます。

ここに少し創造を働かせることを赦して頂きたい。エノクは三百年一日の如く日々神と共に歩んだ。ある日神は少し足を伸ばして、未踏の地にエノクを導かれた。見よ、彼は珍しい国の中に足を踏み入れているではないか。清らかな花は微笑み、愛らしい鳥は歌う。御使いの調べの音さえかぐわしい大気をぬって漂ってくる。彼はすでに天の御園に来ていたのである。地上にあって信仰の目をもって拝見していたなつかしい主を、今は目のあたりに拝している。エノクの心は踊ったであろう。ふと顧みると、罪と汚れの毒気に包まれた陰鬱な地球がはるか下の方に見える。彼は今のかぐわしい環境と思い比べて、良くもあんな世界に三六五年も生活したものだと、身震いしたであろう。主は静かに「エノクよ、もう一度あそこに帰りたいか?」とお尋ねになったのではないだろうか。エノクは「いいえ主よ、ここを去らせないでください。ここで、愛する者たちがくるのを祈りつつ待っておりましょう。」と答えたであろう。地上の人達は、エノクが突然「いなくなった」のをいぶかって色々な噂をしたことであろう。・・・

 

聖霊の器、沢森五郎先生のように、主の臨在に触れて、御言葉を頂き、聖霊様の導かれる恵みの生涯を、共に歩み続けたいと思います。ハレルヤ

 

【祈祷】

恵みの主よ、あなたと共に歩み、死を突き抜けた信仰、天に移される信仰、神ご自身に喜んで頂ける信仰を自分自身のものとしたいと思います。エノクの年は365才。この一年、わたしどもも365日、主の臨在の日々を全うしたいと思います。お導きください!主の御名によって祈ります。アーメン